怨敵
三人は孤児院へと戻ってきた。話しをするならここしかないとヒュームが言ったからだ。
元々薄暗い場所だった。それでも子供達がいれば明るく温もりに満ちていた。それが無くなれば陰気で心がふさぎ込む鬱屈した場所になる。
「俺とケン、村が異獣に襲われたの、知ってる?」
「うん」
「ええ」
「俺達の村、襲ったのは、ヒメラトゥムなんだ」
ヒュームは上着を脱いで背中を晒した。
リンダは息を飲んだ。背中一面に深く刻まれた切り傷だらけだ。
「ケンを助ける時に、この傷負った。けど、俺は気にしない。ケン、助けられた。それで良かった」
「ヒューム。前から気になっていたんだけど、あなたの喋り方がおかしいのは何故?」
ヒュームは悲し気な笑みを浮かべた。
「俺、生まれた時から、この喋り。身体も、子供の頃から、大きかった。
苛められた。化け物って言われた。俺の親も、俺を嫌った。蔑んだ。村に、俺の居場所無かった」
「ごめんなさい。何も考えずにそんな」
「気にしないで。人の事、なんでも分からない」
こんなに良い子が苛めを受けていたと思うと憤慨してしまう。
「こんな俺と、仲良くしてくれたのが、ケンと、妹のリンダ。
二人共、俺と友達になってくれた。俺の身体、長所だって、人に出来ない事が、出来るって言ってくれた。
嬉しかった。俺、二人のお陰で、生きる喜び貰った。ケンとリンダ、いなかったら、俺、きっと死んでいた。ヒメラトゥムに襲われた時、生きようと思わなかった」
リンダは胸が締め付けられる思いだった。そのリンダは自分ではない。姿形が同じだけの別人だ。ケンにとってもヒュームにとっても大切な人の姿を、自分がしていて良いのだろうか?
「リンダは、リンダ。同じ人、世界に四人いるって、聞いた事ある。
俺、リンダを、リンダと思わない。二人は別。リンダは、リンダに無い、良い所ある。友達だから、大切な人。
思い詰めないで。あの時の俺も、ごめん。別人だから」
「ありがとう、ヒューム」
そうやってはっきりと言葉にしてもらえると、悩みなど取るに足らないと思えてしまう。
「ケンは、今はとても柔軟に動ける。あの時まで、とても頑固だった。俺、ケンしか、助けられなかった。リンダの悲鳴、今でも俺達の頭に残ってる。だから、ベンに助けてもらった後、ケンは異獣、滅ぼすって言ってた」
(無理ないわ。そんな目に遭えば、私でもきっと同じ気持ちになる)
「その時の事、話す」
ヒュームはとつとつと昔を語り始めた。
*
ネツクの隅にある広場、そこには人はほとんど来ない。それは単に表通りから外れすぎているからだ。ここにわざわざ足を運ぶのは酔っ払いか仕事に疲れたハンターか、異獣によって心に深い傷を負った人ぐらいだ。
そんな広場に矢が連続で放たれる音が何度も響く。埋められた丸太には矢が刺さった跡で深い窪みが出来ていた。
ケンの手にある弩銃は木製だがハンターが使う銃とほとんど変わらない重量があり、一度に十本の矢を撃つ事が出来る。
ケンはそれを朝から休みなく撃ち続けている。手の平に血が滲んでも、疲労で片と腕に痛みが走っても止める事は無い。
「ケン。もう休もう」
ヒュームの言葉も耳に入らない。ケンは丸太に刺さった矢を抜こうとして腕を掴まれた。
「適度な休息を取れ、そう言ったはずだが?」
ベンの叱咤にも眉一つ動かさない。
「僕は異獣を殺す。殺してやる」
「なら休め。異獣ハンターは身体が資本だ」
ケンは腕を振り解き去っていく。
