鬼畜女?貴方は自分が家畜王子と呼ばれていた事を理解していないようですね
「もう我慢の限界だ──この鬼畜女め! お前とはもう婚約破棄だ!」
謁見の間に、トンソーク・フトリーノ第一王子の怒声が響き渡った。
シーク・インリーは静かに目を瞬かせた。
広間にはいくつかの廷臣たちが居並んでいた。国王陛下も玉座に腰を落ち着けたまま、この光景を眺めている。
殿下の隣に、見知らぬ少女が立っている。
平民の娘だろうか。安い布地の質素なドレスをまとっているが、顔立ちは愛らしい。丸い頬をほんのりと染めて、おずおずとシークを見ている。
ナーデ・アマヤカス、とトンソーク殿下は先ほど紹介した。俺の新しい婚約者だ、と。
「……殿下」
シークは口を開いた。声は落ち着いていた。自分でも少し意外なくらいに。
「先ほど、仰いましたね。私のことを鬼畜女、と」
「そうだ!お前はいつも俺に命令してばかりだった!走れ、食べるな、勉強しろ、姿勢を正せ!お前といる時間はいつも息が詰まりそうだった!ナーデは違う。彼女はいつも本当の俺を受け入れてくれる。俺に必要なのはお前のような女ではなく、ナーデのような優しい女性なんだ!」
アマヤカスとやらがますます頬を赤らめて、殿下の袖を掴んだ。「殿下……」と甘えるような声を出す。
シークはその光景をしばらく眺めてから、静かに一歩前に出た。
「よろしいですわ。ただ、一つだけお尋ねしてもよろしいですか」
「……なんだ」
「殿下は、身体を鍛えるために外に出ると仰っていましたね」
「ああ、そうだ。体力をつけるために散歩をしていた。それが何だ」
「では、なぜその散歩の最中に、毎回同じ女性と二時間以上を共にする必要があったのでしょう」
広間が、静まり返った。
トンソーク殿下の顔が硬直する。
「先月の七日。王城東門を出て、市場の外れにある茶店に一時間半。十四日。同じ場所に二時間。二十一日。今度は川沿いの公園に三時間。今月に入ってからも、計六回。殿下がナーデ・アマヤカス嬢と人目を避けてお会いになっているのを、私は確認しております」
シークは淡々とした態度で言葉を連ねた。
それにトンソーク殿下は足を1歩後ろに引いて指を指す。
「お……お前、俺をつけていたのか!」
「つけざるを得ませんでした」
シークは言った。
「殿下が急に外出を好まれるようになったのは、殿下が何か良からぬ事を企てているからだと予測がつきましたから」
それは本当のことだった。
あれほど外を嫌っていた殿下が、ある日を境に突然、一人で外に出たがるようになった。変化は唐突すぎた。婚約者として隣で見てきたシークが違和感に気づかないわけが無い。
「……確かに会っていた。それが何だ。俺は婚約者を替えると言っているんだ。今更お前に口を出されても変えることは無い。大人しく認めたらどうだ」
「認めるかどうかは私が決めることではございません」
シークはくるりと玉座へ向き直り、深く礼をした。
「国王陛下。以上が事実でございます。殿下が正式な婚約者の目を盗み、平民の娘と秘密の逢瀬を重ねておりました。この件をどうお裁きになるか、陛下のご判断にお任せいたします」
◇
一年前のことを、シークは今でもよく覚えている。
国王陛下に謁見した際、陛下は深刻な顔つきで仰った。
「インリー公爵家の令嬢よ、頼みがある。息子のトンソークのことだ」
部屋に通されたシークが見たのは、大きな寝台の上でうずくまっている巨大な影だった。
太っていた。言葉を選ばずに言えば、それしかない。二十歳の青年とは思えないほどに、その体には脂肪が積み重なっていた。寝台の端に腰かけているだけで、顔に汗が滲んでいる。
──家畜王子。
その陰口を、シークは社交界でも聞いたことがあった。王城の外でも囁かれているほど有名な話だ。第一王子は食べて寝るだけで、部屋から出ることも稀だという。政治の知識はほぼ皆無で、書物を開いたことさえないと。
「この怠け者を、後継として叩き直してやってほしい」
陛下は頭を下げた。
「婚約という形でそばにいてくれれば、トンソークも無下にはできないだろう。頼む、シーク嬢。報酬はいくらでも出す」
シークは即座に断るつもりだった。
しかし、その時ちらりと見えた殿下と目が会った。その時の表情が妙に引っかかった。
怠惰な肉体の奥にある、その目が何かに怯えているように見えたのだ。まるで外界の全てが敵にでも見えているのかと感じた。すべてに諦めたような顔をしていた。
