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珈琲の香りと共に。  作者: 芦谷虎太郎
5/5

5杯目

「彼は、甘いものがそれほど好きではなくて。でも時々は、私に付き合ってケーキを買いにいってくれたんです」

 これは今から少し前の話。私にとって、一声一代の大失恋の話だ。

「彼が必ず選ぶのがモンブランでした。私は新作が出るたびに何分も悩むのに」

 心臓が音を鳴らす。唇が震える。心の奥の奥にしまっておいたはずの記憶を少しづつ思い浮かべては、苦しいような悲しいような気持ちになる。あんなこともあった、こんなこともあったと過去の自分が羨ましい。

「今日だって本当は、ケーキなんて買うつもりなかったんです。でも、買ってしまった」

 駅前のケーキ屋さん。いつもは何も気にせず通り過ぎるのに、今日はなんだったのだろう。本当に気まぐれにあの扉を開いてしまったこと、少し後悔している。

「綺麗な店内で可愛らしいケーキを見ていたら何にしようかって、どれがいいかなって考え始めてしまって。甘いものが苦手でもこれなら大丈夫かなとか、でもやっぱりモンブランのがいいのかな、なんて。そんなことを考えながら選んでいるのが、すごく、楽しくて」

 これから彼に会いに行くような錯覚を起こした。しかしそんなことはあり得ない。彼の隣に、私はもういない。

「彼のために、そう思うと、どうしても時間を忘れる」

 フォークを手に取りケーキを一口分切って口に入れた。美味しい。

「もう半年近くになります。馬鹿みたいですよね。未練がましくて、自分でも嫌になります」

 今にも泣き出しそうになりながら、ミズキさんに笑顔を向けた。これが今の精一杯だった。未練がましい。本当にそう思う。たった半年?もう半年?私には酷く長い半年に感じた。半年も過去を引きずるだなんて、私の造り上げてきた私の人間像ではない。こんな姿誰にも見せられなかった。こんなにも女々しく無様な私など、私は認めない。学校と言うあの小さな世界で、必死に造り上げてきた私という人間を覆すわけにはいかない。

「珈琲の苦味に慣れるのに、半年もかかりませんでした」

 珈琲カップを手の中で遊びながらこの半年を振り返る。とても弱弱しい、情けない日々だった。感情などこれっぽちも働かないくせに、下手な演技でやり過ごし、ストレスばかり溜め込んで自分で自分の首を絞める。誰かに頼る勇気も持てない、本当に情けない日々。

「寂しさには、半年も慣れないままです」

 私はもう一度笑って見せた。

 

 とても大事な彼だった。柔らかい春も強い夏も、寂しさの秋も愛しさの冬も、何度も共に過ごし共に楽しんだ彼だった。別に激しいと言えるような恋ではない。普通に出会って、時間をかけてお互いを知り、普通に愛していった。いつ頃好きになって、いつ頃愛しさに変わったかも分からないほど、ゆっくりとお互いのことを受け入れていった。良いところも悪いところも、彼の全てが愛しかった。どんなことがあっても、彼がいたから頑張れた。彼がいたから強くいられた。しかしそのことに気づいたのは、全てを失ってからだった。自分で決めたことだった。でも、それでも後悔が残った。いつまでも残してしまった。

 彼と一緒に全てを失った気がした。友達や家族といったものではなく、自分自身を成り立たせる何かを、全て。生きている意味さえ分からなくなった。今思えば大袈裟なことだろう。しかし、本気で思っていたことなのだ。死にたいとかではなく、死んでもよかった。今この場で地震が起きて建物の下敷きになろうとも別に構わないと思った。生きていても生きていなくても、どちらでも構わなかった。何度も何度も、今のこの状況の原因を探した。なぜ失ってしまったのか。そう問てはあの時の自分を責めた。どうしたら戻せるだろうか。自分がどう動けば、失ったものを取り戻せるだろうか。狂ったように頭を働かせては、どうしようもなくなった現実をみた。

 何をしていても笑えなくなった。どこにいても何をしていても、彼の影をみた。彼とした会話、彼と歩いた道、友達といるときですら思い出してしまっていた。それだけ彼との距離が近かった。物理的にも、精神的にも。私が今までどおりに生きていくには、彼との痕を付けすぎていた。

 朝がくるのが嫌いだった。彼からの連絡のない、いつもとは違うそんな朝が、私には耐えられなかった。夜も嫌いだった。一人だと思い知らされるのが怖かった。物事の全てが意味を成さなかった。毎日に理由がなかった。どこで一日が始まりどこで終わったのか、分からない日々だった。会いたくて、声が聞きたくて、謝罪と願いをまじえたメール文を書いては、削除を選んだ。

 自分自身を消してしまいたかった。こんなにも苦しいなら早く忘れてしまいたかった。しかし、自分には彼しかいないと思う気持ちも同時に生まれた。心から愛していたんだと、自分を信じていたかった。新しい出逢いがなかったわけではない。進めるかもと思った出逢いもあった。しかしその度に、自分が一途ではない気がした。彼を忘れていく自分を恥ずかしく思った。だから新しく生まれそうな気持ちに背を向けた。自分でも未練がましくて重たい女だと思った。でもお願いだから、もう少しだけでいい、彼を想っていたかった。あの出逢いが運命だったのだと、もう傍にはいないけど、それでも毎日彼を好きだと思えるこの気持ちを、幸せだと思っていたかった。これから先、どんな出逢いがあったとしても、彼以外を愛することはできない。そう信じていたかった。