子供とは思えない殺気だった表情。憎しみが強すぎて誰でも彼でも殺してしまいそうだ。
「ベン。ごめん。無理言って、弟子にしてもらったのに」
「良いんだ。ケンは、俺が枷にならないと独断で動いていただろう。命を無駄に散らすのを見過ごせないからな」
(それでも、異獣ハンターじゃなくて普通に生きてほしいんだけどな。憎しみや恨みでこの世界に入れば、自分の全てが血に染まる。そうなれば、自分を失う。そんなハンターを俺は何人も見てきた)
出来る事なら道筋を変えたい。だがケンの決意は余りにも固く不可能だ。
「ヒューム。お前は異獣ハンターになる理由は無いだろう?お前の力なら仕事はいくらでもある。どうしてハンターになるんだ?」
「俺、ケンの力に、なりたい。ケン、俺の大切な友達。だから、俺はケンを支えたい」
真の友情とは直視できない程に輝くのだ。
「それに、俺は、助けられなかった」
それに加えて罪悪感が鎖となってヒュームを縛っている。
「お前は立派にやり遂げた。あの中からケンを、背中に大怪我を負いつつも助けたんだ」
それでも罪は拭えない。あの時、村の中から助けを求める声が耳に付いて離れない。
『お兄ちゃん!ヒューム!助けて!助けて!』
気が狂いそうになる。自分でもそうなのだ。きっとケンも同じに違いない。
「落ち着け。お前までそうなったら、もう駄目だぞ」
「・・・うん」
「ヒューム。お前に銃は合わない。お前向きの武器を用意してやる」
「俺、銃、下手・・・」
弩銃ですらろくに丸太に当たらないのだ。銃を使っても弾の無駄になるだろう。
「宿に戻る。ケンもいるだろう」
ネツクはとても活気がある。危険な世界を渡り歩く商人のお陰で世界様々な物資が流通している。初めてここに来た時、ヒュームは祭りの日なのかと勘違いした程だ。
宿の部屋に入ると、ケンは腕立て伏せをしていた。
「休めと言ったはずだが?」
「休んでいられるか」
ベンはきつく言えなかった。
心の中に渦巻く殺意、怨恨が身体を留めておかない。どうしても動かしてしまう。そうしなければ自分が保てないからだ。
鍛える。それがケンが自分を保つ為の防衛本能であると理解しているからこそベンは止められなかった。
「ベン。お前、僕達に戦い方を教えてくれるんじゃないのか?」
「そう約束したな。だが、俺にも異獣ハンターとしての仕事がある。教えるとは言っても四六時中付きっ切りとは約束してないからな」
「僕はそうだと思ってた」
荒んだ目だ。心には復讐を果たす事以外何も無い。
「ケン。分かっていると思うが、先走るなよ?十五まで待て。後二年だ」
「・・・ベン。異獣は今も人を殺して、村を、町を襲っているんだろう」
「・・・ああ」
「異獣ハンターには、一日でも早くなるべきだ」
ベンはケンの肩を掴んで壁に叩きつけた。
「次に同じ事を言ってみろ。お前の肩を壊して戦えなくするぞ」
だが、ケンは揺るがなかった。
部屋に鈍い音が響く。ベンの拳がケンの頬を殴り飛ばした。
「お前の命は、お前だけの物じゃないんだぞ!」
ケンは表情を変えないまま、一筋の涙を流した。
それは殴られたからではない。
「・・・頭を冷やせ。異獣ハンターは人を守り、助ける為にあるんだ」
ベンはヒュームに目配せして部屋を出た。「ケンを頼む」込められた意味をヒュームは理解していた。
知り合って一年が経つ。だが、まだ打ち解けられていない。寄り添えるのは親友だけだ。
