第五十六話 死んでませんけど?
白壁が続く廊下の一部がくぼんでいて、そこには二枚の鉄の扉がある。
左右に開けば、上下に移動するエレベーターがあり、いままさにその扉が開こうとしていた。
聖女という名前は一般的だ。
女神、もしくは神のこの世における代理人として、その主神の使う能力を操ることができる、とされている。
エリオットは帝位継承者で帝国の皇族の一員だが、生まれたときからその身分は高くない。
帝国のために生きることを義務付けられていて、たまたま皇帝が気に入った王国貴族の娘との間に設けた、庶子だ。
だから、他の兄弟姉妹のように帝国本土に行ったことも無ければ、皇城に招かれたこともない。
彼は、神殿の最高位に位置する聖女たちと会える機会に恵まれてこなかった。
生まれて初めて会う聖なる存在に対して持っていた畏怖の念が、彼の頭を他の者たちと同じように下げさせる。
毛先の長い絨毯がエレベーターから歩み出た彼女の足音を消していて、顔を上げるまでどんな存在なのかもわからなかった。
だから、彼女が面前にやってきたとき、彼は思わず「え?」と声を上げそうになったのだ。
なぜなら、彼女のすぐ側には死んだはずの彼女――アニスが供に立っていたからだった。
「なっ……! どういう、ことだ……?」
驚きの声をあげたのはエリオットだけではなかった。
事情を知っているはずの、その場にいたボブを始めとする他のホテルスタッフたちも同様だった。
アニスの衣服はリンシャウッドに撃たれたときのままで、血糊もべったりとついていて、中のシャツだけは着替えていたが、上衣には大きな穴が空いている。
よく似た偽物に服を着せたとも考えられたが、医務室をエリオットが離れたのはつい数分前のことだ。
こんな短時間で、遺体から服を奪い、偽物に着せたとは思えない。
「いや、これにはいろいろと訳があって」
「理由? 俺を騙していたのか? アニス、あなたは死んだはずだ!」
「殿下、落ち着いて」
咄嗟にボブは「殿下、聖女様の御前です」と小さく注意する。
それでも彼の声もまた、動揺を隠しきれていなかった。
現状のあまりもの異質さに理解が及ばず、呆然として佇んでいる彼らに、アニスは悪戯がばれた子供の様に申し訳なさそうに頭を下げ謝罪をする。
「ごめんなさい。死んでいないの、私」
「なぜ……聖女様の奇跡は、離れた場所にいてもなお、その奇跡の御業で彼女を救われたのですか?」
感動の再会、といきたいところだったが、エリオットにはそれができなかった。
彼は確かに確認したのだ。アニスの死を、そしてあの胸に空いた大穴を……見てしまったのだから。
今もまだ、自分の手や衣服には彼女の返り血がべっとりとついていて、それはアニスが死んだのだということを物語っているように思えた。
「いいえ、私は何もしておりません」
豊かな腰まである銀髪を揺らすようにして、聖女はそう言った。
何もしていない? だが、アニスは生き返っている。いや待て、さっき死んでいなかった、そう言わなかったか?
焦りと動揺で錯乱しそうになる思いを諫めながら、エリオットは聖女をにらみつけた。
彼女が聖女なのか、もはやそれすらも疑わしいと思い始めていた
「どうでしょうか、皆様。ここは場所を変えて、話し合いをする、というのは?」
「望むところだ。俺はまだアニスが納得していないからな」
「エリオット……」
もしかしたら、帝国に対する王国の陰謀に、この聖女すら加担しているのではないか、と疑いそうだった。
その場を収めるように、アニスが前に出て説明をすると述べ、とりあえず一同は同じ階にあるゲストアテンダントの会議室に移動することになった。
会議用のテーブルに、エリオットとボブ。反対側に聖女とアニスが対面して座り、その場には調理場から簡易的ではあるが、夕食にしては豪華な料理が運び込まれてくる。
「シオンライナと申します。浄化の炎の女神リシェスの聖女をさせていただいております。どうかお怒りを諫めになられて、彼女の話に耳を傾けていただけませんか?」
「貴方様が、聖女様だという言葉にも、疑いの目を向けたいところですよ」
聖女はシオンライナ、と名乗った。
そこに居るだけで周囲の人々の心を和ませる独特の雰囲気を持つ聖人にそう頼まれ、エリオットは嫌味を言いながらも二人を迎えた。
後ろにそれぞれ給仕係を従えて、エリオットはぎすぎすとした空気のまま、アニスの言い訳……もとい、言い分に耳を傾ける。
「君は死んだはずだ。俺は遺体を抱えてここまで担ぎ込んできた。医師は闇の呪いで、再生できないとまで診断した。それがすべて嘘だったという証拠はどこだ!」
「怒らないで、あなたを騙す気はなかったの。その意味では、私も同じなんだから」
「あなたも同じだと? そんな平然して……よく食事なんてできるな」
どこかで見たような光景だと思いながら、エリオットは夕食を絶え間なく中途運ぶ、そんなアニスに痛烈な嫌味を放ってから気づいた。
そうだ……この光景はあいつだ。黒狼のリンシャウッド。この騒動を起こした張本人。あいつと初めて出会ったときに、同じようにしてレストランで食事をしていた。
目の前でアニスが食べる様は、ある意味で浅ましい印象を与えた。
食事を口に運んでは、むせてワインを飲んでいる。
普段の彼女は、上級貴族の令嬢としてマナーを忘れない高貴な存在だったのに。
一心不乱に食事を口に運ぶその様は、まるで浮浪者のようだった。
「死んでから生き返ると、本当にお腹がすくのよね。私も初めての経験なんだけど!」
「死んでなかったってさっき言ったじゃないか!」
「正確には、死んで生き返ったの。あの忌々しいリンシャウッドに撃たれたその瞬間にね」
「おい……。もっとわかるように説明してくれ。その意味が全く理解できない」
彼女は間違いなく自分の腕の中で死んでいたはずだ。
その現実を受け止め、悲しみで心を満たしたというのに、あの思いは無駄だったというのか?
そう思うと、なんだかバカにされたみたいで、激しい劣情が腹の底からこみ上げてくる。
エリオットは聖人を目の前にしながら、怒りを抑えきれないでいた。




