5話 昔の記憶
古い記憶が、熱に浮かされた脳裏にふわりと浮かんでは消える。
それは幼い頃の彼女の姿だった。
フォルトゥナ・パーディントン。
彼女は、まるで童話の中から抜け出してきたような美しい少女だった。
艶やかな漆黒の髪が絹糸のように光を受けて揺れ、その柔らかな髪に包まれる白い顔には、栗色の瞳が輝いていた。
まるで小さな野ネズミ――いや、もっと愛らしい何か、森の妖精のようにも見えた。
姿勢はいつも正しく、声は澄んでいて、微笑むその姿は、まさしく「お姫さま」そのものだった。
エイドリックはそんな彼女を、幼いなりに「綺麗だな」と感じていた。
家同士の付き合いも深く、彼は彼女の家の古城にたびたび招かれては、家族と共に優雅で特別な休日を過ごしたものだ。彼はその頃は確かにフォルトゥナが好きだったし、子供の淡い恋心と言われる種類のものを抱いていたかもしれない。
ある日――確か、彼が七歳、フォルトゥナは六歳の頃だった。
広いサロンの一角で、お茶会が開かれていた。
彼女の母が笑顔で紅茶を注ぎ、彼の母もそれに笑顔で応じる。彼女は子供用に用意された、小さめのティーテーブルと椅子に座り、自分の向かい側でいつものように小さなティーカップを手に、静かにお茶を飲んでいた。
だが――次の瞬間、フォルトゥナがふっと、誰もいない「何もない空間」に顔を向けたのだ。
「――どうぞ、お茶を召し上がれ。遠慮しなくていいのよ」
朗らかな笑顔で、彼女は誰かに紅茶を差し出す仕草をした。
執事も妙なこととは思わず、当たり前のように新しい茶器を用意して持ってきた。
その姿があまりに自然で、まるでそこに誰か本当にいるかのようだった。
エイドリックの瞳には、何も映っていない。
そこは、ただの空間――清潔に、明るく、美しく整えられたサロンの一角だった。
「……何をしているんだ?」
小さな声で問いかけた彼を、フォルトゥナはきょとんと見つめる。
「何って……お客様がおいでだから、お茶をすすめているのよ」
無邪気な声。
だが、彼には理解できない「何か」が、彼女の周りに漂っている気がして、背筋がぞくりと寒くなった。
何もいないはずなのに。
―――彼女には《《何が視えていたのだろう》》。
そう思うと、きれいだなと思っていた黒い瞳がとても怖くなった。
また別の日――。
エイドリックは、泣いていた。
大切にしていた犬が、突然死んでしまったのだ。
真っ白な毛並みを撫でることがもうできない。走り回る姿も見られない。
心の中がぽっかりと空いてしまったようで、彼はしょんぼりと、屋敷の庭先でうつむいていた。
そこへ、古城から遊びに来たフォルトゥナがやってきた。
彼女はいつも通り、静かに歩み寄ると、ふわりと微笑んだ。
「《《大丈夫よ》》」
彼女のその声が、あまりに綺麗で優しかったから、思わず顔を上げた。
「何が、大丈夫なんだよ」
「ここにいるわ」
フォルトゥナは、足元を指さしていた。
「ほら、あなたのジュニックは――ここにいるわ」
その笑顔はいつものように美しかった。
だが、その言葉を聞いた瞬間、彼の背筋に何か冷たいものが走った。
「――な、に?」
そう呟くと同時に、何かが彼の足元にふわっとまとわりつく感触がした。
毛のような、温かな――しかし「この世のものではない」気配。
「わっ――!」
エイドリックは悲鳴を上げて尻もちをついた。
恐る恐る足元を見るが、何も見えない。ただ、フォルトゥナが笑顔のまま彼を見つめているだけだった。
「なっ……なんだよ、これ……」
「ねぇ、エイドリック、大丈夫?」
フォルトゥナが心配そうに駆け寄って片手を差し出す。
恐怖と混乱がぐちゃぐちゃに混ざり合い、彼はその小さな手を振り払い、思わず叫んでしまった。
「――こっちに寄るな、幽霊姫! 気持ち悪い、化け物!」
フォルトゥナの表情が、ピタリと凍りついた。
黒色の瞳が、彼をまっすぐに見つめている――その瞳の中に、傷ついた色が浮かんでいると思った時にはもう遅かった。
その瞬間の彼女の顔が、脳裏に焼きついて離れない。
「化け物」と吐き捨てた自分の言葉が、耳の奥で何度も何度も反響する。
――それ以来、フォルトゥナは笑わなくなった。
いや、正確には「彼の前で」笑わなくなったのだ。
それまでの無邪気で無垢な彼女は、冷静で淡々とした「幽霊姫」へと変わった。
笑わない彼女の姿は、まるで深い湖の底に沈んでいるようで――彼は、それを見るたびに息苦しくなる。
そして今、彼はあの頃の光景を再び思い出していた。
(――何をしているんだ、俺は)
寝台の中で苦しみながら、彼は微かに唇を噛んだ。
フォルトゥナの「視える瞳」が怖かったあの日。
彼女の優しさを、受け止められなかったあの日――。
それでも今、寝台の向こうで彼女が何かを考えながら、自分を見つめている気配だけはわかる。
ただ、エイドリックはその顔を見返すことができなかった。