「ケン。大丈夫?」
差し伸べられた手を握り、ケンはヒュームに抱き着いた。
「ケン?」
「お前が・・・お前だけでも・・・生きていてくれて・・・良かった・・・」
「ケン・・・」
故郷を失った。思い出ある我が家も、必死に耕した畑も、子供の頃登って遊んだ木も、頼れる両親も、親しい人達も、何よりも大切な妹も、全部失ってしまった。
今でもそれが夢であると思っている。目が覚めれば家にいて『お兄ちゃん寝坊よ!早く支度して畑に出ないと駄目でしょ!』とリンダの頭に響く声が聞こえてきそうだ。野菜の焼ける音が聴こえてくる。スープの香ばしい香りが漂ってくる。
何故こうも現実とは無情なのだ?幸福は夢の中、理不尽と不幸のみが現実にある。
立っているのも危うい細い柱の上にいる。少しでもバランスを崩せば落ちてしまう精神状態。崩れずにいられるのは、友人が生きていてくれたからに他ならない。自分を保つ事が出来るのはヒュームがいてくれるお陰だ。
「俺は、ケンの友達。俺、ケンに救われた。だから、ケンを助ける。
ずっと一緒。俺達、永遠の友達」
ヒュームはその背中を優しく叩いた。
「ごめんな・・・ありがとう」
何故先に謝ったのか、ヒュームには分からなかった。
ヒュームは信じていた。ケンは決して命を粗末にしたりしないと。そんな事は誰の為にもならないと分かってくれていると信じていた。
だが、その想いは裏切られる事になる。
夜間、ヒュームが寝入った頃を見計らってケンは起き上がり、一人宿を出た。
『なあ聞いたか?ネツクの傍にグーラーが出たんだってよ』
『グーラーねえ。そんなのすぐにハンターに倒されて終わりだろ』
『いやそれが結構な数みたいでな。今日一日掛けて掃討するらしいぞ』
『・・・まあグーラーなら大丈夫だろ』
人々も最低限の異獣知識を身に付けている。そうでないと万が一の時対応できないからだ。グーラー程度なら城壁に傷を付ける事も出来ないと誰もが知っているから慌てたりしない。だからだろう、ネツクは何時もと変わらない夜の姿でとても静かだった。
この話しを聞いた時、ケンはそいつらを殺してやると決めた。そして異獣ハンターとして認めてもらおうと考えた。
都市の外には二つある大門からしか出れない。しかし城壁の上に登れば飛び降りる事が出来る。城壁には見張り用に階段が作られてあるのだ。
鍵も柵も無い。有事の際行動の妨げにならないように設置されていないのだ。何より、異獣の恐ろしさは誰もが知る所、わざわざ作る必要も無いのだ。
ケンは階段を上がり見張りに見つからないように城壁の上に立った。暗闇で視界は悪く、見張りは城壁の外側しか意識していない。
鞄から縄を取り出し出っ張りに括りつけると半ば落ちるように降りた。見張りは懐中石灯で下を見回っておる。更にハンター達もグーラー討伐に出ている。ここまで来て見つかりでもしたら全てが台無しだ。
人の気配と光から逃げながら闇の中を駆ける。
(何処にいる・・・)
弩銃を持つ手に汗が滲む。ネツクから少し離れた場所にある林へと入る。三人の光が見えるが距離が離れているので音を立てなければ見つかる事は無さそうだ。
(グーラー・・・棒みたいに細長い手足に小さな身体にぼさぼさの髪をした異獣だ。口から吐く煙に惑わされなければいける。相手は異獣の中でも最も弱い奴なんだ)
自分を鼓舞して恐怖心を押し殺す。
(思い出せ!あいつらに殺されたんだ!今度は僕が、殺してやる!)
