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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

泡沫の白ワンピース

作者: ななせ(=七瀬)

主人公『新江みき』は家族に連れられて親戚の墓参りに来ていた。

 Ⅰ

 セミの声が頭にガンガン響く。こんな暑いなら墓参りを抜け出さなければよかったなんて思う。私、『新江みき』はお盆の時期に親戚の家に来ていた。普段ならこんな遠くまで行くことなんてなかったが、誰かの何周忌とかで親に無理やり連れてこられているのだ。めったに合わない親戚と話す事なんて見つからないし、顔も知らない人間の墓参りなんてする気にもなれないのだから、抜け出してしまうのは私自身の性格を分析すると仕方のないことだと思う。

 私はコンビニで買ったアイスを咥え、熱気を発するアスファルトをだらだらと歩き行く。辺りから線香の匂いが漂ってくるのをみると、きっと今頃親戚宅では迎え火を焚いている頃だろう。

「あー、どうしよう。この辺なんかあったけ?」

抜け出したのは良いが私には目的地なんて無かった。衝動的に抜け出してしまったことを今更ながら少し後悔する。八月の昼間、それもお盆の期間。こんな暑い中わざわざ外を散歩する人なんて酔狂なことだと自分でも思う。時折、横を車が通り過ぎるが中の楽園から覗く瞳はどれも疑惑の瞳を向けくる。私はうんざりとした表情でただ真っすぐ伸びる道を進んだ。咥えていたアイスはもうすでに食べきってしまっていたが、口元が寂しくならないように残った木の棒はずっと咥えるようにした。

しばらくして、目の前に空とは違う青い景色が広がった。海岸には私以外人はおらず、寄せては返す波が一定のリズムで孤独に響いている。遠くに聳える巨大な入道雲、青に染まらぬ白鳥、砂浜に埋もれた貝殻、全てが自分一人の物だった。私は履いていた靴を脱ぎ棄て、一目散に海の方へと走り出した。

「暑っ!」

焼けた砂の感覚が暑さを通り越し、痛みとして足裏へ走る。私は歯を食いしばり、さらに走る足を速め、海の中へと飛び込んだ。バシャーン、辺りに水飛沫が上がった。海水の冷たい感触が全身を包み込む。逆さになった太陽と雲、私はただぼーっとそれを眺めていた。雲は空を流れている。そんな子供でもわかる単純な自然現象でも、今の私にとっては大切なものの様に感じた。大自然を見ていると世俗のことが取るに足らないと感じるのは人間の性だという。まさに今の私はその状態だった。ただ、冷静になるにつれて浮かんでくる「帰ったら怒られる」と言う疑惑はなるべく頭から取り除くようにした。

 私は海から上がり、しばらく浜辺を歩いた。浜辺にはガラス片や貝殻が星屑の様に太陽を反射させながら散らばっている。

「なんだこれ…? 何かの破片かな?」

元の形がどのようなものかわからなかったが、思い出品として適当に拾い上げポケットにに放り込む。私は脱ぎ捨てた靴を拾い上げ大きく背伸びをした。近くの水道で髪の芯まで浸った海水を洗い流す。ただ、どうあがいても服はびしょ濡れのままの訳だが、「その内乾くだろう」と言う楽観的な思考で問題にすることを諦めた。

いい加減親戚宅に帰るかと思った時、風と共に白鳥が頭上を通り過ぎた。私は無意識にその行方を目で追おうとするが、不意に視界に入った海岸線の岬に立つ人影に目を奪われた。その影は白いワンピースに麦わら帽子を被っていた。初めてこの場所で見つけた人影。それは胸の中に一人じゃないと言う安心感を与えていたが、それ以上にその容姿の美しさに心が奪われていた。空の青にも染まらず、海の青にも染まらない、痛いほど純白のワンピースが風に靡く。彼女の姿はまるで天からの使いだった。

「おーい。」

私は声を張り上げ叫んだ。声が聞こえたのか岬の少女は私の方を振り向いた。そこで初めて気が付いたのだが、彼女の両腕には白い花束が抱えられていた。

「何してるのー?」

また叫んでみたが、彼女から返事が返ってくることはなかった。先ほど拾い上げた靴を履き、私は何が何だかと言った感じで、とりあえず岬へと向かうことにした。


 岬につくと、さっきの白いワンピースを揺らめかせた少女が立っていた。しかし先ほど見た花束はその手元にはなく、代わりに岬の先の小さな石碑に添えられていた。彼女はゆっくりと麦わら帽子を外すと、

「初めまして、どうしてここへ?」

と尋ねてきた。少女は見た感じ、一七歳前後で私とほぼ同い年の様に感じられた。髪型は黒く美しい後ろ髪を三つ編みにし、右肩前へと垂らしていた。私はその美しさに見惚れてしまい、言葉を返すことが出来なかった。そんな様子の私を見かねたのか、

「おーい、君、聞こえてる?」

と彼女は自身の顔を、私の顔の十㎝付近まで近づけた。そのあまりの出来事に私は体制を崩し尻餅をついてしまった。その様子をみて彼女は大きく笑っていた。

「ねえ、君の名前は? あ、そうか、まずは自分から名乗らないとね。私は『アキ』。よろしくね。」

「私はみき。えーっと、なんて呼べばいい?」

緊張からか、早口になっていた。

「アキでいいよ。折角こんなところに来てくれたんだし。今日からは大事な友達さ。」

彼女は私に微笑みかけた。その笑顔は一七歳の少女の出せる限界の以上に、どこか温かさが籠っていた。

「じゃあ、アキは一体ここでなにしてるの?」

私がそういうと、アキと言う少女は岬の先にある石碑を指さした。大きさは60㎝ほどで、表面は苔むしてしまっているその石碑は、何か独特な雰囲気を醸し出していた。

「墓参り…なの?」

このお盆の時期に花が添えられている事から私はそう予想した。

「お、正解だよ。私は墓参りをしてたんだ。君こそ、こんなところで何してるのさ。この辺じゃ見たこともない顔だし。うーん、差し詰めお盆休みに墓参りに来たって感じだね。でもこんな時間にここにいるってことは…、もしや君、サボってきたね?」

まさに図星だった。それが顔にでていたのか、アキは大きくため息をつくとやれやれと言った表情を作った。私は今更にして、親族に対する罪悪感が湧いてきてしまい顔を上げることが出来なかった。今、親はどうしているだろうか。きっと怒っているだろう。そう考えていると、その内思考がぐるぐると周り胸が苦しくなった。吐き気も催し、自分に対し最低な気持ちになってくる。

