生前退位
思わず、龍博はのけぞりそうになった。生前退位! 確かに明治になるまで行われていたはずだが、今は皇室典範では亡くなるまで天皇のはず、こんな核兵器なみの爆弾が落とされるとは。
見れば全員目を見張っている。だが、やはり、あまりピンと来ていないやつが約一人いる。やっぱり赤羽幸雄だ。こいつは無視しよう。
高瀬隼人が手を上げた。
「恐縮ですが、今のお言葉は、我々のような若輩ものに依頼されるようなものではないと思います。皆若いですし、多分社会的地位もありませんし」
陛下は静かに言った
「失礼ながら、あなたがたのことは調べさせてもらいました。もちろんプライベートは知りません。だから私の知る、あなたがたのキャリアは公式のものです」
すると長官が口を開いた。
「青柳龍博東大法学部卒、国家公務員一種試験をトップで通り財務省主計局に配置、がしかし三年前、主計課長に、「プライマリーバランスとMMT的財政政策の融和の可能性」というレポートを提出したが、即内閣官房広報課に飛ばされた」
幸雄がびっくりしたように言った。
「財務省で、それやったの。だーめだな」
こいつ変なこと知ってやがると龍博は思った。だが美里も続けた。
「カトリックの前で、プロテスタントを論じるようなものね」
長官は続けた
「高瀬隼人、国家公務員一種試験を優秀な成績で合格し、警視庁刑事部に配置、二年前捜査一課管理官時に捜査会議を全く無視、単独捜査で被疑者逮捕、そして広報課に配置換え」
「すごいね警視庁で単独捜査なんて、勇気があるというか、無謀というか」
これはもちろん幸雄の言だ、隼人は黙っている。
「赤羽幸雄、㈱イメージ・クリエイティブ社長、たびたび違法画像作成容疑で警視庁で取り調べを受けた経歴あり」
「あんたもたいがいね。人のこと言えないでしょ」とは美里。
「逮捕はされてないよ」と幸雄。
「白石由紀子、五年前までは大手広告代理店に勤務、企画推進グループにいたところ、上司を投げ飛ばして退社。現在は広告会社ミューズ経営」
「へーおねーさん、すごいね柔道でもやっているの」
由紀子は静かに、しかし凄みのある声で、
「三段です」
皆静かになった。
「緑川美里 外資系弁護士。司法試験後は裁判官、三年前弁護士に転身」
「へーなんで弁護士になったの」
「儲かるからよ」
まあ納得するわな、龍博も弁護士になればよかったと思ったことがあるから。それにしてもイレギュラーズばかりだ。この面々で、天皇の生前退位について考えろなんて、多分イルカに言葉を教えるより難しいだろう。
「僕も公式に、そんなことは頼まない。逆を言えば官公庁が考えることなどたかが知れている。君たちはイレギュラーズだ。そして、ある意味で陛下の生前退位もイレギュラーだ。通常の政治的発想では潰されるかもしれない」
「まあ、現内閣では考えもしないでしょう」この隼人の言には龍博もうなずく。
陛下が静かに言った。
「私は今の憲法の平和主義を支持するものです。その証にさきの戦争地の慰霊の旅を続けてきました。だがなかなかにこの年齢になって難しい。ゆえに、それだけではないのですが、生前退位を考えたわけです」
「陛下、あとは私たちが話し合うので、おまかせください」
陛下はうんとうなずき、
「私は若者に期待しています、これからの日本を支えるのはあなたがたです」
四十すぎの俺も陛下から見れば若者かと龍博はまんざら悪くないと思った。陛下はそういうと静かに立って部屋を出て行った。重い課題を残して。
龍博はほっとした、こんなに緊張したのは初めてだ。すると長官が皆を見回した。
「状況は知ってもらったことだろう。私が私的に諸君を集めたのは、陛下の意思が生前退位であり、理由は平和主義の天皇として、何を行うべきか熟慮されたからだ。これだけが諸君の行動の指針だ、それ以外は諸君は自由だ。というか足かせの多い、政策会議なぞに諸君は鼻から関わらないだろう」
龍博は苦笑して言った。
「まあ、訳ありの連中みたいだし、一見まともな緑川さんも裏に何があるやら」
美里はにっと笑って。
「まあ、日本の弁護士の世界なんてまっぴらだから外資に行ったのよ。白石さんはなんで投げ飛ばしたの」
白石由紀子は短く答えた。
「セクハラ」
おーという顔に皆なった。女性陣はハードボイルドだな。
隼人が前のめりになった。