憎しみと殺意に身体を焦がせ。復讐心に身を委ねろ。相手はこの世界の異物だ。躊躇わず、姿を見せたら殺せ。
荒く息を立てながら林を歩く。ここにいる保証は無い。しかしそんな事に気づく余裕は無い。だが、物事とは得てして悪い方向に転がるものだ。
背後から不気味な息遣いが聞こえ、ケンは咄嗟に振り返った。
距離にして八メートル程離れた場所に、グーラーが立っていた。顔は膿んだニキビで覆われ歯並びの悪い口から黒く濁った涎を垂らしている。暗がりで良く見えないが、この悍ましく気持ち悪い姿はまごう事無き異獣だ。
「死ね!」
感情が爆発して叫んだ。弩銃から矢が十本連射される。矢は寸分狂わずグーラーの胴体に突き刺さる。
訓練用とは言え銃を持った時の反動に重さに順応する為に重く反動も強い強力な弩銃だ。大昔は実際に武器として使用された歴史もある。人間なら一撃で致命傷は確実だ。下手をすれば胴体に風穴が空くだろう。
だが、グーラーの身体には鏃の部分が刺さった程度だ。丸太に半分は突き刺さる威力のある弩銃なのに、異獣にはかすり傷程度しか与えられていない。
「くそ!」
新たな矢をセットしようとするとグーラーが口から白い吐息を吐いてきた。息はあっという間にケンに流れていき身体を包み込んでしまう。
「これが惑わす息?甘ったるい臭いだ・・・」
甘すぎる。一吸いするだけで脳に痺れが走り思考が途絶えてしまう。全身から力が抜けていく。あれ程煮え滾っていた心が、幸福感に陶酔してしまっている。
『お兄ちゃん』
声が聞こえてきた。忘れない、忘れようのない声だ。
「リンダ・・・?」
目の前に、リンダが立っている。あの時と変わらぬ姿で立っていた。
涙が溢れて止まらなかった。とめどなく涙が流れ続ける。
『お兄ちゃん、こっちに来て』
リンダは両腕を広げる。ケンは「リンダ!」と叫び抱き締める為に駆け出す。
その瞬間、誰かに肩を掴まれ地面に押し倒された。銃声が鳴り、金属を引っ掻いたような悲鳴が上がる。
「何でこんな所に子供がいるんだ!?」
「これは練習用の弩銃じゃないか!抜け出し立って言うのか!?」
「一旦戻るぞ!討伐は他の奴に任せよう!」
遠くから人の声が聞こえてくる。身体が揺られている感覚を最後にケンは意識を失った。
次に目を覚ました時、そこは宿の一室だった。
「あれ・・・」
身体を起こした途端服を掴まれて凄まじい勢いの頭突きを食らった。頭が砕ける程の衝撃に意識が飛びそうになった。
「・・・・・・!!」
血が滲み流れている。間違いなく額が割れている。
揺れる視界に映ったのは、涙で顔をぐしゃぐしゃにしたヒュームだ。顔を真っ赤にして怒っている。
「何で、こんな事した!?異獣、強い!俺達、子供!勝てる訳、無い!
ケン!こんな事しないって、信じてた!馬鹿!お前、馬鹿だ!」
ヒュームは扉を蹴り破って部屋を出ていった。
ケンは、只々申し訳ない気持ちで一杯だった。
「あの馬鹿、誰が修理費を出すと思ってるんだ」
気付かなかったが、部屋の隅にベンが立っていた。タオルで頭をきつく縛って簡単な止血をする。
「ヒュームは、ずっと泣いてたぞ。お前が死んだんじゃないかってずっと心配してた」
「ヒューム・・・」
人に辛い思いをさせた。人に悲しい思いをさせてしまった。申し訳ない、謝りたい気持ちで一杯だ。
「ケン」
ベンは腕を振り上げた。殴られると思い目を瞑った。
殴られる痛みと衝撃は無かった。代わりに身体を痛い程抱き締められた。
「無事で・・・本当に良かった・・・」
泣いている。無事でいてくれた事を心から安堵している。
「怒らないの?」
「怒れないんだ」
ベンは身体を離すと壊れた扉を立て掛けた。気休めだが、身の上話しを他人に聞かれたくはない。
「俺もな、お前と同じなんだ。俺も、故郷を異獣に滅ぼされてる」
「そう、だったのか?」
「山の上にある綺麗な村でな。少し寒いが、とても良い場所だ。空気は澄んでいて朝起きて息を吸うと一日の始まりと一緒に今日を生きようって気力が湧くんだ」
故郷を語るベンはとても嬉しそうで、物憂げだった。