人類皆生まれながらにして怠惰な人間というのは居ない。シークが今のような状況に至ったのは彼だけの責任と言うのは酷な話だ。
彼の姿に同情をしたのか、母性が働いたのかは分からない。ただ見捨てるという選択を取れなかった。
シークは溜め息をついた。
「……一つだけ条件があります。私のやり方に、口を出さないでください」
そうして始まった一年間だった。
最初の三ヶ月は壮絶だった。
毎朝六時に叩き起こし、まずは城内を歩かせることから始めた。それすら最初は十分も持たず、殿下は廊下にへたり込んだ。食事は栄養管理された献立に切り替え、間食を全て禁止した。泣き言を言っても、揚げ菓子を要求されても、シークは首を縦に振らなかった。
勉強は午後に二時間、夜に一時間。政治の基礎から始めて、歴史、外交、財政と順番に教えた。眠そうにしていれば机を叩いて起こした。間違いを指摘する時は遠慮しなかった。
殿下はよく怒鳴った。
「うるさい」「少しぐらい優しくしてはどうなんだ」「婚約者なのに愛はないのか」と。
シークは怒鳴り返した。
「黙って足を動かしてください」「間違いを間違いと言わずに何と言うのですか」「婚約者であり、将来の王妃候補であり、貴方の教師でもあります、愛をもたれたいのなら相応の結果を見せてください」と。
そのやりとりが、シークは嫌いではなかった。
四ヶ月目に入ると、殿下は不満を口にしながらも起き上がるようになった。五ヶ月目には城の外周を一周できた。半年を過ぎた頃には、政務の基礎書類を自力で読めるようになっていた。
殿下の体が変わっていくのを、シークは毎日近くで見ていた。
最初は歩くだけで息が切れていた人が、走れるようになる。目に見えて顔が引き締まっていく。それまで読めなかった文字が読めるようになる。政治の話をすると、最初は黙って聞くだけだったのが、やがて自分から問いを立てるようになる。
それが、誇らしかった。
愛情と呼んでいいかどうかはわからない。けれど、シークの中に何か確かなものが積み上がっていたのは事実だ。
そしてその頃から、殿下の様子が少し変わり始めた。
◇
後から考えれば、始まりはあの夜だったのだろう。
シークが珍しく厳しい言葉を重ねた夜だった。その日の政務実習で、殿下が基礎的なミスを連発した。疲れているのはわかっていた。それでもシークは手を緩めなかった。緩め時ではないと思ったからだ。
「殿下、先週も同じ箇所を間違えました。本当に理解されているのですか」
「わかっている!少し疲れているだけだ!」
「疲れは言い訳になりません。実際の政務では疲れているからと言って間違えるわけにはいきません」
「……っ」
殿下は書類を机に叩きつけると、部屋を飛び出していった。
シークは追わなかった。
頭を冷やす時間が必要な時もある。それはわかっていた。だから夜の空気の中に殿下を一人で放り出した。
翌朝、殿下は何事もなかったように戻ってきた。それだけでなく、妙に機嫌が良かった。
「今日は一人で外に出て鍛えてくる」
そう言い出したのはその日からだ。
最初は素直に喜んだ。自発的に体を動かそうとしている、成長の証だと思った。一人でできることが増えたのだと。
違和感を覚えたのは二週間が過ぎた頃だ。
一人での外出が増えるにつれて、室内での勉強への集中が落ちてきた。疲れているようでもなく、むしろ上機嫌なのに、書物を開くと途端に別のことを考えているような顔になる。
そしてある日、城の外に出た殿下をシークは遠くから目で追った。
殿下が止まった茶店の前。一人の少女が手を振るとその方向へ駆け寄った。その時にチラリと見えた殿下の表情をシークはよく覚えていた。
◇
「陛下」
玉座の前で、老いた王が静かに口を開いた。
その声はひどく疲れていた。
「…………聞いた。すべて聞いた」
「父上! 俺は──」
「黙れ、トンソーク」
王の言葉に、殿下が口を噤んだ。アマヤカスが怯えたように身を縮める。
「一年もの間お前をずっと支えていてくれた婚約者の目を盗み、平民の娘と密会を重ねた。それは事実か」
「…………はい」
「お前は……」
陛下は額に手を当てた。怒りを通り越してただ呆れる事しか出来なかった。
「わかった。お前の望み通りにしてやろう。ただし、条件がある」
殿下が顔を上げる。
「婚約破棄を認める代わりに、お前は第一王子の位を返上しろ。そのアマヤカス嬢とともに、王都から離れた北の領地へ行け。二度とここには戻るな」
「……え」
アマヤカスが小さな声を漏らした。
