第七十話 悪魔令嬢は幸せを掴みたい
聖女の結界はなかなかに強固で、アニスの力でこじ開けるにはちょっとばかり無理がある。
だがそれも、もう一つの雷帝の園を発動させ、その中にアニスが入って聖女の結界にぶち当たれば、あっさりとそれは崩壊してしまった。
古代魔導兵器おそるべし、だ。現代の聖女の力が、こんなにもあっけなく崩されるなんて……。
窓ガラスを開けて室内に潜入すると、さっきまでぎゃあぎゃあと聞こえていたリンシャウッドの野生の咆哮は、火が消えることで疲れ果てたのか、静かになっていた。
聖女シオンライナは、女神との接続を断たれ、普通の人になった感覚があまりにも恐ろしいのだろう。
ありとあらゆる能力、ありとあらゆる感覚を剥ぎ取られてしまった人は、死にたいという思いに駆られるという。
「どうですか、聖女様。私をうまく使ってローズ・ローズの新芽を発芽させた気分は? あ、あれは偽物の肉体だった」
「……あなた! どうしてこんなこと」
「色々知ってしまったからです。正確には、あなたたちの情報管理が甘すぎた。あと私のこと舐めすぎ。だからこんな風になるんです」
「待って! ちゃんとあなたのことを助けたじゃない!」
生き返らせてやっただろ、みたいな押し付けがましい発言をされても……何も嬉しくない。
むしろ、あんなことをしてすまなかった。ぐらいの発言があってしかるべきだ。多分ないだろうけど。
だから、実力行使に及ぶことにした。
「見てくださいよ聖女様。あなたの大好きな恋人。それとも妻? それとも旦那様? まあ、どうでもいいんですけど。大事な尾を焼かれてもう死にそうなくらい、青ざめていらっしゃいますね。このまま、あの結界を縮めたら、どうなるのかしら」
「なっ!」
「私一度見てみたいんです。結界に閉じ込められた人間が、術者の思惑一つで結界を小さく小さく小さく小さくされてしまって、とうとう耐えられなくなって、肉体は粉みじんになり、ミンチ肉みたいになったら、どんなに可哀想なんだろうって」
「……狂ってる」
「失礼なこと言わないでくださいよ。私が狂ってるんじゃなくて、こんなふうに怒らせるようになるまで、あなた達が私を弄んだでしょ? 私と私のエリオットを!」
バスっ、と鈍い音がした。
聖女の顔が苦悶に歪む。アニスは魔力そのものを弾にして、シオンライナの四肢の関節を撃ち抜いたのだ。
抵抗できないように。
「あなたは聖女様。不老不死にして女神の力を、この世で使うことができる唯一の人。この程度の怪我なんて、私がいまかけている術を解けば、すぐに癒される。それもわかってる。あなたにこんなことをする愚かさも理解してる。
でもあなたは多分、解放されても私たちを恨むかもしれないけど、報復しようとは思わないはず」
「不思議な自信ね。……どうしてそんなことが言えるのかしら。圧倒的不利なのはあなたなのですよ?」
「ああ、それは簡単です」
アニスはパチンと指先を弾いた。
すると、それまでリンシャウッドを覆っていたオレンジ色のそれが、小さく縮小していく。
「やめて!」
「大丈夫ですよ。ミンチになんてしないから」
聖女シオンライナは最初に告げられた拷問の内容を思い出して、思わず悲鳴を上げた。
彼女の脳裏では、次の瞬間、愛する女性が粉々に潰されている光景が浮かんでいたのだ。
「雷帝の園は、別に体の外に展開しなくてもいいんです。小さく、どこかの臓器。その周囲に展開してやっても、拷問器具として効果を発揮するんですよ」
「……悪魔め。あなたみたいな非道な女、私は見たことがない」
「褒め言葉をどうも。私がされたように、リンシャウッドの心臓に、私の呪いをかけました。あなた達がこの国を去るまで、もし私が危険な目に遭うことがあれば、彼女の心臓は潰れるでしょうね。あなたはもちろんすぐに再生するだろうけど、そしてそれは間に合うでしょ。でもあなたは目にするはずです。最愛の存在を殺してしまった。それは自分に責任があり、また同じことにもなりかねない、って」
「悪魔! 私はあなたを救う必要なんてなかったのに!」