話しを聞くだけでもとても素晴らしい場所なのが伝わってくる。
「何もかも異獣に滅ぼされた。もう、故郷には何も残っていない。
あの時の俺は、今のお前と同じだった。早く異獣を殺したくて、じっとなんてしていられなかった」
ベンは抉れた顔の右側に触れる。
「これはな、そんな馬鹿な事をした時に負った傷なんだ。しょうもないだろ?恥ずかしくて誰にも言えねえよ。だから周りじゃあ好き勝手に持ち上げられて、聞いてる俺には拷問だよ全く」
ベンはくだらなそうに笑う。
「お前は、俺と同じだったんだ。俺の若い頃にそっくりだった。傍にいてやらないと暴走する。あの時の俺と同じだ」
ベンはケンの頭を撫ぜ、優しく微笑んだ。
「すまなかったな。俺がもっと寄り添ってあげていれば良かった。年取って、昔の自分にどう声を掛けたら良いのか分からなかった。
情けないよな。そっくりだったから、直視できなかったんだ」
「ベン・・・」
「ケン。一人で抱え込むな。胸の内の闇なんざ吐き出して人にぶつけるんだ。俺にはそれを受け止めてくれる人はいなかった。けど、お前にはいるだろう?」
「ヒューム・・・」
「俺もな」
自身を指さして笑みを浮かべる姿にケンはつい笑みを浮かべてしまう。
「僕、ヒュームに謝ってくるよ」
立ち上がろうとしてケンはふらついた。グーラーの吐息がまだ残っている上に鉄塊の頭突きを受けたのだ。体調ははっきり言って最悪だ。それでも立とうとしてベンに支えられた。
「俺も行こう。そんなふらふらで、倒れられたら困るからな」
「・・・ベン。ごめんなさい」
「それは俺のセリフだ。もっと釘を刺して、理解してやるべきだった」
(それでも、結果論だが、荒療治にはなったみたいだな。ヒューム)
親友の本気の怒りが、自分がやらかした愚行よりも心に響いた。
ネツク北東の集合墓地。ヒュームはその前に座って項垂れていた。
ここには村の人達も眠っている。と言っても、身体の欠片を埋葬しただけで、ほとんどは奪われてしまった。
その背中からは自分自身への怒りを感じた。ケンを止めれなかった事、ケンをどついた事、全部が許せなかった。
ベンに背中を押され、ケンはヒュームのすぐ後ろに立った。
「ヒューム・・・。
僕はここに来たのは初めてだな。現実を突き付けられるから、無力だった自分の姿が目の前に映るから、来たくなかった」
「・・・・・・」
「ヒュームは毎日花を添えてたよな。偉いよ。僕なんかよりも、ずっと偉い」
何故素直に謝れないのだろうか?情けなかった。
「俺、偉くない。俺、あの時の事、ずっと後悔してた。
俺、二人を助ける事しか、考えてなかった。本当は、助けられる人、もっといた。俺、見捨てたんだ。そんな自分、許せなくて、ここで毎日謝ってた。
俺、前向いていなかった。ずっと戻りたいと思ってた。本当は、異獣ハンターは嫌だった。乱暴な事、危ない事、好きじゃない。あの村で、平和に過ごしたかった。そんな資格、無いのに。
ケン。異獣ハンターになるって、昔から言ってた。俺は、将来の事、何にも考えてなかった。ケン、異獣ハンターになるの、どうして?」
「約束だよ。リンダと交わした約束。人を守り人を助けて、未来へと進ませる」
その約束を、今の今まで忘れてしまっていた。憎しみ、殺意、復讐心に支配され、異獣を滅ぼすと言う脅迫概念に突き動かされていた。
「大切な約束なのに、忘れてた。僕は馬鹿だ。前を向いてなんかいなかった。ずっとあの時に囚われた。ヒュームも僕も同じだよ。僕達どっちも前を向いて歩いてなかった。
ごめん、ヒューム。僕も大切な事を忘れてた。あの時だけじゃないんだ。思い出は・・・もっと温かくて・・・優しいんだ・・・」
脳裏に過るもう戻らない幸せだった頃の光景。大切だった。無くなるなんて考えた事も、想像した事も無かった。何よりも大切な、宝だ。
「本当にごめん。今の僕の姿を見たらリンダはとても怒るだろうな。知ってるか?リンダのビンタはお前の頭突きよりも痛いんだぞ」
ヒュームは吹き出した。
ケンはヒュームの隣に座り墓の前で深々と頭を下げた。