「ねえ、君。もう今日は帰った方がいいと思うよ。どうせいつ帰ったって怒られるのは見え見えなんだからさ。明日またここにきなよ。」

アキはそう言うと、私の首筋に白くて華奢な両腕を首の後ろへ回してくる。逃げ場の無い急な接近。私は緊張のあまりその場で固まってしまった。

「お姉さんは待ってるから、安心してね。」

アキは耳元でそうささやくと、私に麦わら帽子を深く被せた。やがて腕は離れていき、

「じゃあね、みきちゃん。それ返しにきてね。」

とだけ言うと何処かへと去っていった。しばらく放心してしまっていた心が肉体へと戻った時、すでに彼女の存在は無く、ただ麦わら帽子が私の頭に被さっているだけだった。

 親戚宅に帰ると、私はこっぴどく親に叱られた。あそこまで怒っている親を見たのは今までの中で初めてだと思う。まあ、こればかりは自分が悪いので仕方のないことではあるのだが…。


 次の日、私は午前中からあの岬へと向かった。スニーカーのつま先を整え、玄関を飛びぬける。今日は快晴、雲一つない吸い込まれそうな勢いの青空だった。岬に近付くにつれて、私の鼓動は高まっていく。昨日と同じあの白いワンピースのシルエットが見えて来た時、私の感情はピークに達した。「早く会いたい」私はその一心で彼女の元へ駆け足で向かった。

 彼女の元に着くや否や、

「麦わら帽子、返しに来ました。」

と、私はすぐアキに麦わら帽子を差し出した。出会ったらまずしなければならないこと、そう考えていた。しかし予想に反し彼女はそれを受け取るどころか、何故か笑い出してしまっていた。私はその意図が全く分からず、ただその場でキョトンとする他なかった。

「いやいや、ごめんね。昨日、それはあげたつもりだったんだ。確かに『返してね』って言ったけど、まさか本当に返しに来るとは思わなかったからさ。その麦わら帽子はあげるよ、大事に使ってね。」

彼女は目元の笑い涙を指で拭っていた。その意図を理解した途端、私は無性に恥ずかしく感じ、何処かへ隠れたい気持ちで一杯になった。しかし、ここは岬。あるのは青空と海のみ。現実は非常なことに隠れる場所なんて一つも無かった。

「アキはまたここで何してたの?」

恥ずかしさをどうにか紛らわせようと、言い放つように言った。

「私かい? 私はここから見える海を楽しんでいたんだよ。海はいいものだよ。何処を切り取ったって波は、二度と同じ景色にはならない。変わり続ける一瞬。いつ見たって飽きることはないものだよ。」

彼女はそう言うと苔むした石碑の横に腰を下ろす。

「ずっと一人で? ここにいるの? ほかには誰もいないの?」

「んー、一人ではないんだけど…。まあでも、君から見たら一人か…。それもしょうがないか。」

アキはまた笑い声をあげていたが、それは先ほどのものとは違い少し自傷の籠る乾いたものだった。

「あ、あそこに船が見えるよ。あれは隣町から出ている漁船だね。というかあの爺さんまだ漁師やってたんだ。そろそろ70歳を超えるだろうに…。君もここに座りなよ、今日は飛び切り良い景色だしさ。」

彼女の瞳はどこか寂しげで、海を見ている筈なのに、どこかもっと遠くを見ているような気がした。心なしか、彼女の背中もどこか小さく見える。こういう時、私にはどうしてよいのかわからなかった。踏み切って会話をするべきなのか、はたまた距離を置くべきなのか。しかし「何もしない」と言う選択肢だけは生憎、私の中には持ち合わせて居なかった。

「でも今は二人。私とアキで二人。」

私はアキの横に座り、一緒に遠くの海を眺めた。彼女は私の行動に驚いた様子だったが、

「全く、面白い子だよ君は…。」

と呟いていた。彼女はゆっくりと顔を空へと向けた。

「空も中々美しいものだね。いつもここから海を眺めているだけだったから気が付かなかったよ。あぁ、綺麗な青だ。」

横に立つ彼女を見やると、雲一つない青空なのに彼女の頬は雨模様だった。

 結局、その日の大半は景色を眺めることに費やした。途中、アキの誘いで海辺を散歩したり、貝殻を拾ったりなどはしたが海の側から離れるということは無かった。散歩の途中、アキに色々な質問をしてみた。例えば「何処に住んでる」だとか「いつも何してる」だとか。彼女は一応は回答してくれるのだが、その解答と言えば、どこか曖昧なもので彼女の私生活についてわかることは何一つ無かった。ただあの岬に立つ石碑についての質問は、何一つ答えてはくれなかった。アレが何であるのか、あのコケを剥がした時、一体何が刻まれているのか、私には想像がつかなかった。

「明日もここに来てくれるかい?」

彼女は去り際に言った。沈みゆく太陽の色で染まったワンピースが風にひらひら揺れていた。そんな美しい姿を見せられて、「来ない」なんて言えるわけがなかった。私は首を縦に振り、

「また明日ね。」

とだけ返し、踵を返し彼女に背を向けた。すでに遠くの空は少しずつ闇夜に侵食されつつあった。彼女との過ごす時間が名残惜しく、どうしてももう一度彼女の顔が見たくなる。

「ねえ、アキ。」

私は振り返る。岬に立っていた筈のアキは既にいなくなっていた。岬から飛び降りた音なんてしなかったし、横を通り過ぎた気配もなかった。どうやってか彼女は消えたのだ。通り抜ける風の音と、嘲笑うような鳥の泣き声が鼓膜を激しく叩く。この世ならざる情報の前に、ただ立ち尽くすしかなかった。


 また一つ夜が明けて、私はやはりあの岬に向かっていた。現在の時刻は朝6時前、街はまだ眠っていて行く道は穏やかで静寂に包まれている。本音を言うと私自身まだ眠く、思い瞼を擦り、欠伸を洩らしながら歩いていた。右手にはバケツ、左手にはブラシを引っ提げまさに準備万端だった。あの日の夜、私はアキと言う人物について色々思案した。結論として彼女が何であるかは出せなかったが、あの石碑が彼女に関係しているということだけは大方予想が付いた。あの石碑について、昔からここ周辺に住んでいる親戚達に一応聞いてみたのだが、「そういえばそういうのあったな。」という反応を示すだけで詳しいことはわからなかった。