「すると我々は自由に話していいということ、また原則的に、まとまった話は陛下に届くということですね」
長官は頷いた。
「では、ここから出て行くことも良いわけですね」
「もちろんだ、ただし、此処での出来事は墓場まで持って行ってくれ。諸君の中で出て行きたい人は自由にしてくれ」
龍博は出て行かない。出てゆく人間はいなかった。どうやら皆乱世の奸雄らしい。
隼人がでは、と、
「一応皆の意見をとりまとめて陛下に伝える者が必要です」
すると長官が頷いた。
「それについては青柳君にお願いしたい」
俺! 龍博はまた仰け反った。
「それは何故ですか?」と隼人が聞くと、
「一応年長者であるし、青柳君は先ほど披露したように、財務省にかみつくほどの度胸もあるし、頭も悪くない、なにより」
「なにより?」とは赤羽幸雄だ。
「私の見るところ器量がある。いずれ財務省の中枢にいなければならない人材だと私は思う。MMTは少し勇み足だったな。欠点はかなりずぼらだ。その点は皆が尻を叩けば良いだろう。なので青柳君よろしく」
長官はにこやかに言うが、なんでまた俺がまとめ役なんだと龍博はココロのうちで思った。
「なんにせよ、リーダは必要、長官が青柳さんが良いというなら私はとりあえず賛成」と白石がさらっと言った。とりあえずか。
緑川美里も手を上げて、
「私も、とりあえずYES」
隼人は手を組んで、面白くなさそうな顔をしてる。ははん、こいつ財務省が嫌いなんだな。だが、
「YES」と言った。
残りは、赤羽幸雄。
「はは、僕は、そういう話得意じゃないから、みんなに任せるよ」
とことんテキトウだな、こいつ、さて能力はどうかだな。
「まあ、リーダーというよりはマトメ役だな」と長官。
いやいや猛獣使いでしょ、これは、と心の中でツッコミつつ、龍博はもじゃもじゃ頭をかきつつ思った。
「はは、まあ、そのなんというか、とにかく皆の率直で素直な意見を聞きたいな」と柄にもない言葉が出た。率直で素直な意見というのは日本語としてどうだろう。
美里が手を上げた
「陛下のご意思は、生前に天皇から退位したい。理由はご健康と憲法の平和主義、時期はまだわからない」
幸雄が口をはさんだ
「健康というのはわかるよ、でも平和主義ってのはよくわからない」
隼人が突っ込む。
「お前、戦争史とか、憲法読んだことないだろ」
隼人の言は初見の人間にはかなり失礼だが、幸雄はまったく気にしないらしい。なので。
「ハハ、読んだことない」とへらへら答える。
「ガダルカナル、フィリピン、シンガポール、インパール。沖縄の太平洋戦史を読んでみろ。敵、味方、現地人の死者がいったい何十万か、何百万か、陛下はそんな戦場に慰霊の訪問を続けておられる。それが体力的に無理になってきたということだ」
「へええ」
「お前な、インパールでは人肉食ったという話もあるくらいなんだぞ。少しは読んでみろ、そして憲法読んでみろ。陛下の気持ちが少しはわかるだろ」
「はいはい」
こいつ絶対読まないだろ。
由紀子がすこし言葉を選びながら聞いた。
「陛下の時間が少ないということはないですね」
長官が答えた。
「その答えはこのような場所で言うことではないが、陛下は健康だと言っておこう」
美里が弁護士らしいことを聞いた。
「皇室典範を変えるということではないですか」
「まだ、そこまではいってはいない。緑川君はこのグループが法的に間違ったら、そのこともチェックしてほしい」
「そのことも?」
「君のもう一つの顔に期待したい」
ふーんやっぱり緑川美里も訳ありか、面白いな。
白石由紀子が言った。
「すると、陛下がおっしゃったように国民が生前退位を発表したとき受け入れやすい土壌を作る。情報操作ですね」
長官はにこやかに答えた。
「情報操作というのが、自分たちの開発した商品を製作販売する前に市場調査や宣伝企画のための情報発信をいうなら、そうだろう。だが白石君、それはあなたの専門ではないかね」
由紀子はにやりと笑った。
隼人が前のめりになった。
「私の役目は何ですか」
長官がゆっくり言った。
「陛下の生前退位は、多分現内閣の良しとしないところであろう、必ず、強引な手を使っても潰しにかかるだろう。内閣情報官と内閣情報調査室、警察庁、警視庁のトップを使うことになるだろう」
「なるほど、スパイですか」
「言い方はいろいろある。なお、このことは内閣そのものにも言えることではある」
