あかりとあきら
1
化け物染みた劣等感の塊。
それが、俺が晶に抱く感情のすべてだった。
今や晶のことをメディアや雑誌を通して見ない日はない。大げさだろうと思われるかもしれないが、俺が朝つけるテレビ番組、職場までの道中にあるコンビニの雑誌置き場、電車で乗り合わせた女子高生の会話の中、そのすべてに晶の存在があった。
それはまるで、晶がそれらを通して俺に訴えかけてくるようだった。
お前は一体、何をしているんだ、と。
「お待たせしました、ブレンドです」
多摩川沿いにある喫茶店(名前は洒落すぎていて覚えていない)の窓際、そこが俺の定位置だった。居場所と言ってもいい。
「お砂糖とミルクは」
「結構です」
気持ち程度に頭を下げて店員が捌ける。いい加減常連なのだから、いつもブラックで飲むことくらい承知しておいて欲しい。ドラマのように「いつもので」と得意げな顔で言ってみたい気持ちはあったが、そんな格好つけたことを言う勇気が俺にはないことくらい自分でもわかっていた。
とん、とん、とノートの紙面をボールペンで叩く。インクが滲んで広がった。
俺は毎日ここでこうして日記をつける。
とりとめのない日常をこうして言葉に綴っていれば、毎日をきちんと生きているような気になれた。両親が離婚し、高校卒業と同時に母親が病死してから、過ぎていく日々についていくので精一杯だ。
唯一の身内であった双子の兄、晶とは昔から馬が合わなかった。俺より何もかもが優れていた晶は、必死に毎日についていく俺を待っているつもりなど最初からなかったのだろう。俺は高校卒業後、就職したはいいが長くは続かず、今は派遣やアルバイトを掛け持ちしながら暮らしている。
そんな俺が、芸能界という華やかな世界に身を置く晶を見て劣等感が湧かない方がどうかしていた。双子という、何よりも繋がりが強いはずの晶は、俺にとって一番のコンプレックスだった。
双子、とは言うものの、俺と晶は全く違う人間だった。同じ遺伝子が明と暗にくっきりと分かれて、それぞれが純度百パーセントで生まれてきたようだった。もちろん暗が俺の方だ。暗でありながら、名前は明という、とんでもない矛盾がここで生じている。
「たまには、ミルクとか入れてみたらどうですか?」
最初、その言葉が自分に投げかけられているとは知らず、しばらくして目の前にポーションミルクが置かれたことで、俺はようやく顔を上げた。
先ほどの店員が、銀のトレーを胸に抱えて、俺を見下ろしていた。
「毎日同じ味だと、飽きちゃいますよ」
後ろで纏められた髪が揺れる。若い、俺より数個下の大学生といったところだろうか。ネームプレートに「島村」の文字があった。
俺は「はあ」と無愛想な返事をすることしかできなかった。
「ごゆっくりどうぞ」
律儀に再度頭を下げる店員。
俺が毎日ブラックで頼むことを知っていながら、毎度注文の度にミルクと砂糖の確認をしていたのだろう。
無駄な努力だ、と独りごちてから、ポーションミルクを脇に避けた。
「朝倉明、二十五歳……」
履歴書と俺の顔を交互に見ながら、面接官の女はパンツスーツに包まれた足を組み替えた。いかにも、なキャリアウーマンという出で立ちと雰囲気である。歳は五十過ぎ、といったところだろうか。値踏みするような視線に、嫌でも体が痒くなる。
「あんた、今印鑑持ってる?」
「はっ?」
「だから、印鑑」
面接官はゆるくパーマがかかったロングヘアを搔きあげた。
「あんた採用ね。明日から出勤してもらうから、契約書にサインと印鑑欲しいんだけど」
「ええ……面接、しないんですか」
「面接?」
「普通、志望動機とか聞きますよね。シフトいつ入れるのかとか」
「ああ、そんなのはいいの。あたしは初見の印象で決めるから。あんたは採用」
器用に指先でペンを向けられ、正直俺は、この面接を受けたことを少しだけ後悔した。適当に目に入ったイベント警備の派遣のアルバイトだ。時給がよかったので応募してみたが、どうも胡散臭い。
俺という人間の価値は、俺が一番よく知っている。そしてそれは同時に、この女に人を見る目がないのだということを証明する絶対的な材料でもあった。