 岬についても辺りには、あの「アキ」と名乗った少女はいなかった。私は「石碑の文字を暴くのに好都合だ」と、安心し胸を撫で下ろした。改めて石碑を見ると苔や泥で何が書かれているのか全く分からない状態になっていた。海で水を汲み、ブラシで石碑を擦り始める。水の冷たさがどこか心地良い。少しずつ苔が剥がれ落ち、やっと一つ目の文字が見えて来た。

「えーと、『川』。なんだろう…。」

書かれていたのは『川』と言う文字だった。私の好奇心はさらに高まり、さらに石碑を強く擦る。普段こんなことをしないせいか腕が痛くなってくる。擦れば擦るほど徐々に他の文字が姿を現し始め、石碑に刻まれたすべての文字が姿を現した。

「『宮』、『川』、『綾』…? 宮川綾…。誰だろう、聞いたこともないや。これがアキに関係する人なのかな…。」

私がこの文字の意味するものを推察していたが、それは背後から聞こえる誰かの足音で中断せざるを得なくなった。石碑を擦ったのとはわけが違う、嫌な汗が背中を伝っていく。私は息を呑み、呼吸を止めた。

「あーあ、それ見ちゃったか。やっちゃたねぇ~、君~。」

振り返ると、白いワンピースを風に靡かせ白い花束を持った少女、アキが不敵な笑みでこちらを見つめていた。


 Ⅱ

 覚えている、あの日のこと。覚えている、全てのこと。忘れたことなんて一度だってない。

大勢の大人の忙しい足音、飛び交う怒声、耳に響くサイレンの音、そして誰かが泣く声、複数の懐中電灯の明かりは交差しながら、ゆらゆらと踊る闇の海を照らしている。海面から4人の男が顔を出した。男達は大きなゴーグルをつけており、背中には酸素ボンベを背負っていた。

「おい、見つかったか!」

陸で支持を取っている男が叫ぶように言う。

「いいえ、見つかりません。この時間の海での捜索は困難です!」

男達の中、リーダーらしき一人が焦燥の籠った声でそれに答えた。辺りは既に陽が落ちており、明かりと言う明かりはすべて海に飲み込まれてしまっている。

「そんなことは知っている! もうすぐ別の部隊が応援に来る、それまでこの近辺を捜索しろ!」

「残り捜索可能時間はどれぐらいですか!」

「せいぜい一時間ほどだ! 時間の許す限り少女を探すんだ!」

海の男達はハンドサインを出し合い何らかの会話をすると、また急いで海の中へと深く潜っていった。私は5つの燈火が底へ消えていくのをただ目で追った。私にはこの場で何が起きているのか理解できなかった。何故いつもは閑散としている筈の、この岸壁に大勢の人がいるのか。そして何故、ここにいる人たちは焦りや悲しみの表情を浮かべたり、海の方へと憐みの眼差しを浮かべているのか。この時の私にはまだわからないことだらけだった。しばらくして一組の男女が息を切らしながら走ってきた。彼らは人込みを押しのけ「keep out」と書かれた黄色のテープをを潜ると、中にいた警察官に連れられて奥へと入っていった。

「すいません、海に落ちたのって本当にうちの子のなんですか? 教えてください!」

男は焦ったように言う。警察官は「まあまあ、まずは落ち着いてください」と手で二人を制止させると、袋に入った白の小さな手提げを取り出した。

「これを見てください。見ての通り手提げ鞄です、それも子供用の。お二方はこれに見覚えがあるのでは。」

「確かに見覚えはありますけど。それがうちの娘のものだと確信できるとは…。」

男は何だか歯切れの悪い様子だった。何か思い当たる節があるのだろう。警察官は「あ、そういえば」と言う表情を浮かべると、二人に質問をした。

「聞き忘れてましたが、あなた方の娘さんってこんな時間に外で何をしていたんですか。噂によれば姉妹なんですよね?」

「上の娘は友達に会ってくると、近くの海岸へ行っていて、下の娘は学校に忘れ物をしたとのことで急いで取りに行っていました…。」

女は赤く腫れ涙の溜まった眼を擦りながら、警察官の方を見やった。彼はまた何かを探して鞄をガサゴソと漁り始めていた。

「それで娘さんは何を忘れてたんですか? 多分そこが重要なんですよね。御互いの情報共有をしましょう。」

「たしか水筒だったと思います、蓋がコップになるタイプで…」

「色とかは他の特徴は思い出せますか?」

「色は水色で…、そうだ、底に名前のシールが貼ってあります。娘のかどうかは底見れば一目でわかります…。」

そう女が言い終えると、少しの沈黙が辺りを包んだ。二人は怪訝な顔付きで「どうしたんですか?」と警察官の肩を揺らした。彼はその場で少し考えた様子で、二人を車から取り出したパイプ椅子に座らせるとゆっくりと話し始めた。

「えー、まずどこから話そうか。そうですね、最初の第一発見の状況から説明させて頂きますね。第一発見者は近くの船で漁の準備をしていたおじいさんで、彼が言うには『大きな水の音がしたのでその方向を見ると、人が溺れている様子だった。仲間に通報を頼み、自分は海へ潜り救出しようとしたが間に合わなかった』とのことです。そして数分後私たちがここに駆けつけたというわけです。ここまでは大丈夫ですか?」

彼は二人が理解したか確認をし、頷いたのを見るとさらに話し始めた。

「多分、ここからがあなた方にとって重要な話になると思います。私たちが到着後、海中を捜索していると海面に先ほどの手提げが浮かんでいるのを発見しました。確かに手提げだけ見たって持ち主がわからないんですが、実は手提げの中に例のものを見つけてしまいましてね、これですよ。」

それを見ると二人の瞳に絶望が宿った。警察官が出したのは水色の水筒だったのだ、それも蓋にとっての付いた。

「ええ、お二方も大体状況が理解できたと思います。私たちはこの水筒の持ち主から辿りあなた方に電話をし、呼び出した次第です。もしこれが嘘だと思うなら、水筒の底を見てください。きっと『宮川綾』と言う名前が目に入ると思いますから。」

二人は恐る恐る底を確認すると泣き崩れた。その弾みで二人の手を滑り落ちた水筒は、私の方へと転がっていき、私の足に「コツッ」と触れた。それを見て私はようやく状況を理解した。「ああ…。ああ…。」胸の内から黒くてドロドロとした感情が湧き上がり、私を飲み込んでいく。その名前のシールがこれが夢ではなく、事実であるということを淡々と語っている。私はふらふらとその場に倒れ込み、その水筒を胸元へ抱きしめた。頬をあたたかな水滴が撫でる。

