1.烏合の国
目覚めの気分は良い物ではなかった。体は鉛のように重く、記憶は虚ろだ。
ベッドから体を起こすと青年は短めの茶髪を携えた頭をがしがしと手でくして、黒い瞳で周りを見渡した。
繊細な彫刻を施された木製の家具たちが、無機質な灰色の壁と床で出来た部屋に彩りを与えているのが分かる。天井もまた灰色だが、網状の隙間を持つ蓋が2つほど取り付けられている。壁に窓は無い。ただ一つの出入り口であるドアも木で出来ている。
寝床に座ったまま体を乗り出し床に手を当てると、ひんやりと冷たい。感触も岩や石のそれだ。だがさわり心地は余りにもなめらかで、さしずめ丁寧に磨き上げられた岩石といったところだろうが、一室の壁や床を一枚で担うような巨大な岩石など果たして存在するのか青年には疑問であった。
冷たい、石の床。
青年は思い出した。
自分の最後の記憶は魔王城の最上階、薄暗い石の宮殿での決戦である事を。
そして自分の立場も思い出した。
俺は、戦士。
戦士、クレイグ・バールだ。
「メリルとロードはどこだ…」
魔導師メリルと勇者ロード。
他の仲間は一体どこに。
俺たちは魔王に敗北した。
そして自分は魔王の剣に敗れた。
大砂原に隣接している国々が危うい。
早く民に知らせてやらねば。
使命感と危機感にかられた戦士は鼓動が高鳴った。焦燥のあまり胸が裂けそうだ。
立ち上がり、ドアまでの短い道のりを駆ける。だが彼が開ける前に、ドアはひとりでに開かれた。
向かい側にはローブを身にまとった、陰気な者が立ちふさがっていた。その表情はフードの影に覆われていて、人か魔族かすらも分からない。
「目覚めたばかりでは体も言う事を聞きますまい。急いではなりません」
フードの暗がりから声が放たれた。
かすれた、どこか虚ろさを漂わせる男の声だった。
クレイグはその声の持ち主に言った。
「知ったことか、はやくそこをどけ! 勇者が負けた事を皆に知らさねば…」
「皆、もう知っております。4世紀前の勇者の敗北以来、魔族が世界の覇者となり、人間の国と彼らの文明は魔族に飲み込まれたのです」
何だと?
4世紀前などと馬鹿げている。ならば自分も寿命をまっとうしているはずではないか。人間はそう頑丈には出来ていない。
話を捉えきれず眉をひそめるクレイグの傍ら、ローブの男は話を続ける。
「しかし人間と魔族の争いの終結は、魔族と魔族の争いを呼んだのです。それと共に種族差別、言論統制、魔法の教育格差…多くの憎しみの種も。そして長引く争いは統一された魔族の国を数々の小国に分かちましたが、その中でも2つの国が大きな力を持つようになりました」
クレイグはただただ沈黙していたがある光景を目にした途端、眼を見開いた。
ローブの男の背後、廊下を跨いだ壁に窓がある。窓の向こうに緑色の魔族が小奇麗な服を着て談話しながら街道を歩く様子を見たのだ。そして町並みと街道の作りは人間の国の建築様式と酷似している。
魔族が大手を振る時代というのは事実なのか。クレイグは4世紀を超えて存在しているという自分の存在に納得しつつあった。
「ひとつは悪魔と竜が魔力と強権で支配する、フィンドラ帝国」
懐から紙製の世界地図を取り出すと、ローブの男は革の手袋で覆われた指で示した。指で魔力を注いでいるのか、地図上の国土が赤く光った。フィンドラ帝国とやらにはかつて人間の国の盟主であった国が含まれている。
そして彼の指は次に示すべき国へとなぞられてゆく。
「もうひとつはゴブリンやコボルト、妖精、その他多勢の弱小の魔族が寄り集まって形成されています。技術と産業の国、ラブリトル共和国。今我々のいる国です」
その国は青色の魔力光で示された。
そこは悪魔や竜の支配するという国にも引けを取らぬほど広大な領地を持ち合わせていた。
だが惜しむらくは、国土のほぼ全てが北部の寒帯に属している事だ。人間統治時代はその多くが辺境の国々として扱われていた事だろう。
魔族、それも最弱の部類であった者たちに支配された現在では一大国家として君臨するとは人間たちにはとてつもない皮肉ではないだろうか。
ローブの男は最後の国を示した。
その国が放つ光は紫、それも非常に小さな光だ。
「最後は…魔王が直々に統治する土地。国名はありませんが、皆敬意を込めて“パレス”と呼んでおります」
「何だと? 魔王という地位は、今でもあるのか」