そんな俺の心境など知るはずもなく、女は「じゃ、明日か出勤ね」とことを勝手に進めていく。俺のシフト希望など、はなから聞くつもりなかったらしい。
「あたしは沢田美代子。朝倉明くんね。明日からよろしく」
「は、はい」
差し出された手には、きちんと手入れがされたネイル。俺は軽く握手をしながら、気圧された返事をすることしかできない。
沢田はそんな俺を見て何を思ったのか、くすりと笑って言った。
「心配しないで。あたし、人を見る目だけはあるんだ」
翌朝、沢田に指定されたのは、渋谷にある雑居ビルの一室だった。警備するほどの規模のイベントがこんなビルでできるとは思えなかった。それに、俺以外の派遣も見当たらない。
何かとんでもない派遣バイトに応募してしまったのではないかと、昨日の不安が蘇りそうになった時だ。
階段付近で右往左往していた背中に「おつかれっ」と声をかけられた。
振り向くと、カジュアルな白シャツとジーンズに身を包んだ、すらりと背が高い男が立っている。顔を見て、俺は思わず飛びのいた。
「あれっ? 人違いだ」
俺を見て首をかしげる男は、今若い世代を中心に絶大な人気を誇るモデル、月島カケルである。少し長い前髪は目元に影を落としているが、不潔感は全くなく、むしろ同性の俺でさえ、色気の一片を感じてしまうオーラがあった。
雑居ビルと、今をときめく人気モデル。この二つが結びつかずに固まっていると、月島が俺の目の前でひらひらと手を振った。
「おーい。固まっちゃった。おかしいなあ、後ろ姿そっくりだったんだけど」
「カケル、もう撮影だ。中に入れ」
「はいはい」
月島の背後から顔を出したのは、おそらくマネージャーだろう。艶のある黒髪に、スーツを着込んだ姿はさながら執事のようだ。月島の長身に隠れて目立たないが、彼もまた、背が高い部類に入る。
二人は俺を一瞥すると、部屋の中へと入っていく。開いた扉の向こうから、フラッシュの光と、シャッター音。
集合場所を間違えたかと思ったが、それは中から姿を現した沢田によって否定された。
「おっ! 来たね。そんなとこ突っ立ってないで、入った入った」
「えっ、ええ……俺、警備のバイトに」
「合ってるから。ここがあんたのバイト先」
半ば強引に腕を引かれ、中へ入る。予想はしていたが、中では撮影が行われていた。セットとして置かれているであろうソファーに、撮影器具が並ぶ。床に散ったカメラのコードを避けながら沢田について進むと、カメラマンやスタイリストたちの視線が俺に集中するのがわかった。
「はいっ、みんな一回注目!」
沢田が乾いた音で手を叩く。フラッシュとシャッター音が止み、俺は更に身を縮ませるしかない。
撮影中だったモデルが、ソファーから立ち上がるのが視界の隅でわかった。
「こちら、今日から一緒に働く朝倉明くんです」
「朝倉……」
ぽつり、と呟かれる。そのまま徐々にどよめきが広がっていき、俺は更にいたたまれなくなって視線を落とす。朝倉、なんてそう珍しい苗字ではないだろうに、何がそんなにおかしいのだろうか。
その疑問は、すぐに解決されることになる。
「明……?」
喉が締まった。俺を呼ぶ声が、困惑気味に揺れた。視線を上げようとしたが、できなかった。
磨かれた衣装の革靴が、視界に入る。
「明、お前なんでここに」
「……晶」
メディアを通して、嫌という程聞いた声。切りたくても切れない、俺のコンプレックスの塊。錆びた鉄のように動かない首を無理やり動かして顔を上げた。
双子の兄である朝倉晶が、俺を真っ直ぐに見つめて立っていた。
「双子?」
月島カケルと朝倉晶、他人が聞けば誰しもが羨むであろう男二人に囲まれて、俺は心の底から立ち去りたい、と思った。
月島は俺と晶の間に流れる空気を理解しているのかいないのか、差し入れのどら焼きを頬張りながら「だから後ろ姿がそっくりだったんだ」と一人で勝手に納得している。撮影の休憩時間である今、俺は数年ぶりに再会した双子の兄とどう接していいのか、全くわからなかった。
なにせ、ずっと避けてきたのだ。晶が出ている番組も、雑誌も、なるべく視界に入れないようにしてきた。それがどうだ。今目の前に本物がいる。これほど地獄なことはない。