「なんで…、どうして…。」

私は誰に向ける訳でもなく、ただただ呟いていた。『宮川彩』、それは私の実の妹の名だった。


私達姉妹は年子の姉妹だった。私が『明』、妹が『綾』と言う名で、まるで双子の様に育てられてきた。確かに時には喧嘩をしたこともあったが、私たちは真に信頼し合った関係だった。その大切な妹が死んだのだ。その時、私は言いようのない喪失感と絶望感が身を襲った。五日後に数キロ離れた海岸に妹の死体が打ち上げられているのが発見された。死因は溺死であったが、背中には刃物で刺された跡があった。警察の話によれば何者かに複数回背中を刺された跡、海の中に放り込まれた可能性が高いとのことらしい。だがその犯人は未だ不明で、犯人につながる痕跡すら見つかっていとのこと。

「ねえ、綾。あの時何があったの? 今どこにいるの?」

海に向かって話しかける。うみねこの泣き声とさざ波だけが辺りから聞こえるが、私の求める声は返ってこない。顔を上げると、遠くに沈みゆく夕陽に話しかける。

「そういえば岬に石碑が建つらしいよ。町で悲しい事件が起こった戒めだってさ。」

また私は独り言のように言う。町が石碑と建てると決めた時、意外なことに住民は反対をしなかったらしい。表向きには戒めと市長は言っていたけど、多分遺族への心の拠り所を作ってあげたかったんだと私は思う。「街に支えられている」本当にその通りだった。

「そうだよね、落ち込んでちゃ駄目だよね。それじゃもう行くから、また明日。」

ゆっくりと立ち上がると、もう一度夕陽を見つめた。不意に背中を柔らかな風が撫でる。

「お姉ちゃんは大丈夫だよ。」

私は呟くように小さく言った

 この事件を除けば私の人生はなんの問題もなく進行していった。あの日、友達と会う約束をしたがその友達は事情を話すと「それならしょうがないよ、大変だったね。」と言ってくれたし、他の友達だって妹を失った私を励まそうと手紙をくれたり様々なことをしてくれた。そうしたこともあってか、私は次第に立ち直っていった。


だが事件から五年後、私は事件の犯人を知ることになる。

高校二年の夏祭りの帰り、私は妹の石碑へと足を運んだ。何か良いことがあった時、ここに行くことが私の日課だったからだ。この年は妹の命が奪われて五年目で、犯人は未だ捕まっていなかった。そのことに対し私は憤りが無かった訳ではないが、考えたところで犯人が捕まらないのだから、憤るだけ無駄だと割り切っていた。

「ねえ、実は今日近くで夏祭りがあったんだ。地元の高校の友達と一緒に屋台回って、花火見て、やっぱり誰かと何かするって楽しいね。そういえば昔、綾と一緒に祭り行ったことあったよね。いや~、あの時は大変だったんだよ。綾の草履の紐が途中で切れちゃってさ、その場で綾泣いちゃったんだよね。結構前の話だけど今でも昨日のことのように覚えてるよ。あ、それでね…。」

こうやって石碑の前に来ると私はいつも長話をしていた。話したからと言って妹から返事が返ってくるわけではないけど、話さずにはいられなかった。今思うと、きっとまだ心の整理がついていなかったんだと思う。平凡な日常を襲った悲劇、頭ではそれを理解できていても、心がそれを理解できなかったのだろう。自分の弱さが憎い。

「綾、あの日のこと覚えてる? 確かあの日、イルカのペンダントをあげたよね。あれ作るの結構大変だったんだよね。大きな貝を削って、綾の好きなイルカの形にするのにどれだけ苦労したことか…。それでね、綾が死んだ後に遺品の整理をしたんだけどあのネックレス見つからなかったんだよね。お母さんが『綾が出かけるときに着けていった』って聞いて、お姉ちゃん実は結構嬉しかったんだ。それじゃ、お姉ちゃんもう行くね。また何かあったら来るから。」

明瞭に見えていた筈の星々の煌めきがどこかばんやりとしている。自分の肩が自然と震えていた。こうして石碑の前から離れるとき、「あー、妹はもういないのか…」と改めて実感させられる。

「あれ、あきちゃん。やっぱりここにいたんだ。」

向かいの暗闇から、私の友達の一人声が近づいてくる。彼女の名前は『坪井聖子』、通称『せっちゃん』。私の昔からの友人で、さっきまで一緒に夏祭りを見ていた一人でもある。彼女は昔から私のことを気遣ってくれる。あの日の会う約束をした友達でもあり、を本意ではないにせよドタキャンした私を許してくれた心優しいひとである。でも、何故今この場に彼女がいるのか私には見当がつかなかった。時計で時刻を確認する、夏祭り組と別れたのは三〇分以上前のことのようだ。

「せっちゃん、どうしたの? 何かあった? それにここにくるなんて…。」

「得に用事って訳じゃないんだけど、ちょっとね。」

彼女はこちらに向かってゆっくりと歩き出す。月明かりに照らされて顕わになる彼女の表情は、いつもの朗らかなものとは打って変わって、何処か冷たく冷酷なものだった。「あいつを見ろ」、野生の本能がそう告げている。彼女の服装は祭りの時のまま、左手には何も握られていない。右手は彼女の後ろに隠れていて見る事はできない。

「ねえ、ちょっと待って。せっちゃん、その右手を見せて。」

岬は一方通行、彼女の脇を通って逃げ出すことは難しい。今は聖子の右手を確認し、状況を把握することが先決だった。私は彼女が何を持っていても良いように、ありとあらゆるものを想像した。もしかしたら彼女自身のバッグだったりペットボトルかもしれない。または右手を背中で隠しているだけで何も持っていないかもしれない。ただ、もしもそれが私に危害を加える為に持ってきたものだとしたら…。例えば妹を刺した刃物だったら…。

「ああ、これ? 大したものではないんだけど、そんなに見たい? しょうがないなぁ。」

彼女がするりと出した手に握られたものは、月明かりを煌々と反射させた。

「あぁ、そうか…。そうだよなぁ…。」

私はその冷酷無比で平等に人を傷つける形をしたものを見ると、今自身が置かれた状況を完璧に理解した。どうやら悲しいことに、当たったのは悪い方の予想のようだ。

 そうしている間にも彼女はどんどん近付いてくる。今の状況を理解したとはいえ、何故そうなったのか私には見当つかなかった。「さっきまで一緒にいた友達が何故」その一言に尽きる。

