13.かこ
……最近の西上さんの様子がおかしい。
いや、前から結構おかしかった。けれど今は、それに輪をかけておかしい。
どう具体的におかしいかっていうと、視線の先だ。
今まで西上さんは、片山さん「だけ」を視界に納めていた。僕も彼女一人だけを見ているものだと、ずっと思っていた。
けれど最近どうも……片山さんだけを見ているわけじゃないことが、僕には分かってきた。
お店のバイトの人たちは、西上さんが今でも片山さんに叶わぬ思いを抱いていて、ずっと片山さんだけを目で追いかけていると思っている。でも、実際はそうじゃない。
西上さんは……「二人」を見ているんだ。事実、片山さんが一人でいるときは、そんなに熱心には見ていない。精々、一時間に一回、様子を窺う程度だ。
それが神崎さんと「二人」でいるときには、これでもかというくらいじっと見ている。不可思議なほど。
僕にはそれが疑問だった。
西上さんは別に、悲劇の自分に酔って気持ちよくなりたいっていう人種ではない。友達と話していたり、場の会話の流れで時折自虐的なことを口走ることはあっても、基本的に自分のことが好きという、性格的にはいたって普通の人だ。
だからこそ、神崎さんと片山さんの「二人」を見ていることには、何かしらの意味があるんだと思う。
……でなきゃ、本当になんであんな表情で「二人」を見ているのか分からない。
何かを堪えるような、今にも泣き出しそうなほど切ない眼差しを。
お風呂から上がった西上さんは、じっと自分の左の手のひらを見つめていた。
さすがに僕も、お風呂の中にまでは入っていかない。僕だって身体があったときは、人に身体を無遠慮に眺められるのが、すごく嫌だった。
……あれ? 僕、身体があったのか?
いつのことだったろう。
思い出せないなあ……。
西上さんは畳の上に座って、なおも手のひらを見つめている。
……手相でも見ているのかなあと思って、後ろから西上さんの手のひらを覗く。
傷がある。中指から手首にかけて、大きな刃物で切ったような、長い傷。
すごく古い傷なんだろう。でもこんなにくっきりと痕が残っているほどには、深い傷。
西上さんはごく自然に手のひらに唇を寄せると、ふわりと優しく触れた。すぐに唇を離すと、まるで大切な何かのように、西上さんは傷を愛しげに見つめる。でも、我慢するように、眉間に皺も寄っている。
手のひらの傷は、西上さんにとって耐え難い重荷でもあって……同時にずっと大切にしていきたい大事なものでもあるんだね。
「二人」と、同じように。
西上さんは傷を額に当てた。そして祈るように、言葉を口にする。
「ユカリ……」
僕は、心臓が止まるような衝撃を覚える。もちろん、身体がないから、心臓なんて具体的な器官があるわけもない。
でも僕にとってその言葉は、その音の羅列は――。
西上さんは立ち上がると、電気を消した。暗闇でもすぐ目が慣れるのか、物の場所を正確に把握してるからなのかは分からないけれど、何にもぶつからずに布団に辿り着く。
いつものように掛け布団をめくると、西上さんはもぞもぞと身体を納めた。数回軽い吐息が聞こえて、やがて規則的な呼吸音に変わる。
ユカリ。
ゆかり。
――縁。
もう、彼女はいない。この世界のどこにも。
あの傷は、そうだったね。縁と西上さんの、大事な大事な絆だったね。
僕がなんだったか、まだおぼろげに霞んで分からないところが少しある。
けれど、西上さんがどうして「二人」を切なそうに見つめるのかは、少し――少しだけ、分かった気がした。気のせいかも、知れないけれど。