002 魚
【あらすじ】
東京にある会社でOLをしている鈴木クロエは、奔放な母親を亡くして天涯孤独になろうとしていた。ところが、母親の遺言を読んでみると、実はお爺様がいることを知る。思い切って、手紙を書くと、お爺様の顧問弁護士・瀬名さんが訪ねてきた。そしてゴールデンウィークに、その人が住んでいる北ノ町にある瀟洒な洋館を訪ねたのだった。
お爺様の住む北ノ町。夜行列車でゆくその町はちょっと不思議な世界で、行くたびに催される一風変わったイベントがクロエを戸惑わせる。
最初は怖い感じだったのだけれども実は孫娘デレの素敵なお爺様。そして年上の魅力をもった瀬名さんと、イケメンでピアノの上手な小さなIT会社を経営する従兄・浩さんの二人から好意を寄せられ心揺れる乙女なクロエ……。そんなオムニバス・シリーズ。
北ノ町の物語
002 魚
鈴木三郎というのが、お爺様の名前です。
煙草の匂いがする工房。完成・未完成の彫刻作品が壁際に並んでいて、棚にはスケッチブックが並べてあり、夏に向っているので今は使っていない達磨ストーブが置かれていました。
いくつかある等身大の木彫のなかに、とても目をひくものがありました。肩の上に手桶をもってきて湯あみをしている裸婦像で、流れだした湯が四肢に伝わって床に落ちてゆくのがリアルに表現されていたのです。
――なんて綺麗なんだ。モデルは誰?
大小のノミや彫刻刀で精緻に削られ、入念にサンドペーパーで磨かれた肌は、滑らかで、ギリシャ彫刻とはまるで違う、きわめて東洋的な美麗なもの。
お爺様は、表情を変えずに私のところにやってくると、手を頬にあてました。
「クロエか? シズカより少し落ちるが、似ていないこともない。あの男の血が混じったのだから仕方がないことじゃが……」
――お爺様は父さんを憎んでいる。
父親の立場からすれば、娘を奪っていった男というのは認められないものなのでしょう。生前、母はお爺様の許しを得ることなく、父と駆け落ち同然に、東京で同棲し結婚。私を生み、ほそなく離婚。どちらが悪いのかは判りませんが、情熱的で移り気な母の行動を考えれば、捨てたのはきっと父ではなく彼女に違いありません。
実際のところ、最後の恋人にみとられて至福のなかで昇天した母ですけれど、お爺様にとって、母はやはり愛娘で、悪い男に騙されて不幸になり、その子供である私も不幸だと考えているようです。
従兄だという浩さんと、弁護士の瀬名さんが顔を見合わせました。
特に浩さんはかなり呆れ顔になっていました。
「初めて会った孫娘に、『娘より少し落ちる』はないだろう」
お爺様は、浩さんの言葉を無視して、私の腕をつかんで、二階部屋にゆく階段を昇りだしました。
「シズカの部屋に案内する。週二度、近所のおかみさんにお願いして掃除してもらっている、すぐにでも使えるから、泊まっていきなさい」
階下を振り返ると、浩さんと瀬名さんはまた顔を見合わせていました。
「あの子、お爺様に気に入られたみたいだね。瀬名さん、お疲れさまでした」
「ありがとう、浩君。実際、クロエさんを捜しだすのはひと苦労だった。報われたよ」
母のいた二階部屋。……なんというか、お姫様の部屋といった瀟洒な感じで、パールホワイトの壁を基調に、要所を黒檀の板で飾っています。金箔を張った古風な鏡台、ダブルサイズのベッドが置いてあり、書棚には、豪華に装丁されたヘルマンヘッセの詩集までありました。
お爺様は、そこで、小さく舌打ちして、
「アレがなくなっている」
とつぶやきました。
――なくなった? きっと、母が私に譲るといってくれた何かなんだ!
そう私は直感したのです。
彫刻家として、お爺様の名前は世に知られている。恐らくは、母が幼いときに、心をこめて彫った作品ではないのでしょうか。
ドアの向い壁には大きな窓があります。そこから断崖と漁師町、入り江の小さな港。そして奥に広がる海がみえました。どんよりとした雲。鉛色に変色した波の色。かすかに聞こえる潮騒。数羽のカモメが上昇気流に乗って宙を舞っています。
「雨が降るな」
ほどなく、ぽつん、ぽつんと屋根に雨粒が当たる音がしてきました。
荷物を部屋に置いた私を尻目に、お爺様が部屋からでてゆく際、唐突にこんな話をしてきました。
「クロエ、明日、釣りにゆく。こい」
「は、はい……」
私は、勢いに呑まれた格好で、安請け合いをしてしまいました。
夕方は、皆で食事をとりました。
ジョージア様式牧師館を改装した丘の上の煉瓦建築にはメイドこそいませんが、やもめ暮らしをしているお爺さんは、近所のおかみさんに、日々の食事のお世話を委託していました。私も厨房に入って、おかみさんを手伝うことにしました。
伊勢海老、鯛、蛸……。メインディッシュは、ブイヤーベースで、幾種類もの魚介類を鍋にいれた料理です。
「あんたが、シズカお嬢様の娘さん。やっぱり血は争えないねえ。別嬪さんだ。しかし、お母さんはもっと綺麗だったわ」
――認めるけど。
お爺様といい、おかみさんといい、少しムッとしてしまいましたけれど、そのあたりは口にせずに、鼻歌混じりで魚をさばく彼女に、お爺様たちのことをきいてみました。
「センセイかい? 若いときはイケメンで、芸術家としても認められている人でしょ。女の子にモテまくりだったらしいわ。もっと早くこの町にきてくれれば良かったのにねえ。そしたら私が嫁になってやったさあ。アハハ」
「はあ?」
お爺様には、伯父にあたる人と母、二人の子供がいました。伯父は従兄・浩さんの父親にあたり、何年か前に亡くなっています。母の遺言には、「叔父がいる」となっていたのですから、誤字なのだと考えています。
『アルプスの少女・ハイジ』にでてくるような大柄で白髭を生やしたお爺様。対称的に、恐らくは母親似なのだろう、線が細い浩さん。横には、浩さんよりも十歳くらい年長な瀬名さんが座っている。スポーツ選手みたいに、がっしりとした体躯は、どちらかというとお爺様に近いものがあります。
.
翌日。朝もやのかかるなか、私は、お爺様と一緒に波止場に係留していたクルーザーに乗りこみました。従兄の浩さん、それに弁護士の瀬名もお供についてきました。見送りにきた、割烹着のおかみさんは、
「たくさん獲ってきてよ。どんな魚でも、料理しちゃうからね」
舟を操舵するのはお爺様。カーキ色のワイシャツにベレー帽をそつなく着こなし、パイプ煙草をくわえているところなんかは、欧米の映画にでてくる年配の名優といった感じです。
私は、浩さんや瀬名さんから釣りの手ほどきを受けて、二十センチくらいのスズキを吊り上げました。
お爺様といえば、作品のモチーフにするためらしく、自分では釣らずに、ライカのカメラで、私たちや、私たちが釣った魚を撮影してばかりしていましたけれど。
(つづく)
【登場人物】
●鈴木クロエ/東京在住・土木会社の事務員でアパート暮らしをしている。
●鈴木三郎/お爺様。地方財閥一門出身の高名な彫刻家。北ノ町にある洋館で暮らしている。
●鈴木浩/クロエの従兄。洋館近くに住んでいる。
●瀬名玲雄/鈴木家顧問弁護士。