2杯目
駅の近くの商店街の出口側。もうほとんど店がなくなって、住宅街へと変わっていくその狭間に、その店はある。小ぢんまりとした喫茶店だ。以前から気になっていた店だが、なかなか行く機会がなかった。店の入り口付近には3席ほどの小さなテラスがあって、そこの席ひとつひとつにブランケットが置かれている。少し肌寒い今の季節には、テラスを使う客は少ないだろうが、これならば天気のいいお昼時などはテラスでお茶を考えるも者がいるかもしれないなと思った。テラスの横に伸びる段少ない階段を下りて、店の扉を開ける。鈴の音が鳴った。目線を上げると、扉に可愛らしい猫の鈴がついていた。静かに響いたその音はとても心地が良かった。柔らかい空気を珈琲の香りが出迎える。
1人の店員がレジの奥の部屋から出てきた。少し珍しそうな顔をした後、静かな笑顔と共に「いらっしゃい」とのんびりした口調で言った。営業スマイルという言葉に当てはまるものではないが、決して冷たいわけでもない、なんだか不思議な印象を受けた。こういう雰囲気の人を、私は嫌いじゃない。会釈をして店内を見回す。時間帯のせいか、客は誰もいなかった。
店内は1番奥に2人用の席が3席と、真ん中に丸い大きなテーブルがあり、その周りにはいくつかの椅子が用意されていた。その大きなテーブルの真ん中やまわりの棚にはどこかの国旗のマークが入った飾り物が多く飾られていた。あの国旗はどこのものだっただろうか。赤い下地に白い十字。なんだか病院を思い出させるそれは、確かスイスのものだったかな。スイスといえば、アルプスの少女ハイジの舞台となったところだ。クララが立つシーンなどは、幼い頃よく真似して遊んでいたことを思いだす。場所はどのあたりだっただろうか。フランスの近くだった気もする。スイスについての知識はこのくらいしか持ち合わせていなかったが、ここにある物を見ているうちに少し興味がわいた。帰ったら調べてみようと、そう思った。ぬいぐるみやランプ、レターセットに文具などさまざまなものが綺麗に整頓され飾られているのを見ていると、少しワクワクした。見慣れないそれらをしばらく眺め、手に取っては置き、また手に取っては置いた。スイスの雑貨屋に来たみたいだった。よく見ると値段の付けられているものと、付いていないものがあった。買えると分かると途端に欲しくなってしまう。この性格もなかなか困ったものだ。
自分の部屋もこんな風に統一感があって、アンティークな部屋ならいいのにと憧れた。いつかひとり暮らしを始めたらきっとこんな風にしようと思ったが、自分の部屋を思い出す。次の休みには、まず部屋の掃除から始めようと思う。
私は店の1番奥の席に荷物を置き、上着を脱いだ。注文に行く前に1度座った。肩と腰に入っていた力を呼吸に合わせて身体から抜いた。少し落ち着けた。机に置いたケーキの箱が目に入った。手に取ろうとして、やめる。勢いで買ってしまったが始末に困った。私の家は4人家族だ。父と母と、それから最近好きな奴でもできたのか鬱陶しく色気づき始めた妹がひとり。2つしかないケーキを持って帰ったところで数が合わない。母も妹もダイエットだなんだといいつつ、持って帰ればこの砂糖の塊を喜んで食べるだろう。そうなると犠牲になるのはいつも父だった。自分だって甘いものは好きなはずなのに、なんとできた父親だろうか。私も犠牲となり2人に明け渡すのも考えたが、それはそれでなんだか癪に触る。さて、どうしたものか。
鞄から財布を取り出してレジへと向かった。自分の足音だけが聞こえる。ちょっと気取って踵から地面へつくように気を付けた。コツコツと音がする。休日にヒールのある靴を履いた時などは同じようにして歩いていた。少し大人に近づいた気がして、いつもより背筋が伸びる。レジにつくと、いくつくらいだろうか、若くも見えるその人が落ち着いた笑顔で迎えてくれた。
「いらっしゃい」
優しく届いたその声に、自然と笑みがこぼれる。軽く会釈をして私はメニューボードを眺めた。色使いも少なくシンプルな見た目のものに、それほど多くないメニューたちが並ぶ。ブレンドにアメリカン、カフェラテにカフェオレ。私にはカフェラテとカフェオレの違いがはっきりと分かっていなかった。ココアが入っているだとかミルクの量だとか、そんなことを誰かから聞いた気もするが覚えてなんかいなかった。自分がどちらが好きなのかすらも、名前が似すぎていて良く分かっていなかった。珈琲豆を使用している飲み物の他にも、オレンジジュースやウーロン茶、それから何種類かの紅茶の名前も並んでいた。レジの横には小さなパンやクッキーなども置かれていて、そこだけはなんだかパン屋のように思えた。手作りだろうか。ひとつひとつ些細なところではあるが違っていた。少し不格好だがどれも美味しそうだった。一通り目を通して私は言った。
「ブレンドで」
店員が笑顔を見せてくれた。なんだか温かい気持ちになった。ケーキ屋のあの店員の笑顔とは種類が違った。スマイル0円なんてとんでもないと思うほど、綺麗な笑顔だった。店員はレジを移動し珈琲の準備を始めた。手際がいい。レジを見渡した。メニューに合わせたカップやグラス、珈琲豆も何種類か見えた。袋になんて書いてあるのかは分からなかったが、きっと産地でも書いてあるのだろう。レジの奥には壁の色に合わせた真っ白な扉もあった。私が店に入ったとき、あの扉からこの店員が出てきたのを思い出す。あの中は事務所にでもなっているのだろうか。もう1度店内を見渡す。広くはない店内だが、そこがなんだか落ち着いた。だだっ広い部屋よりも、ある程度狭さを感じる部屋のほうが私は好きな人種なのだ。部屋もトイレも広けりゃいいってものではない。
豆を挽く音が店内に響く。いきなりだったので少し驚いた。挽いた豆の粉にお湯を注ぎ、店員が丁寧に抽出していく。珈琲の香りがかすかに鼻をくすぐった。店員の胸元には『ミズキ』と書かれた名札が見えた。