8話 丘の上で
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あれから一年の月日が流れた。
古城を見下ろす丘の上、フォルトゥナは筆を止め、遠くを見つめていた。
谷底から吹き上げる風が心地よく、彼女の黒髪をふわりと揺らす。涼やかな風が何もかもを遠くへ運び去ってくれたらいいのに――そんなことを考えて、彼女は小さく息をついた。
空には穏やかな雲が流れ、緑の草原が広がっている。美しい風景だ。けれど、今の彼女にとっては、その美しささえも色褪せて見える。
――エイドリックは、どうしているだろう。
ふと彼の姿が脳裏に浮かんだ。療養中、何度も熱にうなされ、荒い息をしていた彼の横顔。
そして、恐怖に凍りついたあの顔――あの瞬間が、今でも心に残って離れない。
あの後、正式に婚約は破棄された。
書類に署名する際、フォルトゥナの手は一切震えなかった。それでも、心のどこかで何かが途切れる音がした。
――それで良かったのだ。
誰もがそう言った。彼女自身も、そう言い聞かせた。
けれど、それからというもの、フォルトゥナの周りには奇妙な静寂が漂い始めた。
両親は彼女のために新たな縁談を探し、いくつかの家が候補に挙がったものの、なぜかいつも最後には立ち消えになってしまう。
「幽霊姫」――そう噂される彼女の存在が、どれだけの者の心を遠ざけているのか、もう分かっていた。
――不気味な娘。見えないものを見る者。
そんな言葉が、いつも彼女の後ろをついて回る。
「今日も、物見遊山の来客ね……」
幽霊が見えるという噂に興味を抱いた好奇の目。彼女をまるで見世物のように眺め、腫れ物に触るように扱う人々。
そのことを思うだけで、胸が重たく沈んだ。
フォルトゥナは静かに筆を置き、目を閉じる。風の音が耳に心地よく響き、自然だけが彼女を慰めてくれる気がした。
しかし、その静寂を破るように、遠く丘の下から何かが駆けてくる音が聞こえた。
「お嬢様――! お嬢様!」
彼女の侍女だ。白いドレスが風に舞い、必死に丘を駆け上がってくる。
「どうしたの……?」
まだ遠い侍女の姿を見つめながら、フォルトゥナは静かに立ち上がる。
何かあったのだろうか。
侍女の表情は遠目でも分かるほどに焦っている。
ひょっとしたら、来客の件かもしれない――そう思いながら、フォルトゥナはゆっくりと丘を下り始めた。