「僕は、自分の事ばかりで、ヒュームと皆の気持ちを全然考えてなかった。僕の命は、皆に生かされているんだ。生きないと、駄目なんだ。生きなきゃいけない責任があるんだ。
ヒューム。僕はもうこんな馬鹿みたいな事は二度としない。だから」
言葉を遮るようにヒュームは手を差し出した。
「頭、大丈夫?」
ケンは笑みを浮かべて手を握り締めた。
「拳よりマシだよ。優しいな。殴られてたらきっと顔がひしゃげてた」
「俺も、その約束、手伝う。リンダは、俺の大切な、友達だから」
「ありがとう、ヒューム」
一人で何もかもを乗り越えられる程人は強くない。一人で何でもかんでも出来る程人は完璧ではない。
助けてくれる人、支えてくれる人、受け止めてくれる人がいてくれて人はより高みへと昇る事が出来るのだ。
二人の様子をベンは子供を見守る親の心境で生暖かい眼差しを向けていた。
*
話し終えたヒュームは一息ついた。
「そんな事があったのね。そう、あの時の子供ケンだったのね」
「ケン、あれから柔らかくなった。色んな事、柔らかく出来るようになった。我儘言わなくなった」
「柔軟に、臨機応変に行動できるようになったのね」
意志薄弱ではない。他人と歩調を合わせて歩けるようになったのだ。
ヒュームは孤児院を振り返った。
「ケン、孤児院から、毎日ずっと、ベンに頼み込んだ。俺も、頼んだ。ケンは、立ち止まりたくなかった。孤児院、良い場所。けど、見ないようにすると、もっと辛かった。
立ち止まるようになった。見なくても、辛くなくなった。けど、今は違う」
「じゃあ、今のケンはその時のケンに戻っているの?」
リンダの問いにヒュームは頷いた。
「正直、俺も、あいつらを殺したい。復讐したい」
額に血管が浮かび上がり目で見えて分かる程体温が上昇している。
「ケンは、絶対に引かない。俺も、引きたくない」
譲れない思いがある。どれだけ大人になっても譲歩できない一線がある。
「ルージュさん。ヒメラトゥムを倒しましょう。人の為、二人の為にも見過ごせません」
「当然よ。奴らは倒す。それに、気になる事もあるしね」
人には人の歴史がある。日々の歩みが今の自分を作り上げるのだ。
リンダはある決意を固める。
「あたし、ケンと話してきます!」
駆けていくリンダを生暖かい眼差しで見送った。
(子供がいるって言うのは、こんな感じなのかもしれないわね)
結婚する気は無い。自分の子供に自分と同じ悲しみと苦しみを味わってほしくないから。だから、親の気持ちなんて一生縁が無いものだと思っていた。
「あなたは行かないの?」
「リンダ、ケンと話さないといけない。ケンとリンダの為にも、言葉交わさないといけない」
「あなたって、意外と人を見てるわね」
「人、視る。視ないと、助けられない」
かつてケンの内面に気付かず止められなかった事を深く悔いた。だから人が何を思い、どのような人なのか視る為に努力した。
「それにしてもリンダったら、何処にケンがいるのか分かっているのかしら?」
「大丈夫。分かるよ」
「それは、あの子が妹の姿をしている事と関係あるの?」
「多分」
そこは曖昧だ。しかし、リンダは繋がりがあると言っていた。だからきっと何処にいるのか分かっているはずだ。
*
大切な人。離れたくない、傍にいたくない人。生まれた時からケンに対するその想いだけが身に宿っていた。自分の事は何も分からない。ただ、それだけしか心に無かった。どうしてその想いがあるのかも分からない。
自分の中にある想いに従って生きてきた。ケンに対してもそれ以上の気持ちは無かった。
しかし、それではいけない。そんな流されるだけで生きていては駄目だ。人は考えて、悩んで、後悔しつつも選択している。何も考えずに惰性で歩くのでは駄目なのだ。
ケンの気配を辿って走ると、荘厳な塔へと辿り着いた。白い大理石で作られた塔で、作りこそ素晴らしいがティファレトの美しい様相に比べると装飾が無く無骨に見える。
塔の中は殺風景でがらんとしていた。中央に置かれた墓が寂し気な姿を見せている。
墓の前にケンが立っていた。ケンは世界の都市の集合墓地の場所を把握している。何時か世界を巡る時、必ず足を運ぶと決めていた。