クレイグは今まで粛々とこの現代史の講義を耳にしていたが、初めて問いかけをした。
ひとつの国がこのような大分裂を起こしたのだから、大きな革命か何かあったのだろう。魔王による王政は排除されたか、そうでなくともこのような微小な土地に居を構える理由が分からない。
「全ての国はパレスの属国、魔王が世界を統べているという事には変わりありません。パレスはそれらの宗主国であり、有事の調停役を務めています」
「意味がわからん…何故皆してこんな小国、パレスにつき従うんだ」
「理由などありません。魔王が魔族にとって絶対の存在である事が、彼らを彼らたらしめているのです。ですが、それも揺るぎは始めているようです」
「どういう事だ?」
「魔族の国土が余りにも拡大したため、魔王の伝令が行き届かず反抗的な魔族国家も出現しはじめました。統治のためにより巨大な力が必要となったのです。しかし各国は科学と魔法、それぞれ別の発展を遂げており、どちらがより強力な力を生み出すかは未知数です。そこでこれから行われる数々の戦争の結果から鑑みて、どの国を魔族の第一等国とするか決定する事になりました」
「戦争好きなのはお互い宿命のようだな」
自分たち勇者一行の敗北によって世界が魔の手に落ちたのだが、絶望や罪悪感といったものは無く、彼は何か吹っ切れているようであった。
このローブ野郎の話だとそう悪い世間でもなさそうなのだ。何も変わっちゃいない。人間対魔族、魔族対魔族戦争の頃から何も。戦まみれなのは腕っぷしにしか頼れない俺にとっては好都合だ。
自らが生き延びうる世界だと考えると、次にクレイグの脳裏に走ったのは疑問であった。
「なぁ、ローブ野郎。そろそろ教えてくれ。俺は何のために、何故ここにいる? 戦の最中、魔王の剣に串刺しにされて死んだはずなんだ」
「それは、自ずから…」
ローブの男はそう言いいかけると空気に溶けるかのごとく掻き消えた。
その背後には作業服を着け、緑色の肌をした小柄の魔族が立っていた。
顔の中心についた大きなカギ鼻、きつく吊り上がったつり目、それにエルフよりも長い耳が目につく。顔が醜いのはもちろんだが、放たれた言葉もまた壮絶であった。
「やっと起きやがったかこのゴミめ! オラ、さっさと作業場へ行きやがれ、グズグズするな、自分の足で歩くんだよ!」
覚醒してから今までローブの男と現実味の無い話しかしておらず、何だか生きた心地のしなかったクレイグだったが、今は確かに自分の生を感じ取れていた。
俺の感情は昂ぶっている。
俺の血液は頭へ昇っている。
その原因は、怒りだ。クレイグの喉と体が4世紀ぶりに激しく動いた。
「んだとォ!? 何様のつもりだこのチビが! どっちが上か分からせてやる!」
ゴブリンは粗末な棍棒を武器にして薄汚い布を身にまとい、稚拙な戦略しか繰り出さぬ愚かな蛮族だ。クレイグの戦士としての経験からしてそれは確かだ。珍しくナイフや剣を使ってきた奴が居たが、刃の平面なところをべしべしと叩き付けてきたり、柄ではなく刃の方を握って自滅するのが関の山だったのだ。
それが人間様をゴミ呼わばりとは片腹痛い。この戦士クレイグ様が目にものをみせてやる!
「あっ、オイ! ゴブロフさんが人間に襲われてるべ!」
「アイツを捕えろ! ネット銃を撃つんだ!」
騒ぎを聞きつけたゴブリンたちが走り寄ってきた。
仲間のゴブリンたちは奇妙な鉄の筒を持ち出すと、小さな出っ張りに引っかけた指をくいっと曲げた。すると筒からはたちまち巨大なアミが放たれ、激昂するクレイグをひっ捕らえた。だがクレイグは構わず自分に暴言を吐き捨てたゴブリンに手をかけつづけている…。
「おわっ、何だこりゃ…いや構わねえ、締め上げてやる!」
「このバカども、ワシまでアミにかけてどうするんだ――――――――!」
どうやらクレイグを捕えるつもりが、仲間も一緒にアミの餌食してしまったようだ。人間を捕えるどころか拷問の空間が出来上がってしまった。ゴブリンの間抜けっぷりは4世紀経った今でも健在のようだ。
「ヤベッ、どうしようどうしよう…」
「しょうがねえよ、鎮静剤であの人間を眠らせるべ。ちょっと取ってくる」
二匹の仲間ゴブリンは施設の奥へと小走りで入っていった。事態の収拾にはまだ時間がかかりそうだ。
「えっ、それまでワシはどうすんの!? うぼっ、くるち…」
クレイグに鎮静剤が投与される頃にはゴブロフは白目を向いていた。