ターキー荘の黒猫
「別荘? おいおい榎本、マジかよ。セレブじゃん」
夏休み、親友の海藤隼人を田舎に誘った。
花崗岩の岩盤が剥き出しになった渓谷に小さな駅があり、そこから川縁にむかってゆくと、テニスコートを囲んだ別荘が並んでいる。祖父の建てたターキー荘はそこの外れの崖っ縁だ。
煉瓦と材木を組み合わせた、カクカクとした二階建ての洋館で、眼下の滝を見下ろしている。ターキー荘と名付けたのは木材王と呼ばれた祖父だ。滝と七面鳥をかけているというわけだ。現在、国産木材は外材に押されて、価格が下落している。森林経営は早々にやめて、いまは有価証券を転がして、別荘一つをもつ程度の暮らしをなんとかやっている。
玄関先で母が僕を出迎えてくれた。
僕は海藤に紹介した。
「母の蘭だ。よろしく」
母は海藤を舐めまわすようにみた。
「海藤さんですね。息子の慎二がお世話になってます。それにしても、まるで双子みたい」
「母さん、もしかすると双子かもしれないよ。例えばさ、死んだ父さんが、前の母さんとの間に僕らをもうけた。けれど、なんらかの事情で、僕たちは、離れ離れになった」
僕と海藤が創作した戯言だ。他人の空似というより酷似なので、けっこう、みな本気にする。母にもウケた。
彼女はテーブルに突っ伏しふきだした。
「海藤さん、御国はどちら?」
「横浜です」
海藤は帝国郵船という船会社の幹部の息子だ。横浜に豪邸を構えている。そのくせ、大学では、「庶民的」だと主張する。彼のほうがよほどセレブだ。生まれてきた環境なのだから、威張り散らす必要もないのだが、あえて、そう、主張すれば嫌味になる。
親友として僕は、感じたことをそれとなく、忠告してやるのだが、エリートの子息は直そうともしない。
別荘は金食い虫だ。旅行のたびに宿をとったほうが安上がりに決まっている。それをあえてやるのが、ステータスらしい。
いまの母は、実の母が亡くなって、しばらくしてから嫁いできた。父と新しい母との間には子供ができなかった。そのためだか、彼女は僕を実子同様に愛してくれた。父がいたころと同じように、夏休みに僕が帰ってくると、一緒にこの別荘で過ごすのだ。
二階には六畳部屋が三つあり、階段側から、僕、母、来客者用の寝室となって並んでいる。
すき焼きをつくった。
ここに滞在している間は、懇意にしている地元の農家の方が野菜や卵を分けて下さる。そのほかは食材配送業者が、ほかの別荘同様に、うちにも回ってきて発泡スチロール詰の食材を届けてくれる。
別荘のメンテナンスに関しては、管理会社に任せてある。漫画みたいに使用人を雇う必要はない。包丁は三条産の逸品だ。こういうところに母はこだわる。小気味よくまな板の上でネギを包丁で刻む音がした。
海藤はカウンター越しで調理をしている母の手をうっとりとながめ、ときどき、目を閉じたりしていた。
一階のキッチンは居間を兼ねている。生前の父の趣味で、厨房を囲んだバーのカウンターのような造りになっていた。カウンターの後ろにリビングがあり、ホームシアターのセットもあった。
「赤ワイン、飲みます? これ、案外、お口にあいますよ」
ドイツ産のテーブルワインらしい。安価なのだが、母がブルゴーニュ産ワインだといえば、誰もそう信じて疑わないだろう。母にいわせると、ワインは冷蔵庫で冷やすと味が悪くなるので、呑む直前に氷でボトルごと冷やして飲むのがもっともいいのだそうだ。
食後、僕たちはリビングに座った。
カードゲームをしていると、二階で寝ていた黒い仔猫が、母の膝に乗った。
仔猫の名前はジャンゴ。名前は僕が適当につけたものだ。しなやかな身のこなし、愛くるしい眼差し、甘え上手。しかしカッターナイフのように鋭い爪は隠している。
母の膝の上にいるその仔から、僕は、視線を親友の横顔に移した。
実のところ僕と新しい母さんとの歳の差は十歳くらいしか離れていない。母さんがその気になったら、僕は求めにこたえてしまうだろう。
いままで、不思議なくらいに、「僕たち」は理性を保ってきた。
しかし現在、僕に瓜二つな海藤がきたことで、この絶妙な理性のバランスが崩れようとしていた。
海藤が憧憬にも似た眼差しを母にむける。
すると母は微笑みながら、シンパシー以上のオーラを放っている。時間と共に、それがだんだん、強くなってきているのを、長椅子の隣に座っていた僕は感じた。
カードをめくるときに、偶然に、あるいは偶然を装って? 母と海藤の指が触れあった。
僕は二人の頬が赤くなったのをみのがさない。
心臓が高鳴った。
嫉妬……理性はどこにいったのだ。僕の身体は正直すぎる。
風呂に入り、就寝時間となる。
子供のころからききなれた心地よい滝の音が、ノイズィーに感じ、眠れない。
深夜未明。
母の寝室から荒ぶる吐息とベッドを揺らす音がした。
(リビングで、想像したことが起きている。悪夢だ。よりによって海藤と母が……)
母の喘ぎ声などききたくもない。
毛布を頭からかぶる。
そのとき、足元に、ふわふわとした暑苦しい感触をおぼえる。
(ジャンゴ?)
僕は一計を思いついた。
大学が文系なのでいまでこそやらなくなったが、僕は高校時代、科学倶楽部に所属していてので、化学実験をしたり、火薬ロケットや小型ロボットをつくったものだ。部屋の押し入れにも実験器具と薬物がまだある。そこからクロロホルムを取りだす。溶液をハンカチに含ませ、ジャンゴにかがせて眠らせ、ソファに置く。睡眠薬はごく微量。すぐに目が覚めるはずだ。
海藤の寝室をノックする。
「リビングテーブルに、珈琲をいれたカップを置いたから、飲んでおいてくれ」
僕は母を連れだし、懇意の農家にゆき、野菜と卵を分けてもらいにでかける。
やがて、寝ぼけ眼の海藤がモーニングコーヒーをしに、リビングに降りてきて、ソファに腰掛ける。ちょうど仔猫にかがせたクロロホルムの効能が切れるころだ。人懐っこいジャンゴは、ぴょん、と彼の膝に乗る。そのときだ、仔猫が立ち上がる瞬間に、作動するように仕掛けた毒針が背中からバネで発射され、奴の首に刺さる。
僕と母は農家の小父さん家に上がり込んで茶飲み話に花を咲かせアリバイが成立する。
素晴らしい! 完全犯罪ではないか!
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「殺すな!」
ターキー荘にむかう列車の中で、スマホをみていた海藤が、ブログに掲載している僕の自作小説をみつけて立ち上がった。
END