 あの時の私は、この短い人生で一番人間らしかったように思う。泣き止むまで泣いた。無理に止めるのではなく、自然と涙が止まるまでほっておいた。身体の水分が全てなくなるんじゃないか、そう思えるほど泣いた。もういい加減にしたい、そう思っても、どうしても止まらなかった。でもなぜか、声が出なかったな。どんなに悲しくても寂しくても、涙は出るいっぽうで声がでなかった。奥歯を噛み締めて、息つぎを何度も繰り返すときもあった。呼吸は正常のまま、ただただ頬を濡らすときもあった。頭ではなにも考えられてはいない。目の前にあるものを眼球が捉え、水晶体がピントを合わせてくれる。そして網膜が脳へと信号を送り、光りや色を感じていた。そのあいだ、涙腺から排出管を通った涙がたえず出ていた。ただそれだけの時間だった。ひとしきり泣いて、涙が出なくなった頃、静かに鼻をかんだ。自分のなかが空っぽだと思い知る瞬間だった。涙や鼻水と一緒に、なにもかも出ていってしまったような、そんな気がした。引き止めることもせず、ただただ流れていく。そんな時間を多く過ごした。でも本当は、声をあげて泣きたかった気がする。赤ん坊のように大声で、誰かの胸にしがみついて、泣きたかったのだ。

 いつからか自分の考え方が窮屈に感じた。考えることに、泣くことに、全てに疲れてしまったのだ。あの日の自分から一歩でもいい、前に進みたいと思うようになった。進まなければいけない気もした。しかしその気持ちとは裏腹に、ずっとこのままでいいと思う気持ちも確かだった。

 自分の本当の気持ちが分からなかった。好きだと思うこの気持ちさえ、本物なのか分からなかった。確かに好きだった。しかし今のこの気持ちは、寂しさから生まれたものかもしれない。ただ意固地になっているだけなのかもしれない。醜い依存なのかもしれない。そんなことを考える自分が嫌いだった。彼から離れようとする自分が。それでも彼は離れなく、そうしていることに酔う自分がいた。そんな自分も嫌いだった。

「あの時の私は、ずいぶんと嫌いなものが多かった気がします。強く、真っ直ぐ立っていられない自分が嫌いで、分かったようなことを言ってくる他人も嫌いで。苦味しかない珈琲も、大ッ嫌いでした」

 彼が好んで飲む珈琲を、私も一緒になってよく飲んだ。彼はなにも入れずに飲んだが、私はときどきミルクを入れた。同じカップの珈琲を飲むときもあった。苦味を感じても、不思議と美味しいと思えた。しかし彼がいなくなった後の珈琲は彼といた時よりも今よりも、もっともっと苦かった。苦くて苦くて、泣きたくなった。

「まだ、苦いですか?」

 ミズキさんの声がして顔をあげる。傍に来ていることに気がつかなかった。机には新しい珈琲が置かれている。香りが漂った。どうぞ、と言うようにミズキさんは笑った。

 珈琲を手に取る。同時に忘れていた温かさがよみがえる。何を話しただろう。どのくらい話しただろう。どうやら自分でも整理がつかないほど、無茶苦茶に話をしていたようだ。

 珈琲が少し甘い。

「別に、無理に忘れることはない。泣きたいだけ泣いて、楽しかったときを思い出して、その頃に浸ればいい。思いっきり後悔すればいいんです。自分の気持ちを無理やり消すなんて可哀想だ」

 ミズキさんは壁に寄り掛かりながら珈琲を飲んだ。苦いだろうか、甘いだろうか。そんな分からないことを考えつつ、私ももう一口飲んだ。店の空気に珈琲の香りが混ざる。今までよりずっと柔らかい。この店に入ったときに感じた、あの感じだ。すべてを受け入れてくれるような、もしくはすべてリセットされるような、一から始められるような、そんな感じがした。

「気持ちなんて、真っ直ぐひとつの答えを持ち続けるほうが難しい。いろんな気持ちが混ざり合ってぐちゃぐちゃになって、そうやって、いつかひとつの形になるんです。誰がなんと言おうと、あなたにとって彼が一番だったことには変わりはない。それなら自然とその一番が変わるまで一番でいいんじゃないですか。別に変わらなくたってかまわない。それが依存だろうとなんだろうと、一番を大事にすることは決して悪いことじゃない。自分を責めることはない。胸を張って、大事にしていいんです」

 ミズキさんがこっちを向いて笑って、カップに口をつけた。つられて私も口をつける。珈琲の温かさが私を包む。静かにミズキさんに目をやった。珈琲を見つめるミズキさんの瞳は、どこか懐かしそうだった。何を想っているのだろう。こんな話、ミズキさんにとっては子供っぽすぎただろうか。

自分のこととミズキさんのこと、考えたいことはいくつかあったが、頭は働いてくれない。今はこの珈琲の温かさだけを、頭が受け入れた。

 風が店の扉を叩く。視線を外に向ければ、向かいの店の明かりが少し眩しかった。


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