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新宿の龍

 夕方に東京の各地で雷が轟いた。夏の夕によくある雨だった。といいたいところだが、東京は土地の広さは大きくはないのに、青空と曇り空が並列する、この奇妙な現象はなんだ? 龍博が上野で山の手線に乗る時、上野公園あたりは確かに晴れていた。光ともに緑の電車は発車したのに、新宿近くになると暗雲が広がり始め、ついには稲妻の光が天から煌めいて、電車の窓に大粒の雨を叩きつけてきた。暗い夕方がいきなり出現した。ゲリラ豪雨である。いつから雨がゲリラになったかははっきりしない。なんとなくテレビ局のお天気お兄さんやお姉さんが言い始めたような気がするが、自信を持っては言えない。


 こいつは雨などという穏当な代物ではないなと思いながら、文字通りシャワーのように大粒の水の塊がアスファルトの道に叩きつけられる様を眺めながら、基博は思った。こいつが半日続けば、新宿は運河の街に様変わりするだろうな。駅の中に突っ立ったままの大勢の人の顔は、何だこれはと言う顔になっている。だが運命は運河ではなく、一時間くらいで雨はあがり退屈な、またしても、うだるような熱帯夜が始まった。


 新宿区役所でひと仕事して、ゴールデン街に足を向けたのは午後九時近かった。まったく十時四時が信条の俺がこんなに残業するのは、まったくもって新宿がもはや日本本土とはいいがたいからだ。

日本人、在留外国人(いろいろな国がある)不法滞在外国人、生きているんだか、死んでいるんだか判然としない人々。働き方もいろいろな形態がある、サラリーマンから、飲食店、いわゆる酒を提供する店、接待を伴う飲食店、風俗、中小の会社、西口の巨大企業、

まったく無いのは農業である。つまり新宿は巨大な消費地帯なのだ。一通の文書を送付するにも極端に言えば、その人が絶対生きているかどうか判然としない。こんな街の行政は煩雑を極める。ゆえに時間がかかるというわけだ。


 区役所を出て、一服とはいかない。風俗を生業にした街のくせに、煙草を吸う人間を見る大勢の目はトテモ厳しいのである。まあ、区役所とゴールデン街は目と鼻の先である。実は、これが何となく腑に落ちない。なんとなれば新宿区役所通りは、黄金の風俗ストリートだからだ。右を見ても左を見てもキャバクラやホストクラブのネオンサインが煌々と昼間から輝いている。こんなに官公庁が似合わない街もないだろう、と思うわけだ。龍博は、もちろんキャバクラに行く金は無い。一回くらいは何とか払えるだろう。だが、ボトルを置いて、常連面をしてきれいなお姉さんを侍らせる金などない。局長くらいになれば可能だろうか、局長になったことは無いし、本当のところ、どれくらい札束を積めば常連になれるか分からない。また財務省局長が、どれくらい財務省に群がるいろいろなー平たく言えばハエに威光をおよぼすことができるか知らないから、結局キャバクラに龍博は足が向かずに、学生時代から知っている裏通りに、まあこれでもかという狭い敷地に身を寄せ合っているゴールデン街に行くわけである。


 オンザロックのコップの中の琥珀色に見える液体をゆらしながら龍博は口の中で小さな氷を奥の歯で齧った。

 横でNHK記者副島雅子が天井を向いて、紫煙を吐き出した。とても横柄な態度であるが雅子は存在自体がオウヘイなのでいたしかたない。


 天井を向いたままで、雅子が聞いた。やっぱり横柄だ、この女。

「2.26と終戦の聖断か。確かに2.26時の天皇の決断は、あまり知られていない。一方終戦は中学生でも知っている、かもしれない。だがこの二つの決断は昭和天皇の思考が見えてくる。そして今上天皇の平和主義の理解が進む、かもしれないってこと?」