「せっちゃん! なんでそんなもの持ってるの! とりあえずお互い冷静になろうよ!」

精一杯の声で叫ぶ。普段の聖子はもっと優しくて明るい。昨日だって一緒に遊んだし、祭りの時は食べ物を共有したりした。どうしても私には聖子が何かに脅されているとしか思えなかった。

「私は至って冷静だよ。あぁ、そうか。あきちゃんは私が脅されてやってるとか考えたんだね。大丈夫だよ、安心してね。別にあきちゃんが思ってるようなことは何一つないから。」

私の知る聖子の面影はもうそこには無かった。言い捨てられた言葉はいつもの温かみなどなく、淡々として冷徹なものだった。

「『なんで私がこんな目に』って顔だね。まあその気持ちもわかるよ。だってあきちゃんはただの理不尽の被害者だしね。まあとりあえず、これなーんだ?」

彼女はパーカーのポケットを「これじゃなくて…、えーっと…」ガサゴソと漁ると一つのものを取り出した。それを見て私は青ざめた。そんな筈はない。聖子がそれを持っている筈はないのだ、ある一つの可能性を除いて。

「せっちゃん、なんでそのペンダントを持ってるの?」

彼女が取り出したのは、五年前に死んだ妹の『綾』に私があげたもの、そうイルカのペンダントだった。新たに見せつけられた事実に、私の頭は酷く混乱していた。

「どういうこと⁉ 説明してよ!」

「そのままの意味だよ。私があきちゃんの妹を殺したんだ。」

彼女は事実をただ淡々と言った。自身が殺したというのに動揺の色すら微塵も見せなかった。彼女は大きく振りかぶり、手にもっていたペンダントを岬の先へと投げた。数秒後、カランッと海面から突出する岩に当たる音がした後、海の中へと消える音がした。私は怒りを覚える前に身の毛がよだつ程の恐怖を感じた。聖子と目が合う、本能的に次は自分だとわかった。ただ私はタダでは死ねないと感じた。私と妹が狙われた理由を聞くまで、そう易々死ぬことは私自身が許さなかった。

「もう私の知る聖子じゃないことはわかったよ。なら最後に教えてよ。なんで妹を殺したの? なんで私を殺すの? 教えてよ!」

「そんなの単純だよ。私、あきが好きなんだ。だから殺すの。それだけだよ。」

意味が解らなかった。「好きだから殺す」、確かに彼女はそう言った。愛くるしくて人を殺すと言うのはいつかの小説で読んだことがある。だが妹は? なぜ殺される必要があった?

「聖子、私を殺すというのはまだわかる。でもどうして綾を殺したの! 綾は無関係なただの妹でしょ!」

「何を言っているんだよ、あき。妹ってだけで既に無関係じゃないんだよ。」

「何を言ってるのかって? おかしいのはそっちだよ!」

「しょうがないなあ、最期だからサービスだよ。あの日に起きたこと全部教えてあげるよ。」

彼女は更に歩み寄り、手を伸ばせば近付く距離まで迫った。反射的に後ずさりもするも、もうそこは岬の端。逃げ道なんてものは無かった。彼女はナイフを私の方へ突き出した。青白く光るその刃は残酷なほど美しかった。

「あの日、私と会う約束してたよね? 実はあれ、あきちゃんを殺す為に呼び出したんだ。ずっと前から好きで好きで、それはもう殺したいほど君のことが好きだったんだよ。」

彼女の瞳はどこか寂しげだった。

「あなたのことを殺そうと待ってると、遠くから君の妹が走ってくるのが見えたんだ。別にそれだけなら私は妹なんて殺してなかったよ。でもね見ちゃったんだよ。君の妹が大事そうに首からイルカのペンダントを下げていることに…。最初は『あの光るものは何だろう』と思うだけだったけど、近付くに連れてそれがなんだかわかったんだ。」

「それが私の妹を殺した理由? そんなつまらない理由で私の妹は奪われたの?」

「あきちゃんがつまらないと感じても、私にとっては重大な問題なんだよ。私の方が君のことを思っている筈なのに、家族という理由だけで君からプレゼントを貰える。そんなことって不公平だろう? だから後ろから切りつけ海に突き落としたんだ。でもまあ、溺れる様子は実に滑稽だったね。その後は一目散に家に逃げたね。それからは捕まるんじゃないかってびくびくしたよ。でも警察は結局犯人を見つけられなかったね。だからこうして私は生活できている訳だしね。あ、そうそう、このナイフで切りつけたんだよねぇ。」

彼女が言ったことには嘘偽りなんてない、伊達に彼女と一緒に居たわけでなのだ、そのことは瞬時に理解できた。

「あの日に何が起きたかはよくわかったよ。聖子が犯人だとわかって良かった…。本当に良かった。」

私は彼女の突き出したナイフを力一杯叩き落とした。彼女の右手からナイフは滑り落ち、地面に突き刺さる。私はそのまま彼女を押し倒し、馬乗りになって殴った。何回も殴り皮が擦れたのか、握るこぶしが痛む。

「痛いっ、痛いっ、やめてよ!」

彼女の懇願する声がするが、私にはそんなものはどうでも良かった。妹の仇をとる、その一心だった。

「っ!」

急に左わきに暖かな感触と雷鳴の如き激痛が走る。着ていた服が赤く染みつき、徐々に染みが広がっていく。彼女の左手にはまた別のナイフが握られていた。どうやら他にナイフを隠し持っていたらしい。彼女は頭突きし私を体からひっぺがえすと、よろよろと立ち上がった。私も負けじと立ち上がるが、痛みで足が小刻みに震えていた。

「これでおしまいだぁ!」

彼女は凄まじい形相で突進してくる。避ける間もなく鋭いナイフは私の腹へと滑り込んでいく。激痛に顔が歪み、口からは血が流れる。足元にできた血だまりは流れ出す血を吸い上げ辺りへと侵食していく。私は膝から崩れ落ち、血だまりに倒れた。

 聖子の高らかな笑い声がする。でもどこかその聞こえ方が変だ。音が遠くで響いているような、音を壁越しで聞いているような。近くで鳴っている筈なのにどこか現実感がないものの様に思えた。霞む視界で辺りを見渡す。地に立つ聖子の足が見える。朦朧とする意識を集中させ、さらに辺りに目をやる。一面は真っ赤な血で満ち満ちていた。どうやら相当の出血のようだ。もう助からない、本能的に察した。ただこの時、私はここから楽に死ぬ方法なんて考えていなかった。あいつに一矢報いる、それだけしか頭になかった。