「私の肉体を使ってもちろん偽物ですけど。密輸を成功させようとしている、そんな闇の聖女様に言われても困ります。それにほら、黒狼を癒してやったらどうですか? 恐ろしさのあまり、死の恐怖に打ち震えてしまって、言葉すら出せなくなってる」
「そんなっ、リンシャウッド! ねえ、あなた! リンシャウッド、しっかりして、ねえ!」
聖女の悲痛な呼び声が黒狼の耳に届いているのかは定かではない。
彼女たちがおとなしくこの国は出ていけば、魔導具の呪いは発動することなく、消え去ることだろう。
「聖女様、ローズ・ローズの新芽を差し上げます。その代わり、この二つの魔石はいただいていきますから」
「そんなっ、だめよ! その中には、リシェス様が望んでいる精霊が!」
「その女神様は、この魔石の中に封印されている、聖なる炎の精霊を召喚した聖女様が仕えていた女神様とは、まるで別の神様だって、ちゃんと聞いていますから。責任を持って帝国に戻しておきますね」
「この……どうしてこんなことするのよ。あなたが静かにしていれば、全てうまく終わったのに」
「どうして? だって……私に向かってくるから。言ったでしょ。私は最後に魔弾ですべてを弾くって」
ひぐっ、とこのとき始めて、リンシャウッドと聖女シオンライナの瞳に、アニスに対する恐怖心が芽生えた。
アニスはその様を見て、ようやく留飲をおろしたのだった。
* * * *
その夜、急遽としてアニス主催の聖女一行を見送る、送別会が彼女のスイートルームで関係者だけを集め、ひっそりと取り行われた。
アニスにエリオット、ゲストアテンダントのボブに、聖女、リンシャウッドとその他の関係者たちだ。
アニスの用意したリビングルームの中央には、巨大な二枚の魔石が、なぜか飾られていた。
昼間、アニスが聖女の部屋から強奪してきたものだった。
確信犯と言われてもいい。アニスはこれがたまたま出て来たの、とその出自を明らかにしないまま、ちゃんと処理をしてくれる相手に渡しましょう。とエリオットを諭して、聖女が魔石を譲り受けることになった。
憮然とした表情とはこのことで、シオンライナからすれば、ほんの少し前に強盗にあって奪われた商品を、あなたに進呈しますからと言われて、取り戻したのだから。
しかもそこには、かなりきつい条件がついてくる。
愛するリンシャウッドと自分にかけられた古代魔導兵器の呪いの解除だ。
ついでに、両方の魔石を持って、帝国にある炎の女神の分神殿まで行脚することまで、約束さされてしまった。
聖なる炎の精霊の魂が宿る魔石は、エリオットが入手し、帝国へと戻すことになるのだ。
そういう建前で、もしそれを破るような行為をすれば、シオンライナはアニスの宣告通り、愛する者を失い後悔のどん底に叩き込まれることになる。
もししくじりを女神に責められて、リンシャウッドの再生を拒絶されたら……と思うと、アニスにどんなひどい言葉を投げかけられても、笑顔ではいそうですね、と答えるほかなかった。
「驚いたな……。どんな魔法を使ったんだ?」
「秘密よ。女には人には明かせない秘密の魔法があるの。それを使ったのよ。おめでとうエリオット。これであなたは大手を振って、帝国に戻れる。あちらで貴族として、皇族として人生をやり直すことができる」
「君も来てくれるんだろう? いやそれよりも、俺は魔石彫金技師になる夢がだな……あるんだよ」
「はあ? あれは建前じゃなかったの?」
「本音だよ。俺には政治なんてきらびやかな世界は似合わないんだ。貴族になるより、職人として自分の技を極めたいんだよ。こんな俺は嫌?」
「うーん。新鮮味があっていい。どんなあなたも素晴らしいと思う。私は大好き」
「はいはい。それだけのろけられたら、どんなことだってやってのけてやるよ」
今回の任務で手に入れた品物のうち、最も素晴らしかったのはアニスという存在だ。
彼女が自分のことを信じて愛してくれなければ、こんな結果はもたらされなかった。
二度と彼女を手放さないようにしよう。
エリオットはそう誓って、アニスの唇に自分のそれを重ねるのだった。