「まあ、簡単に言うと、そういうドキュメントをある制作会社が作ろうとしているという話だ」と龍博。

「なんでまた2.26?」

「その制作会社が宮内庁にパイプを持っている」

 と少し、事実の端を匂わせる。雅子がえ? と聞いた。やっぱりくいついた。

「宮内庁の要望なの?」

 龍博は首を横に振る。

「まさか、ただ制作会社の責任者が突飛な奴でな。こういう話を作ってはどうかと宮内庁の関係者に言いふらしている」

 幸雄の童顔を思い浮かべながら、あれは突飛ではなく、非常識というんだが、まさかそんな本当のことは言えない。

「なんだか、あやふやな話ね」

「まあ、俺も、どんなものになるかはわからんが、奴には借りがある」

「借り? 龍博くんが」

「ああ、バカラでな。俺は麻雀以外、賭博の才能は無いらしい」


 嘘である。まあ、この辺は人の縁と言うものはほんのちょっとのことだから、こういう縁をでっちあげてもバチはあたるまい。それに幸雄とのコネとなると、こういうことしか思いつかなかった。

「まあ、企画書次第ね、それで面白そうだったら、プレゼンしてもらうっていうのが、今言えること」

「おお、そうか企画書読んでくれるか」

「まあ、それが仕事だから」


 雅子は、あんまり乗り気ではなさそうだが、後は由紀子と幸雄の腕次第だ

 雅子が灰皿に煙草の火を落とすと言った。

「例の強姦男B氏のこと、どうやらAさんに弁護士ついたみたいね。なんでも外資系のばりばりの弁護士だって、なんでまた、そんな弁護士、どっからふってわいたんでしょうね」


 さすがに鼻は利くな。別に知られて悪いという話ではないが、あとで美里に教えておこう。NHKを味方にするのは悪くない。まあ、美里と俺がどんな関係で知りあっているのか気が付く人間は、多分一億の日本人の中で誰もいない、なのでちょっと探りを入れてみるか。

「へー外資で弁護士なら、MAMとかだろ」

「そうなのよ、Aさんは、そんな外資に払うギャラなんて持っていないと思うけどね。っていうかほとんど持ち出し、よね」

「そこはことがことで正義に燃えてとか」

「そんなアンパンマンみたいな話はないよね。なんか裏があるかな」

「雅子はリアリストだね、やだねージャーナリストの理想はないのか」と龍博が言うと、

雅子は一杯オンザロックを飲み干して言った。

「そりゃ、私だって、あったわよ、私にも理想は。でもね、スポンサー縛りのないNHKなら、ある程度、真実に迫るニュースを発信できると思っていた、けど、それは幻想に近かった。特に最近はどんどん政府広報に成り下がっている」


 もしかしたら、今俺たちは自分たちの国が劣化する様を見ているのかもしれない。戦後、日本は戦争も飢餓が出るような経済破綻も経験していない。だが、それは単に日本人が幸運だったということかもしれない。


「関西で、火がつくかもしれない」と雅子

「関西で? どんな火だ」と聞く龍博

「国有地払下げ」

「ほう、そいつは大きい話だな」

「ええ、相場から約十億の値引きで叩き売った」

「ハッ十億とはね、いやはや庶民には縁のない話だな」

「青柳君も財務省で出世すれば縁があるかもよ」

 龍博は憮然として言った。

「まったく興味が無い」

 雅子は笑って聞いた・

「興味が無いのは出世?お金?」

「残念ながら両方だ、人間、分をわきまえないとね」

「でも中央官庁にいる限り、避けられないわよ」

 龍博は煙草を一本咥えた。そして煙草に火を点けて紫煙を吐いた。

「なあ、俺はどうすればいいのかな?」

 雅子が聞く

「どうすればじゃなく、何をするかじゃない?」


 龍博はふっと笑った。

「ママさん」

 それまであっちを見ていたジェーンが龍博を見た。

「何?」

「俺は学生の頃、やくざみたいに見えたって言ったよね」

「そうね」

 雅子が聞く。

「学生やくざってどんな人?」


 ジェーンは笑って答えた。

「そうね、もう二十年くらい前よね、歌舞伎町に突如現れた、天才雀士、青柳龍博、誰が呼んだか人呼んで新宿の龍。長髪で無精ひげの、よれよれシャツとズボンで少し猫背の、そうね眼だけはギラギラしていたわね。普段はしょぼしょぼしてるのに、雀卓での迫力は本物のやくざさえびびってたわよ」


 新宿の龍か、そう言われるようになったのは何時か、教えてくれたのは、新宿の雀荘で知り合った、この人まさか男? と思わせる、当時ニューハーフと呼ばれる人達たちの仲間ジェーンさんだった。龍博が学生だったから、もう二十年以上前になる。龍博の家は、そう裕福ではなかったから、国立の東京大学に進学しかできなかった。そして入学金をかろうじて払ってもらい、授業料、生活費は全部麻雀で稼いだ。実は初めからそのつもりで、高校三年間に受験勉強と同時に麻雀を研究しつくした。そして地元の麻雀好きの大人で高校三年生の龍博にかなう人間はいなくなった。