「あっ…、あれは…」

私は視線の先に見えるものに目を奪われた。それは地面に突き刺さるナイフ、それも聖子が妹を切りつけた時に使ったというものだった。まさに天啓、私はもぞもぞと軋む体を這いずらせナイフを引き抜く。「力を貸して、綾…」私は震える体に鞭を打ち何とか立ち上がらせると、後ろを向く殺人鬼へとタックルと同時にナイフを突き刺した。

「へぁ?」

そんな殺人鬼の気の抜けた声と共に、私と殺人鬼は崖下へと飛び落ちた。水飛沫が辺りに散らばり、私達は海の深く深くへと落ちていった。殺人鬼は水面へともがいていたが、私は決してナイフを離さなかった。やがて殺人鬼は水中で動かなかくなった。私はとうとう仇を討ったのだ。

「あっ、あれは…」

月の光に反射するペンダントが目の前を漂っていた。ただその形は本来ものとは微妙に違っていた。イルカの体の半分がそこに無かったのである。きっと落ちた時に割れてしまったのだろう。ペンダントに手を伸ばし握りしめる。

「綾、もうじきそっちに行くから、待っててね。」

赤く染まりつつある海の底へ身を任せ目を瞑った。

 星空溢れる夏の夜、私、宮川明は一つの泡に消えた。


 Ⅲ

 ただ立ち尽くす。「せっかくだから、昔話をしてあげるよ」、アキの語った『宮川明』と言う人間の人生は壮絶なものだった。頭の中で情報を整理する。『明』の妹は殺されて、彼女はその仇を討って、それで死んだ。それならば今、目の前にいる彼女は一体誰なのか。そして今それを口にする意図は何なのか。全身に悪寒が走る。『明』とアキ、死んだ人が蘇ることは絶対にありえない、それは自明の理であった。考えたくもないのに、思考は巡ることを辞めてくれそうにない。

「死…人…なの?」

驚愕の眼差しで、にんまりと笑みを浮かべる彼女を見つめる。

「まさに正解だよ。それで君、これからどうする? 目の前には悪霊、後ろは崖。逃げ場は無いみたいだよ。」

ゲージに閉じ込められたモルモットで遊ぶかのような口調だった。自分の置かれた状況は、まさに彼女の言う通りだった。絶体絶命、まさか自分がこんなことになるとは思っても見なかった。手に持つのはブラシとバケツ。使いようによっては武器にならないわけではないが、非常に心細い限りである。と言うかそもそもの話、実体がないのに攻撃が通用するのだろうか。そう考えている間にも、お構いなしに彼女はじりじりと迫ってくる。

「どうしたの、逃げるか何かしないと大変なことになるよ? それとも、もう諦めたの? まあ、それを選ぶなら止めしないけどさ。でもいいの? まだまだ、人生謳歌したいでしょ?」

私は体の中に神経を集中させた。手は動く、足も動く。体中の筋肉が「準備万端、いつでもいける」と告げている。私の体は生きることをまだ諦めてはかった。

 持ってきていた道具から手を離す。私は力の限り地面を蹴り、一目散に走り出した。悪霊の視線は私を追っていたが、一拍置いて聞こえてきた道具の落下音に一瞬気を取られていた。これがまさに幸運だった。私は更に歯を食いしばり、その隙に横を駆け抜けた。一瞬見言えた横顔は、まだ私のことに気が付いていなかった。そのまま海岸線の道路へ向かう。やっとだ、やっとこの恐怖から解放される。この時の私の胸の中は、岬から離れることが出来た喜びで一杯だった。全身の力が緩んでいくのがわかる。とりあえず家に帰ろう。そしてもうこの岬には近づかないことにしよう。あ、そういえば明日この町から離れるんだった。頭の中で様々な雑念が湧いてくる。ああ、あとこの一歩を踏み出せば道路に出れる。目の前の解放感を得ることを絶対的に確信した。

 今思えばこの時の私は気が緩んでいた。「問題と言うのは様々な要因が複雑に絡まって初めて発生するものである」いつだかに読んだ本にそう書いてあったのを覚えている。そのこと自体には私は何の反論はないし、素直に同意もできる。ただそれは「注意力」と言う者を絶対の基盤としている事を忘れてはならない。「注意力」が無いのなら上に何が積み重なっていようとも、甲斐も空しく全て瓦解していくものなのだ。まさに今の私はその重要な「注意力」と言うものが頭から抜けて落ちていた。そしてそれは他の致命的な本題を連鎖させることになる。

「あっ…。」

一瞬何が起こったのか理解できなかった。右足が何かに引っかかり、体は勢いよく前のアスファルトに倒れて行く。全身に酷い激痛が走る、特に膝は痛みのあまり震え上がっていた。「痛ったぁ…。一体、何が…。」

手を付いて道路に転がった体を起こす。辺りを見回して、私はやっと状況を理解した。どうやら道路の縁石に足を引っかけてしまったらしい。「そうだ、あの悪霊は…⁉」私が次に気になったのは怪我の様子ではなく、あの悪霊についてだった。岬からここまで走って離れたのだ、消えてはいないだろうが距離は稼いでいて良い筈だ。どの宗教の神かは知らないが、これくらいの願いなら願っても許してくれるだろう。私は焦る鼓動で振り返った。。

そこにあったのは、あまりに無慈悲な現実だった。透き通るような青い空、吸い込まれるような青い海、その狭間に立つ穢れの無い程白いワンピースを纏った少女、そしてその不気味な笑顔。体から血の気が引いていく。視界が揺れ、私の意識は空へと煙のように立ち昇っていった。


 頬にひんやりと冷たいものが触れている感覚がある。それは混乱していた私の意識に輪郭を持たせ、心を落ち着かせてくれている。どこかで私を呼ぶ声がする。覚醒しつつある意識に神経を集中させ、声の元を辿る。

「おーい…。起き…る? …きー、みきー?」

次第に音が言語として伝わってくる。そうだ。私は悪霊に襲われて死んだのだ。ならこの全身を包みこむような温かな感覚も理解できる。もうじき天使が私を迎えにくるのだろうか、それまでもう少しだけ寝るのを許して欲しい…。