なるほど、俺の重要な役はそれかと龍博は思う。そして長官が権力の中に入りながら、その意志とは反する行為も覚悟しているということだ。
それにしても二〇一二以来の現内閣は腐っている。これは身をもって知ったことだ。
だいたい今の首相は八年前に第一次内閣を二〇〇七年に病気でやめている。それも所信表明演説を行っておきながらの退陣である。これも噴飯ものだが、この第一次内閣の各大臣は、たった一年の間にろくでなしが四人辞任している。その前首相が五年後しれーと総理大臣に再度なったわけである。就任二年目に消費税アップ、今年は安全保障法案と、まあ手早くというか、強引というか、いろいろ物議をかもしているが、龍博が一番気に食わないのが経済政策である。日銀が市中銀行を通して国債等を大規模に買い、企業投資を促進するという積極財政の一方で、財政健全化のために一般市民の税金を増税するという二律背反の政策をとっているということだ、簡単に言えば日銀が国債を買って、実質上お金を市場に供給して需要を刺激するという政策をとりながら、本来好景気に行うべき大増税を行うという、まったく反する行動を政府は行っている。だからそうならば、国家が紙幣発行権を独占している限りインフレ率が2、3パーセントになるまでお金を刷っていい。刷ってばらまけというMMT理論を政策的に行えというレポートを龍博が書いた。これが財務省の逆鱗に触れた。財政健全化は財務省の錦の御旗だ。龍博は賊軍となったのである。
だが、プライマリーバランスにしてもMMTにしても現実に動いている一部を抽出して構築された理論に過ぎない。人間は常に流動している現実のすべてを捉えることはできない。だから理論は抽出である。資本主義にしろ、共産主義にしろ、理論である以上、絶対はあり得ないのである。絶対と思わせているのは政治が作り上げたプロパガンダに過ぎない。ならば理論を現実化するのは政策であり、使える物はMMTでもプライマリーバランスでも資本主義でも社会主義でも使え。というのが龍博の考えである。
だが、客観的にみれば、世の中正しいものが強いのではない。強いものが正しい。正しいとは本当は何かということは残るが。事実は龍博が財務省を追い出されたということである。だが、のんきに広報活動をやっている場合ではなさそうである。気に食わない政府の広報をさぼることで、なにがしかの利益を国民に返しているという阿呆な生活とはおさらばらしい。
天皇陛下生前退位か、うん、待て、つまりそれはどういうことか意思統一を図らなければならない。こんな超ド級の事柄を扱うのが一人ではなくグループならば、意思統一は絶対にしなければならない。
「長官、天皇の生前退位の最後はいつになりますか」と龍博が聞くと、
「二百年ほどさかのぼる。千八百十七年光格天皇が仁孝天皇に変わったときだ。だから、これは完全に歴史上のことだ。参考にはならない」
そんなに昔なのか、改めて事の重さを感じる。
美里が手を挙げた。
「皇室典範では、どうなっているのでしょう。確か退位の規定は無かったと記憶しますが」
長官はうんとうなずいて、
「そのとおりだ。天皇の位は世襲とされ、退位の規定がどこにもない。したがって現天皇が変わるのは亡くなったときだ」
長官の言に美里が、
「そうすると、生前退位は法的な問題が生じる」と言った。
これで法的な問題があるということが共通認識になった。しかし、美里が眼鏡の奥の瞳を煌めかせた。
「長官は、まさか私たちに法的な問題を考えさせるわけではないですよね」
長官は、それについては答えず、美里に聞いた。
「君が内閣法制局長ならどうかね」
んっと美里はしばらく考えていたが、ゆっくり確かめるように言った
「健康状態が理由ならば摂政を置くというのが一番無難です」
長官がうなずいた。
「憲法上も問題にならないし、そのほうが良いとは言える」
美里はハッとして顔になった。
「が、陛下は、その気がない」
長官が厳しい顔になった。
「その言葉なかったことにしよう」
陛下が憲法上の摂政を考えてないなら、これは大きな問題だな。つまり陛下は憲法上に存在しないことを行おうとしている。
これは長官、難題を突き付けたな。
「法や規則によって国家は動く、だが、国家は世論によっても動く。諸君には、その世論の部分を考えてほしい」
