1.しごと
よろしければ、お付き合いいただけると嬉しいです。
深い黒が支配する夜に、雨が降っている。
数万の細い糸が垂らされているような天気の中、一人の男が歩いていた。
彼は黒いパーカのフードを深くかぶっている。
表情どころか、彼の年齢さえ判然としない。
街路灯が道路を明るく照らしている。
男の足音だけが、誰もいない道に静かに響く。
住宅街から少し離れた線路沿い。既に終電はなく、ぽつぽつと灯る家々の灯りだけが、他者の存在を感じさせている。
男は濡れた音を立てながら、高架下に入った。
蛍光灯の灯りが、むしろ闇の暗さを浮かび上がらせる空間で、彼は右手に嵌めた時計を確認する。
一つ安心したように息を吐くと、男は壁に背を預けた。どうやら、誰かを待っているらしい。
雨から逃れたというのに、男はフードを降ろさない。そのままじっと、時間が過ぎるのを待っている。
……。
…………。
うん、きちんと説明するのが面倒になってきた。この人には、この口調でいいや。
で、さっきから時計と高架下の向こうの道を交互に見てる彼は、西上康也という。
フードの隙間から見える顔は、意外と若い。二十代の後半くらいかな? 真っ黒な前髪も長いから、やっぱり表情は分かり難い。
ぱしゃぱしゃ、という水を撥ねて歩く音が聞こえてきたのは、西上……「西上さん」が高架下に入って十分くらい経った頃だったろうか。
一人の中年男性が傘を差したまま暗い道の中へ進んでくる。男性は少し小太りで、湿気や暑気には弱そうに見えた。
こんな遅い時間にこんな場所を歩いているのは不自然だったけど、今日は金曜日だし駅は近いし男性の足元は少しふらついている。となれば、そんなに可笑しいことじゃないのかもしれない。
男性はちらりと西上さんに視線をやると、すぐに興味を失った。足をもつらせながらも、高架下を抜けようとする。
男性が西上さんの前を通り過ぎていくと、おもむろに彼は壁から身体を離した。
歩き行こうとする男の方を向き、西上さんはその背中に向かってゆっくりと右手を振りかぶる。
彼は振りかぶっただけだった。
それなのに、男性は動きを止める。
彼は、本当に振りかぶっただけだった。それ以外に何もしていないし、もちろん声だって掛けていない。
それでも、男性は立ち止まった。そして、糸の切れた操り人形みたいに、唐突に倒れた。
男性の体重が倒れるのには少し軽い音が、高架下に反響する。
西上さんはいきなり倒れた男性に近寄るでもなく、振り切った右手を胸元に持ってきて手のひらを開く。
青白い光の塊が、彼の顔を浮かび上がらせた。
……それ、なに?
って聞いても、応えてくれないんだよね? うん、よく分かってる。
でも、何となく分かるような気がする自分も嫌だ。
西上さんは青白い光を放つその塊をためつ眇めつ眺めると、聞き取り難い声でぼそっと喋った。
「……おやすみ」
塊が一瞬明滅する。
ふわ、と光る塊は西上さんの手の上を一回周ると、塊は光線となって高架線をすり抜けて、深く暗い夜の空の中に消えていく。
逆さまの流れ星みたいで、結構綺麗だ。
西上さんはそれを見届けると、背中を伸ばしながら欠伸を一つこぼす。
「仕事終りー、っと」
今の、仕事なの。へえ。
――今の仕事なの!? 「仕事」! 西上さんこれでお金貰ってるの!?
うん、聞こえてないのは分かってるよ。でも、言いたかったんだ。だって叫ばずにはいられなかったもので。
こんな手品じみたことでお金貰ってるなんて。
よほど特殊な……それこそ、普通の人が全く知りえないような職業なんだろう、と思ってしまった。
西上さんはそのあと、何事もなかったように何食わぬ顔で高架下を抜けて……人ごみに紛れた。
この時間帯でも、駅前には結構人がいるものだ。二十四時間営業の某ハンバーガーショップとかある駅だしね。
西上さんは、人の中にいるといい意味で目立たない。黒いパーカを着て、そのフードですっぽりと顔を隠しているのに。
西上さんは――彼は、人ごみの中にいるときは普通の人になれる。
と同時に、普通に「死神」でもある。
今、僕が分かっていることはそれだけだ。
少し不思議と書いてSF……はい、すみません。
原点回帰です。こういう若干突飛な設定を作り始めると止まらないです。
変な話ではありますが、お付き合いいただけたら幸いです。