「ねえ君、いい加減起きてくれないかな~。そろそろ足が痺れてきてるんだけど。と言うか、なんだその顔は。随分と幸せそうに寝てくれるなぁ。」

わざとらしく言う声は、さっきよりもよりはっきりと聞こえてくる。なんだか頬を抓られて、ぐりぐりと引っ張られている気がする。私の思う死後の世界はもっと華やかで自由なものだったのだが、実際は寝かすことを許さないどころか頬まで抓ってくるようだ。

「おお、強情だねぇ。ここまでしてもまだ起きないのは素直に凄いと思うよ。」

天の女神が起きて欲しいと懇願している。ならばこの『新江みき』、起きるしかないだろう。目覚めたその先、そこには一体何が広がっているのだろうかと思案する。蓮の咲く美しい池なのだろうか、それとも下界を見渡せる天空の城なのだろうか。ただ、どれも美しい景色なのだろう。考えるだけで胸がときめいて仕方がない。新しく広がる世界に思いをはせ、瞳を開いた。

「目覚めの具合はどうかな、眠り姫。」

視界の先に居たのは、あの白ワンピースだった。私は反射的に後ろへ下がった。そんな様子を見て悪霊は笑い始めていた。一体、今はどういうことなのだろう。私はさっき死んだはずじゃ…。それに目の前にはあの悪霊が座りこちらを見つめている。

「アヤ、一体あなたは何がしたいの? 秘密を知った私を殺すんじゃなかったの?」

「一体、何時私が君を殺すなんて言ったよ。いやー、ごめんね? 君の反応があまりにも面白かったからお姉さんちょっと意地悪しちゃったよ。お姉さんは悪霊じゃないし、君を殺すなんて思ってませーん。」

「え? それは一体どういう料簡で…。」

軽い調子で告げられる衝撃の真実に私は頭が真っ白になった。「生きていられる」、そのごく当たり前で平凡極まりない事実が、掛け替えのない大切なものだとこの時改めて気付かせられた。安心感が全身を襲い、体の力が抜け、涙までもが零れ落ちてくる。

「なんでこんなことしたのアキ? 別に虚構の人の過去をでっちあげたり、悪霊のふりまでしなくたって良いのに…。」

「いやいや、私、悪霊じゃないってだけで幽霊なのは本当だよ? 一度でもこういうことやってみたかったんだよねぇ、ほら海外の映画とかでもあるじゃん、こういうシーン。」

「はぁ?」

「だから幽霊なんだって、十年前に本当に死んだんだよ。」

先ほどの安心感が血の気が引いてくる。さらに告げられた真実は、私の言葉を奪うのには十分だった。私が驚き、魚の様に口をパクパクとさせていると、その幽霊は「やれやれ」と言った表情で溜息をついた。

「ちゃんと説明するから、とりあえず落ち着いてよ。君が倒れた時、ここまで運ぶの大変だったんだよ? 折角目覚めたのにまた気絶とかやめて欲しいかな。」

私たちは石碑の前に座り直し、一体何がどういうことなのか話し合うことにした。そのとき気が付いたのだが、私の膝や肘には絆創膏が貼られていた。どうやら私が気絶している間、彼女が治療してくれたようだ。

「さて、気づいてると思うけど私が『宮川明』だよ。そしてこの石碑は私の妹の『宮川綾』のやつ。私が死んだのが十年前だから、妹が死んだのは十五年位前の話になるのかな。あの時は本当に大変だったんだよって、まあこの話は興味ないか。と言うか私のことはさっき話つくしたんだけど…。逆に、君が私について知りたいことって何かあるかい?」

彼女は顎に人差し指を当て首を傾げた。『何でも』と言われると困ってしまうのは人間の性だが、この時に限っては私には聞きたいことが山ほどあった。非日常の概念である筈の、幽霊が目の前にいるのだ。誰だってそうなるだろう。私はまず、人間の最大の疑問を口にした。

「じゃあ、聞くけど、死んだらどうなるの…?」

「死んだらかい? 確かに死ぬ瞬間は苦しいけど、死んだらなんも感じないよ。お腹も空かないし年も取らなくなるよ。あ、そうそう。言い忘れてたけどこの体は当時のままなんだよだね。」

「死んでから私に会う前って何してたの?」

「十年間ずっと独りでこの辺にいたよ。生きてる人に話しかけたって気づいて貰えないし、誰にも認識されなかったからね。だから君が私を見つけた時は本当にびっくりしたよ。まさか十年目にしてやっと最期に話せる人に会えたんだから。」

彼女の声は嬉しそうだった。それを聞いていると、何か自分が善を積んだ気持ちになる。ただそれと同時に、新たに一つ単純な疑問が私の中で湧き上がってきた。何故私には『明』が見えたのか。

「明、私にあなたが見えるのって何か訳があったりするの?」

「さあ、どうだろうね。私にはわからないかな。」

「思い当たる節とかは?」

「それも無いかな。逆に君には思い当たる節は無いのかい? 普通の人には見えないのに君には見えるってことは、君が周りとは違うとしか私には思えないけどね。」

「なにか変なのかな…。」

冷静に分析すればその通りだった。周りの中で自分だけが異常なのだ。なら自分に何か問題がある筈なのである。私がその事実に少し落ち込んでいると、それを見かねて明は優しく声を掛けてきた。

「まあそう思いつめなくても…。ここからは私の予想になるけど、『宮川明』と『新江みき』の回線が偶然繋がっただけじゃない? 本当に幽霊が見えるなら、私以外の幽霊が見えててもおかしく無い訳だしね。」

「そうなのかな…。」

あくまで推測の域だったが、他の幽霊が見えない訳としては十分私を納得させるものだった。

「明はこれからどうするの? これからもこの岬にいるの?」

「あー、それがね、もうそろそろ時間なんだ。」

「時間って、なんの?」

「この世界におさらばする時間。」

別れの言葉は突然だった。

「え、今なんて言ったの?」

彼女の発した言葉は聞こえている。彼女は確かに『おさらば』と言った。その単語が意味するのが解らないほど私は子供ではない。ただ聞こえた言葉が、何か聞き間違いであって欲しかった。

「だから、おさらばする時間だって。言ってなかったけど、幽霊でいられるのって期限が決まってるんだよね。確か人によって…、死んでるのに人って数えるのかは分からないけど、人によってその時間は違うらしいよ。私が与えられていたのは十年、実は今日は私の命日なんだ。死んだ日にこの世を去るってのも中々乙な話だとだと思わない?」