「それはつまり……追放、ですか」
殿下が呆然と呟いた。
「それが嫌なら、シーク嬢に土下座をして詫びて婚約を続けさせてもらえるよう懇願しろ。どちらかだ」
沈黙が広間を満たした。
シークは静かに二人を見ていた。
アマヤカスが殿下の手を握って、上目遣いに覗き込む。
「……殿下、大丈夫ですよ。私がいます。二人なら、どこへでも行けます」
その言葉に、殿下の表情がわずかに緩んだ。
「……そうだな。アマヤカスがいれば俺も頑張れるよ」
シークは何も言わなかった。
ここで言っても届く言葉は何もなかった。
◇
北の領地での生活が、どのようなものだったかは、半年後に届いた一通の手紙でシークはおおよそ察した。
差出人はトンソーク・フトリーノ。かつての婚約者だ。
内容は短かった。
────助けてください。
アマヤカスはよく笑い、よく頷き、何でも「大丈夫です、トンソーク様のやりたいようにする事が私の望みです」と言った。習慣となった運動を「無理しなくていい」と止めた。勉強は「そんなに頭を使ってばかりいないで、たまには息抜きを」と言って止めた。食事は「殿下が食べたいものを」と言って際限なく食卓に並んだ。
それはシークと共にいた時に殿下が望んでいた生活そのものだった。それも愛する者の元での。心底心地よかった。
しかし。
三ヶ月が経ち、半年が経つ頃に、鏡を見た殿下が見たのは、一年前の己の姿に再び近づいていく体だった。北の領地の管理は滞り、農民からの陳情書は山積みになっていた。字を書くのが億劫になり、外に出るのが面倒になり、気づけばまた寝台の上で過ごす時間が増えていた。
アマヤカスの態度が変わったのは、そのあたりからだという。
「殿下って、王都にいた頃はもっと格好よかったのに」
そう言って、ある日彼女は黙って荷物をまとめた。
村の働き者の青年と恋仲になった、と後から人を通じて聞いた。
そうしてまた一人になった時にようやか殿下は手紙を書いた。シーク・インリーに宛てて。
◇
その手紙が届いた時、シークは執務室で書類を広げていた。
隣に座っていた人物が、手紙をのぞき込んで眉を上げた。
「この手紙、兄上から?」
「そのようです」
「また厄介なことを……」
呆れたような声で言ったのは、リエン・フトリーノ第二王子だった。
殿下よりも三つ年下。兄とは対照的に、物静かで勤勉な人物だ。シークが婚約解消となった後、国王陛下から打診を受けた時には正直驚いたが、共に政務をこなす中でシークは次第に彼への信頼を深めていた。
今では、執務室で隣り合わせに座ることが当たり前になっていた。
「……どうするつもりだ、シーク」
リエン殿下が静かに問う。
シークは手紙を机に置いて、少し考えてから口を開いた。
「陛下にご報告します。北の領地の管理が滞っているなら、それは放置できない問題ですから。殿下のことは……陛下がお決めになることです」
「君は行かないのか」
「私は」
シークはリエン殿下を見た。
「今ここにやるべきことがありますから」
リエン殿下がわずかに目を細めた。それから、愛おしげにシークを後ろから抱いた。
彼はあまり表情を顔に出さないが、こうして気持ちを伝えてくることがある。
シークはそれを愛おしい思っていた。
「そうだな」と彼は言った。
「ここには君が必要だ」
日差しが窓のガラス越しにシークの顔をほんのりと赤く照らした。
シークは書類に視線を戻す。手紙のことは頭の隅に置いておく。後でまた考えよう。今は目の前の仕事だ。
── 鬼畜令嬢、か。
トンソーク殿下にそう呼ばれた言葉を、シークは特に傷ついたとも思っていなかった。
愛を持って接することは、時に厳しさを要する。甘やかすことと愛することは、同じではない。それを知っていたからこそ、シークはあの一年間を後悔していなかった。
ただ。
厳しさと優しさを、どちらも知っている人の隣に立てることは、やはり良いものだとは思う。
「殿下」
シークは隣に声をかけた。
「なんだ」
「この財務報告書の第三項なのですが、去年と比較して資料を引っ張ってきていただけますか」
「……いつも急だな、君は」
「急ではありません。三十分前からお願いしようと思っていました」
「それを三十分前に言えばいいだろう」
「殿下が集中されていたので」
リエン殿下は溜め息をついたが、立ち上がって書架へ向かった。その背中を見て、シークはまた書類に目を落とした。
窓から風が一筋、書類の端をそっとめくって、通り過ぎていった。
〈了〉