 結局龍博に賭才があったのだ。賭け事はチャンスを見逃してはならない。そして徹底的に非情になる度胸が必要だ。それが先天的に備わっていた。スポーツと同じである。スポーツや武道で秀でるには基本的に才能がなくてはならない。才能の無い者がいくら努力してもダメなのだ。プロスポーツであろうと、武道であろうと、将棋であろうと、麻雀であろうと、非情なまでに才能の無い者はぜったい勝てない。あとは運である。龍博は上京後初めて十万を持って新宿の雀荘で百五十万を得たことは、まったく運がいいとしか言いようがない。その雀卓には百万や二百万の金を何とも思っていない人間ばかりだから、これも運がよかった。もし本物のやくざだったら、龍博が負けるまで、雀荘を出ることはできなかっただろう。そして、龍博が初めて負けたのはやくざだった。その時、龍博は昼間に雀荘に入って、解放されたのは、まる一日後だった。

「にいちゃん、これに懲りて、フツーの学生さんに戻りな」とやくざは言った。それで勘弁してくれたのだが、龍博はあきらめなかった。そのやくざに再挑戦したのだ。

「にいちゃん、今度負けたら金ではすまんで」

 やくざの言葉に龍博はひるまなかった。すると、

「にいちゃん、負けたら、指詰めてもらうが、いいか」


 このぞっとする話にも龍博はひるまなかった。あの時の心境はよく分からない。そんな勝負やる方がどうかしている。ここは帰って、おとなしく家庭教師などのオントウなアルバイトを見つけるのが普通だ。だが、分かっていて、どうしても負けたくなかったのだ。後で知った東大紛争のときに安田講堂に立てこもった学生の気持ちが分かったような気がした。理性が止めろと言っているのに、それを上回るパッションがあったとしかいいようがない。若いとは恐ろしい。そして、やくざの荒井三郎という相手との果ての無い戦いを止めた人間が居た。やくざの親分である。戦いが二日目になって、もうどちらも引くに引けない戦いを、村岡組の親分が待ったをかけた。親分の村岡実は言った。

「ここは学生さんの度胸に免じて、引けや」と言ってくれた時、やくざの荒井がほっと息を吐いたのを龍博は見た。荒井もまた人間だった。

「兄さん、気に入った。まあ博打はほどほどにな」と村岡親分は笑いながら言った。

 その日、部屋に帰った龍博はまる一日起きなかった。

 その日を境に基博は、新宿の龍といつか呼ばれるようになっていった。


 そのあと、あの日のような勝負は、一回だけを例外としてやってはいない。やばい人間とそうでない人間の見分け方を少しずつおぼえるようになった。人間は基本的に弱い者に強く、強い者に弱い。これは事実である。ただ強きが何か、弱きが何か、まったく人によって解釈が違う。人は自己意識をもつ生物である。人間以外の生物が自己意識を持つかどうかは今のところ分からない。そして自己とは他者と切り離された自己としての存在である。だから人間にとって。共有できる存在は他者として認識できるが、それはやはり自己とは異なる存在である。これは今のところ、動物も宇宙人も同じ事情である。つまり人間全体は多様存在であるから、相手をよくよく観察して、何回も確かめない限りお互いに分かり合いなどはできない。若いうちは自分が世界と同一であると思っているから、何でも思い通りになると思っている。若くなくても、しばしばそういう人がいる。だが残念ながら人間はひとりっきりなのである。理性と想像力でお互いを知るしかない。


 龍博はそういうことを麻雀という修羅場で知った。大学で知る知識など、東大であろうがなんであろうが、たかが知れている。知識と言うのは人生が終わるまで学ぶものであり、原動力が想像力である。

 なので、相手がいけいけのやくざだったら、なるべく、プラマイゼロに持ってゆく。金に困っていない人ならふんだくる。ことはこんなに単純ではないが、後は出たとこ勝負である。そうやって、二年間、龍博は授業料と生活費をバクチで稼いだのである。普通の東大生では、こんなことはできないが、基本睡眠時間三時間で乗り切ったのだ。今同じことをやれと言われても龍博はできないと思う。


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