「・・・リンダ」
「あたしだって、分かるの?」
「分かるんだ。リンダが分かるように、僕にも分かるんだ」
ケンは膝を付いて手を握り合わせて祈りを捧げる。
「こうやって死んだ人にお祈りするんだ。昔は同じ姿勢で神様に祈ってたって。今は宗教なんて七つの鐘以外ないし、こうして死んだ人に祈りを捧げる以外する事は無いんだ」
「大切な、祈りなんだね」
リンダもまた同じように祈りを捧げる。
しばらくして二人は立ち上がった。
「ヒュームから昔話を聞いたんだろ?」
「えっ?あ・・・」
まさかずばりと言い当てられるとは予想しておらず口ごもってしまった。
「別に怒ったりしないさ。ヒュームとは十年以上の付き合いだ。あいつが何するのかなんて簡単に想像つくよ」
「じゃあ、あたしがここに来た理由は想像つく?」
「つかない」
リンダは墓に向き直り視線を下に落とす。この下に異獣によって殺された人達が眠っている。毎日誰かが死んでいる。何処であっても死に満ちている。
「あたし達は、死んだ人達の上に立っているんだね」
「ああ」
「忘れられないよね」
「・・・ああ」
「あたし、生まれたばかりだから。あたしはあたしだけど、それは築き上げたあたしじゃない。正直に言うとね、悲しいとか、人の死とか、よく分からないの」
「生まれたばかりだもんな」
「だから、あたしはケンの気持ちが伝わってくるんだけど、共感が出来ないの。けど、それじゃあ駄目。あたしも、ケンの支えになりたい」
リンダはケンの手を握った。
「ケン。ヒメラトゥムを倒そう。皆の為にも、倒さないといけない。
けど、今のままのケンだと倒せない」
「殺意と、憎しみか・・・」
胸の内で渦巻いている。ここに来たのは、追悼と慰霊の為だが、自分自身を鎮める為でもある。ヒュームと交わした言葉を、ここに来ればどんなに荒れていても思い出せるのだ。
「あたしが、苦しめてるのはもう知ってるよ。そうだよね。だって、同じなんだから。
ケン、あたしは妹なの?それともあたしはあたしなの?」
「それは・・・」
答えられない。どう答えても、自分自身の何かが壊れてしまいそうで。
だが、そんな情けない奴に信念は果たせられない。約束を果たす事も出来ない。
リンダは自分を得ようと、変わろうと必死だ。それは自分の為以上に、ケンの為でもある。何時までも自分に妹の幻影を重ねていたらケンは縛られたまま前に歩めなくなる。自分のせいでケンを苦しめたくはないのだ。
ケンは、痛い程リンダの手を握り締めた。手が熱を帯びて汗ばむ。
「リンダは・・・・・・リンダなんだ・・・。
妹じゃない。それは・・・僕の弱い心が縋っているだけなんだ・・・」
認めたくなかった。認めたら、もう二度と妹のリンダは自分の前に姿を現す事は無い。
しかし、それで良いのだ。過去には戻れない。死んだ人は帰ってこない。都合の良い妄想と幻想に縋って心の穴を埋めようとしても、虚しさが募るばかりでより辛くなるだけだ。
子供のように泣きながら言ってくれた。ケンは自分とリンダを救う為に、縋りついていた幻想から手を離したのだ。
「ありがとう、ケン」
大人の女性を思わせる、綺麗な微笑みだ。妹のリンダとは似ても似つかない。
今までは、差異はあっても、身体が肉である事を除けばそこまで大きな違いは無かった。この微笑は、決定的な違いとなった。
「どうしたの?」
「・・・ありがとう。こうして、ちゃんと話してくれて」
「大切なんだから、もっとちゃんと話さないと駄目だから」
不思議な気持ちだ。好きと言うより、傍にいるだけで安心できる存在、二人にとってお互いはそんな存在だった。
「これからは何かあったらあたしを頼って良いからね」
「それはどっちかって言うとリンダの方じゃないのか?」
「頼って良いからね」
「分かったよ」
怖い顔を浮かべるリンダに苦笑いを返した。
「リンダ。もし僕が殺意と憎しみに支配されそうになったら、止めてくれるな」
「早速頼ったじゃない」
「頼まないって言ってないからな」
「引っぱたいてでも止めるからね」
「頼りにしてるよ」