この長官の言葉を信じるとすれば、マーケティングや映像のプロを集めた理由になる。
「つまりさ、陛下が正式発表する前に、生前退位っていうのを宣伝しちゃえということでしょ」と言ったのはもちろん幸雄。
由紀子が形のいい頬を細い指で撫でながら言った。
「もちろん、そうあからさまに宣伝するわけにはいかないわね。結局。一般論として、体が丈夫なうちに後継者にゆずりたいといことをさりげなく刷り込む」
「だけどさあ、陛下は何歳?」
長官が答える
「八十一歳になられる」
「天皇って、忙しいの」
すると幸雄の後頭部に美里の平手が命中する。
「天皇陛下!」
「いてっ、だからさ一般企業でそんなになるまで、忙しく働かないでしょ。周りも引退っていう空気を出すよね」
長官がうんと頷いた。
「そうつまり空気だ。良し悪しは別として、世論というのは結局、そういう空気で動く。そういう空気を、いわばイメージを作って売り込むのが白石由紀子と思うのだが」
由紀子は軽く頷いた。
「そうですね。ことがことなので、今言えるのは、派手な宣伝はできませんね、なんとなく、これいいかもって思わせる戦略ですね」
もう打ち合わせになっている。幸雄と由紀子は、完全に乗り気だ。すると隼人がぼりぼり髪をかいた。
「俺の居所がなさそうだな」
由紀子が反論する。
「そうじゃない、ことが商品なら、高瀬さんの出番はないかもしれないけど、これは超シークレットよ、秘密の行動をやり抜くには犯罪者か警察の力が必ず必要よ」
「やっぱり俺は番犬か」
長官が笑った。
「高瀬くんは優秀な番犬かつ、君のいる部署の広報は都合がいい」
「僕に上がる情報は、犯罪がらみのものは一切あがってきませんがね」
幸雄が「へー」と言って、
「どんな情報が高瀬さんにあがるのさ」
こいつ完全にため口だ。
「アイドルの一日署長とかだ」
「へーうらやましい」
「かわってやろうか」
美里が間に入った。
「漫才は止めて。高瀬さんに聞きます。真面目な話、管理官で犯罪を単独で解決なんて、結局、優秀だからでしょ。ぶっちゃけ、高瀬さんはどのくらいの警察の情報つかんでいるの」
「まあ、言えるのは、今の警視庁、警察庁の幹部は内閣とずぶずぶだよ」
「誰がまとめているの。まさか官房長官というのではないでしょう」
「その下にいる人」
「誰よ」
「内閣情報官」
あーという声が自然に出る。宮内庁長官はにこにこ笑っている。すかさず龍博が口を開いた
「まあ、とにかく今日は何を話すにも雑談にしかならないだろう。俺も、皆も考えをまとめたいだろうし、次のミーテングで話すべき事柄を考えておいてくれ」
すると宮内庁長官が手を挙げた、
「すまないが、此処での話は一切メモを取らないでくれ、また誰にも秘密なのはもちろんだが、一切のノート、日記、備忘録も残さないでくれ。一切は頭の中に叩き込んでくれ。ここにいる人間は、それができるはずだが」
なるほど、一切の痕跡を残さないか。だが、それは何かを我々が為したとしても、我々はいないというわけだ。ハハ、まるで忍者だな。だが、宮内庁の全部が長官の味方ではあるまいと龍博は考える。宮内庁は長官、次官がいるが、次官が次の長官だ。長官、次官の仲が良いとは限らない、いや所詮官僚が腹を割って話すというのは稀有のことなのだ。この異例の出来事で、多分、長官は辞職願をポケットに入れていることだろう。
「では諸君、また追って連絡する。考えをまとめておいてくれ」
幸雄が手を挙げた。
「またこんな早い時間なんですか」
長官は笑って言った。
「いや今日は陛下に合わせた。よってこれ以降は深夜になるだろう。つまり多分週末だな。言うまでもないが陛下は、原則出席しない。私も難しいだろう。秘書の朽木というものに任せる」
幸雄がほっとしたように言った。
「おお、良かった、今日は眠くてさ」
龍博もほっとした。今日ほど緊張したことはない。だが、原則的にというのが気になるが。
長官は笑いながら言った。
「この会議をESPと名付けよう」
龍博がほうと息を吐いて、聞いた。
「何の略ですか」
「EMPEROR・SECRET・PLAN。陛下の秘かな計画だ」
「すると私たちは陛下の孫ですね」
「ほうGRANDSUNだな」
ESPの記念すべき最初の会合は、こうして終わった。最後に長官が「君たちには、それなりの報酬は考えている」と言った。まあ地獄の沙汰も金次第だ。