4杯目
珈琲のいい香りがする。カップから伝わる温かさで手を温めた。少しだけ心を落ち着かせ一口飲んだ。とても苦い。苦味に慣れたのは嘘じゃない。それどころか、今ではその苦味のおかげでいろんな事を落ち着いて考えられている気もする。心に出来た大きく汚いデキモノについて、無理矢理押しつぶして痕が残ってしまわないように、ゆっくりじっくり治し方を考える。
苦味が呼び起こしたかのように、それほど遠くはない記憶がよみがえる。知らないふりをして、もう一口飲んだ。苦くてたまらないときがある。その感覚は私にも覚えがあった。普段の苦味よりも一層口に残る、刺激の強い苦味。こんな時くらい、優しく甘い味であってくれてもいいじゃないかと、珈琲と会話が出来るならそんな文句のひとつでも言ってやりたいくらいだ。珈琲を嫌いになりそうで、悲しくなる。
ふと思う。あの店員、ミズキさんも苦くて苦くてたまらないとき、悲しさを感じるのだろうか。そう感じたとき、どうしているのだろうか。あの優しくも冷たくもある笑顔をこぼして、苦い珈琲を飲み続けるのだろうか。ミズキさんが笑うたびに感じた。あの人の笑顔はどこか冷たい。なんでも話せてしまいそうな、優しく寛容な笑顔ではあるのに、どこか突き放されているような、一線を引かれているそんな冷たさがある。とはいったものの、初対面の、しかも客である私への笑顔だ。優しく思ったのは、営業スマイルと言うことなのかもしれない。優しい笑顔に隠れたあの表情、あの雰囲気を人はなんと呼ぶのだろう。怖さではない。笑っているのになんだか寂しく感じる。なんだろう、儚いとでも言うのだろうか。これが大人というものなのか。なんと表現したらいいか分からない。ただなんとなくその笑顔に興味がわいた。
ミズキと言う名が、苗字なのか名前なのか、そんなことを考えつつ、また珈琲を飲んだ。口の中に苦味が広がる。
目の前にある華やかな洋菓子を眺めた。真っ白な皿に置かれ、まるで舞台に立つ役者が、ピンスポットを当てられているかのようだった。どうかこのまま、アイスのように溶けてはくれないか。もう時期も時期だから、自然の熱に頼るのは難しいか。なんて、馬鹿らしくなって少し笑った。珈琲はまだ温かい。もう一口飲んでカップを置いた。テーブルに並んだその二つは、なんとも質素で華やかだった。かすかに甘い香りがする。しかしすぐに珈琲の香りにかき消された。対照的なこの二つのやり取りが、愛おしくも切なかった。探せばどこかしらに共通点があるかもしれない、真逆の二物。もし無かったとしても、互いが配慮しあい、交わることは出来ないだろうか。自己主張ばかりでなく、もっとこう。
結局私は、またしても珈琲を手に取り一口飲んだ。やっぱり苦い。
「それで、本当は誰と食べるはずだったんですか?」
ミズキさんの声が、店内に響いた。一瞬、心臓が大きく鼓動する。その衝撃きで、息をするのが辛い。顔を上げると、レジの奥で壁に寄りかかって珈琲を飲むミズキさんと目合った。視線が泳ぐ。呼吸が乱れた。ミズキさんの言葉が頭のなかで反響する。聞かれるとは思わなかった。いや、聞いてほしかった。全てバレている気がした。いや、そんなはずはないという気もした。なぜこれを買ったのか。なぜここで食べることを選んだのか。そんな疑問が、自分の中で充満した。
一度多めに息を吸った。目を閉じて心を落ち着かせる。今日初めて会った、関わりの浅い相手だからだろうか。それとも、この人だからだろうか。なぜだか分からないが、話してみようと思った。私のこの女々しさを。恥ずかしくて誰にも話せなかった。どう思われるかが怖くて、ずっとしまってきた。しかし誰かに話してスッキリしたくもあった。自分勝手だと思う。自分の気持ちの整理にミズキさんを利用するなんて。申し訳ないと思いつつも、口が動いた。
「大事な人と、ですかね」
気持ちを整えて目を開ける。ミズキさんの笑顔が見えた。その笑顔にすこし悲しさと安堵を感じながらも、それに返した。さて、どこから話そうか。