晶はセットされた前髪を、これまた綺麗に爪が整えられた指先で弄っている。昔から、居心地が悪い時の晶の癖だった。
「双子なのに似てないだろ」
「こら、年上だぞ」
月島が思ったであろうことを、言われる前に言ってやった。晶の嗜めるような言葉が、兄を気取っているようで嫌だった。
月島は俺の言葉に目を瞬かせた。
「いや、何言ってるの。そっくりだよ。後ろ姿とか」
「……本気かよ」
「明、初対面なんだから敬語使えって」
「いいよ、晶くん気使わなくて」
俺の態度に、月島が気を悪くした様子はない。代わりに、晶の表情が曇った。
双子なのに似てないね。
これは、俺が人生で最も多く言われてきた言葉だった。晶は線が細く、鼻筋も通っていて、モデルとして成功していることからも世間一般に言う「綺麗」な部類に入る顔をしている。対して俺は、どこのパーツをとっても平均か、それ以下。醜男、とまではいかないが、晶と比べると圧倒的に劣る。自分の顔面を嘆くことはもうないが、それでも華やかな晶と二人並んだ幼少期の写真を見ると、神様もひどいことをしたものだ、と思わないこともない。
「双子の兄弟の現場に来るなんて、随分と仲良しなんだね」
「いや、これは不可抗力だ」
「そうなの?」
「……沢田さんが勝手に、俺をここに呼んだんです」
いい加減、晶の視線が面倒だったので、敬語をつける。月島と晶は同い年にも見えるが、どうやら違うらしい。ということは、月島は俺よりも年上ということだ。
「そもそも、晶がいるって知ったら、すぐにでも帰ってましたよ」
吐き捨てるように言った俺の言葉を、月島はどう捉えたのだろうか。俺にはわからないが、彼が「ふうん」と言ったきり、深く追求してこなかったのが、せめてもの救いだった。
俺は荷物を取って立ち上がる。少しでも早く、この場を離れたかった。
「どこいくの?」
「帰ります」
「バイトは?」
「辞退させていただきます」
一応、一礼をして踵を返す。月島も晶も、俺を引き止めることはなかった。そのまま外の廊下へ出ると、沢田が腕を組んで待ち構えていた。
「帰るの?」
「当たり前じゃないですか。こんなの、聞いてない」
「あんた、なんでそんなに晶のことが嫌いなのよ」
「なんでそれを沢田さんに話さないといけないんですか」
「あたしはあんたを採用した責任があるから」
「そんなの理由になってません」
沢田の脇を通り抜けようとすると、ヒールを壁に叩きつけて、道を塞がれた。
「いいの? このまま帰るなら、契約違反になるけど」
「……は?」
一枚の紙を、沢田に突き出される。
面接の後に俺が印鑑を押したものだった。よく見ると、下の方に『自ら退職希望は出さない』という事項が加えられている。俺は、ハメられたのだと悟った。
「あんた、最初から俺が晶の双子の弟だって知ってましたね」
「そうよ。だから採用したんじゃない」
契約書はきちんと読まないとね、と沢田は言った。
純粋な怒りが、胸のうちから湧いてきた。
「なんで……」
「双子がいるってことは、晶から聞いてた」
沢田はそう言うと、どこか遠くを見るような目をしていた。渋谷の喧騒を見下ろせるこのビルは、現実から切り離されているような感覚にさせた。
「親御さんもいないんでしょ。たった一人の家族じゃない。それなのに、お互い会ってもいないなんて」
「他人のあんたが、口出さないでくれますか」
「あたしとあんたは他人かもしれないけど、あたしと晶は他人じゃない。晶にはあんたが必要なのよ」
沢田は俺に向き直る。
「小さい頃に何があったのか知らないけどね。家族なんだから……」
「うるさいなっ」
荷物を振りかざし、沢田に思い切りぶつけた。よろめいた隙に、脇を抜けて走る。「待ちなさい」と叫ぶ沢田の声を無視して、俺は階段を駆け下りた。
通りに出た途端、渋谷の喧騒が戻ってくる。雑踏、広告、人混み、会話。人の間を縫うように走っていると、書店に平積みになっている雑誌が目に入った。朝倉晶、の文字と、爽やかな笑顔が紙面に張り付いている。
ああ、もうやめてくれ。
逃げるように地下鉄に乗り、電車の広告が視界に入らないようにつま先をじっと見つめる。
携帯を落としてきたと気付いたのは、既に帰宅した後のことだった。
ちまちまと完結までがんばります。