9話 再会
フォルトゥナは、絨毯の上に一歩ずつ足を進めながら、胸の中に広がるざわめきを押し殺そうとしていた。
――今日は、どこか遠方の伯爵が来客する。
そう聞かされていたのに、目の前の光景はどうしたことだろう。
「……っ」
息が止まった。
広々としたサロンの中央、窓から差し込む陽光が、見覚えのある人物を照らし出している。
エイドリック――。
間違いなく、彼だ。
けれど、かつての彼とはあまりにも違っていた。
仕立ての良い服がしなやかな体にぴたりと沿い、銀糸の刺繍が施された上質なジャケットは彼の落ち着いた気品を際立たせている。ベストのボタンはきっちりと留められ、ズボンにはセンターラインがくっきりと通り、磨き上げられた靴が光を反射している。
何よりも、彼の表情――。
少し前までの傲慢さや自堕落さはどこにもなく、引き締まった顔つきには、どこか迷いのない覚悟のようなものが宿っていた。
「見違えたわ……」
思わず呟いてしまったその言葉は、予想よりもずっと柔らかくサロンに響いてしまう。フォルトゥナはあわてて口を手で覆った。
エイドリックは、僅かに口元をほころばせ、けれどすぐに真剣な眼差しをフォルトゥナに向けてきた。
両親たちは、どこか複雑な表情を浮かべながら静かに微笑み、執事や侍女たちもそれに続いて頬を緩めている。そしてまるで最初から打ち合わせでもしていたかのように、サロンを一人ずつ退出していく。
「待って……!」
状況が理解できず、思わず両親たちを視線で追いかけるが、彼らは何も言わず、微笑みを浮かべたまま扉を閉じた。
フォルトゥナとエイドリックだけが残される。
静寂が、二人の間を埋め尽くした。
「これは……何……?」
戸惑いの言葉を発するより早く、フォルトゥナは驚いた。
目の前で、エイドリックが音もなく片膝をついたのだ。
「っ……!」
精巧に磨かれた靴が絨毯に沈み、その仕草には、かつての彼には決して似合わなかった紳士としての風格があった。
彼はゆっくりと頭を下げ、そして真摯な声で口を開く。
「――フォルトゥナ。まずは、謝罪させてほしい」
彼の言葉は、まるで深い井戸から響く音のように重く、けれど澄んでいた。
息を呑み、彼の姿を見つめる。
「……何を、謝るというの?」
震える声で問いかけると、エイドリックは顔を上げた。彼の目には、彼女を真正面から見据える真剣な光が宿っている。
「今までの、すべてだ」
エイドリックの瞳は揺るがず、真っすぐにフォルトゥナだけを見ていた。
「僕は……今になって、どれほど愚かだったか、ようやく気づいた。君のことを知ろうともせず、ただ自分の恐れや未熟さから逃げていただけだったんだ」
――恐れ?
その言葉に、フォルトゥナの眉が僅かに動く。
彼はなおも続ける。
「君の才能――視えるというその力が、どれほど孤独なものか。どれだけ、それを抱えて生きるのが大変なことなのか……理解しようともせずに、君を傷つけた。そして、逃げた」
フォルトゥナの胸が、静かに締めつけられる。
「……あなたが傷つけたのは、私のことだけじゃないでしょう?」
思わず絞り出した声は冷ややかだったが、その内側には確かな震えがあった。
彼は頷いた。
「ああ。その通りだ。僕は多くの者を傷つけ、失望させ、そして愚かにも、自分がしでかした罪によって恨みをかって呪われてしまった。でも、それがなければ僕は気づかなかった――君のことを、本当の意味で理解しようとする機会さえなかったんだ」
エイドリックの目が、真摯に彼女を捉えて離さない。
「ただ、伝えたかったんだ。いや、ちがう。君にもう一度正面から向き合うために、僕は帰ってきた」
――帰ってきた?
その言葉が、フォルトゥナの胸の奥に深く刺さる。
エイドリックは、ゆっくりと立ち上がり、フォルトゥナの前に一歩踏み出す。その動きに、フォルトゥナは少し驚き、足元が軽く震える。逃げるように少し後ろに後退してしまう。
「フォルトゥナ、一度、ちゃんと聞いてほしい」
彼の声は、以前とは違って落ち着いており、どこか力強さを感じさせた。彼の目が真摯にフォルトゥナを見つめ、言葉を続ける。
「最初は、君の特別な力を怖れていた。それが恐ろしい能力だと思い込んで、ただ君を遠ざけて、誤解していたんだ。君をほんの少しでも理解しようとしていなかった自分を、君と離れてからずっと、心から後悔している」
一歩、また一歩。彼はフォルトゥナに近づく。
「君が描いた彼女たちの姿が、僕に何をすべきか教えてくれた」
それぞれの女性に謝罪し、過去を清算していく過程で、エイドリックは自分自身と向き合った。
「僕はこの一年、各地を回りながら、すべての過ちを清算してきた」
その言葉に、フォルトゥナはほんのわずかに反応した。だが、すぐに自分を抑えて彼を見つめる。
「清算?それがどうして?」
エイドリックは深呼吸し、しばらくの間、言葉を選んでから続ける。
「僕は僕の罪にけじめをつけるために、君の描いた絵を手に、過去の自分と向き合い、関わりのあった女性たちに謝罪した。もちろん、それで僕の犯したことが消えるわけじゃない。僕がしたことの重さは、決して軽くはならない。だから、君の心を深く傷つけるようなことをして、その上でこんな風にだまし討ちのようにして君に会って、謝罪すれば許してもらえるだなんて都合のいいことは思っていない。けれど」
フォルトゥナの心が揺れ動くのが分かる。
「君の心を深く傷つけたということや、これまでのことに対して、僕は深く謝らなければならないと思ったんだ。フォルトゥナ、君には本当に取り返しのつかないひどいことをしてしまった。申し訳なかった」
エイドリックは、フォルトゥナが言葉を発するのを静かに待ちながら、深く息を吐いた。その言葉は、彼の心の中で何度も繰り返してきた謝罪の言葉だった。しかし、今、目の前にいる彼女に対してそれを伝えることが、どれほど難しいかを彼は痛感していた。自分がどれだけ深く傷つけ、迷惑をかけてきたかを、フォルトゥナの瞳に映る不安な表情が全て物語っていたからだ。
しばらくの沈黙が続いた後、フォルトゥナはゆっくりと口を開いた。その声は、どこか震えていた。