「待ってよ、私達ってまだ出会って三日しか経ってないんだよ。仲良くなってこれからって時なのに、お別れなんてあんまりだよ!」

「とは言われても、決まりは決まりだしなぁ。」

「私まだ、聞きたいこと沢山ある!」

彼女が私から離れないように必死だった。

「わかったわかった、私が消える瞬間まで横で話そうよ。私もこの世に居れる最後の時間まで誰かと一緒に居たいからさ。」


私たちは背中合わせで座りあい、様々なことを話し合った。

「え、私の家の親戚って、明の中学時代の友達なの⁉」

驚きの声が波の音と重なった。

「そうだよ、あの子は昔やんちゃだったんだよ。山に行けば蛇捕まえて、海に行けば貝を拾って誰が遠くまで投げれるか競争してたなぁ。今考えるとあれは生命に対するイジメだよ、完全に。」

「あの人って大人びてるのに、昔はそんなことしてたんだ。今じゃ子供だっているのにね。」

「子供ぉ⁉ あの子、子供なんているの⁉」

先ほどよりも大きな驚きの声が波の音と重なった。初めて聞く彼女の驚く声を聞いた気がする。それがどこか可笑しくて、私は思いもよらず笑ってしまった。その私を見て、とうとう明も笑い始めてしまう。話し合った内容は、明の生きていた当時のこと、この街について、私の住む都会の街についてだったりで、どれも他愛のないものだったが私たちの会話は自然と弾んだ。だが一つ、明が執拗に聞こうとしてくる私の恋愛事情だけはとことん黙秘を貫いた。私の恋愛事情は別に大したものではないのだが、言ったら最後、ネタにされる気がしてならなかったからだ。取り留めの無い話で時間が過ぎて行く。「時間の浪費」そう言われればその通りなのだが、そこにはどこか掛け替えのないものがあるように思えた。

 太陽が私たちの丁度真上に聳え立つ頃だった。彼女の手が私の手に重なった。いきなりのことで多少は心が焦ったが、直ぐに平静を保った。

「おやおや、どうしたのかな明君。寂しくなったのかな。」

私は茶化したように言いい、重なる彼女の手に視線を落とした。「ん?」視線の先にはあからさまに違和感があった。明の腕がぼおっと透け、微かに白い光を発しているのだ。光は粒子となり辺りへ放出されると、空気の中へと溶けて込んでいく。その光景は初めて見るものであったが、その意味することは大体察しがついた。

「ねえ、明。これって…」

私は重なる手を返し、手を強く握った。それを返すように明の手からも力が伝わってくる。

「そろそろお迎えの時間みたいだね…。私の人生、たった十七年間だったけど色々あったよ。でもね、後悔は無いんだ。その時の自分が正しいと思ったことをやったんだからね。今もそうだよ。今、みきとこうして一緒に居ることができてお姉さん本当に嬉しいんだ。みきと会ったのは三日間だけだったけど、私の幽霊生活の中では一番掛け替えのないものだったよ。みき、まさか泣いているのかい? そうか…ありがとうね、私の為に泣いてくれて。」

別れの時は泣かないと決めていたけど、私の頬には大粒の雫が流れていた。明の体は最初よりもさらに透けてきてしまってる。

「明、一緒に居てくれてありがとうね…。私、明と出会えて本当に良かった。明と話せて本当に良かった。」

「それは私もだよ、みき。もし私が消えても、また私のことを覚えていてくれるかい?」

彼女の声は震えていた。

「絶対に忘れない! 一緒に居たこと、一緒に話したこと、全部忘れないから!」

「そうか、それは良かった。私があげた麦わら帽子、大事に使ってね。いつかこの世にまた来た時、それを目印に君に会いに行くから。それじゃ、またね。」

彼女がそう言い切ったと同時に、握られていた手の感覚がなくなった。私は急いで後ろを振り返る。そこにはワンピース姿の少女などいなかった。白い光の粒子は空へ空へと昇っていき、やがて吸い込まれるように消えた。

 今日は快晴、波は穏やか。いつかまたどこかで。


 Ⅳ

 海岸線の道路脇に一台の車が止まった。扉を開けると共に、白い花束を抱えたツインテール少女がぴょこんと降りてきた。

「じゃあ、お父さんとお母さんはここで待ってるからな。今日も暑いからすぐ戻ってこいよ。あ、これ忘れてるぞ、被って行け。」

車の中から出てきた腕には麦わら帽子が握られていた。

「ありがとう、お父さん。それじゃすぐ戻るから。」

少女はそれを頭に深く被ると、帽子から覗く黒い髪を風に靡かせ海の方へと迷いなく駆けていく。。

「おーい、そんなに走って転ぶなよー。危ないからなー。」

車の方から先ほどと同じ父親の声が聞こえる。

「大丈夫だよー、転ばないって。それにもう十一歳だよ、子供じゃないんだからー。」

小さなサンダルは灼熱に熱された砂を蹴り、少女はさらにスピードを上げていく。辿り着いた先は境界のない青を臨める岬だった。誰が置いたのだろうか、岬の先の石碑には一杯の花束、そしていつか誰かが渡し砕けてしまった筈のペンダントの片割れが添えられている。少女は石碑に自分が持ってきた花束を添え、割れたペンダントを拾いあげた。初めてそれを見た筈なのに、どこかで見た気がしてならなかった。少女がそれ不思議そうに眺めていると、鳥の声と共に急に突風が吹いた。それに気が付いた時にはもう遅い。麦わら帽子は宙に舞い、遠くの海へとひらひら落ちていった。波に揺られる麦わら帽子はどんどん遠くへ流されて行く。

「あー、落ちちゃったね。これでも被りなよ。」

不意に背後から声は、どこか懐かしいもので聞いていると胸が落ち着いていく気がした。声の主は私の頭に何かを乗せ、私に語りかけた。

「麦わら帽子、返しにきたよ。」

湧き上がってくる期待を胸に振り返る。そこには笑顔でこちらを見つめる見覚えのある女性の姿があった。

「それはあげたつもりだったんだけどなぁ。でもまあ、今回はちゃんと受け取っておくよ。でもまあ、君は大きくなって私は小さくなったものだねぇ。あ、先に言わなくちゃいけないことがあったね。」

少女は胸いっぱいに深呼吸をした。

「ただいま、またここに戻ってきたよ。」


 透き通るような青い空、吸い込まれるような青い海、どの青にも染まらない白い花束はただ海風に揺られていた。


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