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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕が含まれています。
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泣きたがりのメソッド

作者:

れん役の、永瀬万尋ながせまひろです。よろしくお願いします」

パチパチ、というまばらな拍手に無表情のまま万尋が一礼し、椅子に腰掛けた。

口の字に並べられたテーブルの向かい側で、龍臣は改めてこの共演者を眺める。

4月クールから始まる深夜枠のBLドラマの、今日は主要キャスト4人の顔合わせ兼読み合わせの日だった。

リハーサル室はスタッフとキャスト、それにマネージャー陣も居並び、熱気で暑いくらいだったが、万尋は厚手のアースカラーのニットを着込んで尚も涼し気な顔をしている。

スタイルもルックスも抜群にいいのに、どこか影がある。それは、他の新人俳優にはない彼の持ち味だ。

龍臣にとっては、仕事でなければ絶対に友達にはならないタイプだった。

「W主演のもう一人、柳さんお願いします」

ADに促され、龍臣は立ち上がる。

蒼生あおい役の柳龍臣やなぎたつおみです。初主演なので気合入ってます。よろしくお願いします」

言いながら、スタッフと共演者を見渡す。万尋とも目が合うが、眉一つ動かさず、おざなりな拍手だけが返ってきた。

尚も共演者の自己紹介が続く。

梨里りり役の秋月零あきづきれいです。パワフルな役なので、体力付けて最後まで完走したいです」

恵茉えま役の綾香あやかです。初めてのお芝居ですが、かわいい役で嬉しいです。頑張ります」

主要な4人のキャストは全員大学の同級生という設定もあり、年齢も近いメンバーが集められている。

零とは以前学園ドラマの脇役で共演していたが、俳優デビュー作がいきなりプライム枠のレギュラーだった万尋と、読者モデル出身で普段はバラエティとSNSがメインの綾香とはこれが初対面だった。

最後に、正面の席の監督の上原が立ち上がった。

「監督と脚本の上原です。今回はキャストの皆さんのケミストリーにも期待してますので、そのつもりでいてください」

丸顔で童顔の上原は、柔和な印象とは裏腹に、鋭く切り出した。龍臣は膝の上に置いた拳を思わず握る。

ただでさえ力の入るW主演だったが、監督の上原は新進気鋭の演出家で、脚本を自分で書くこともあり、妥協のないディレクションで俳優仲間からは恐れられていた。

『キャストの皆さんのケミストリー』

そのワードに胸騒ぎがした。

即興でシーンを構築するインプロヴィゼーションや脚本にないアドリブは、上原の得意な演出方法だった。

ただ、龍臣が知る限りその手法が有効なのは俳優同士の関係性が構築されていることが前提だった。

「では、今日は冒頭から中盤まで読み合わせをします。まだ固めなくていいので」

その言葉を合図に、キャストの4人がテーブルの台本に手を掛けた。

『まだ夜明けを知らない世界』

表紙に黒ぐろとタイトルが記された真新しい台本を、龍臣は開く。

セクシャリティを隠した優等生の蓮が、ゲイを公言する蒼生と大学で出会い、セフレの関係になる。はじめ蒼生は蓮を憐れみ、彼の保護者のように振る舞うが、二人の関係が深まるうちに、その憐れみはいつしか反転する。

愛することを知らなかった二人が、知らず知らずの内にお互いを変えていくラブストーリーだ。

「シーン2、居酒屋の会話、梨里の台詞から」

「はい」

隣の零が深く息を吸い、口を開く。顔を見なくても緊張が伝わってくる。

『ちょっと、蒼生!あの子と知り合いだったの?』

『蓮?全然知り合いじゃないけど、昼に話しかけただけ』

『LINEもゲットできたし、超ファインプレーじゃん』

「ちょっといいですか」

ほんの数行で、いきなり上原がストップをかけた。

「このシーンの二人、まだ入学して知り合ってから一週間も経ってない設定です。ノリは合うけど、まだ距離を詰め切ってない、お互いを探る空気も入れてください」

「はい」

龍臣と零は、それぞれ台本にメモを書き込む。

言われていることはもっともだが、それをどう芝居で表現するか、すぐには浮かばない。

「次、恵茉と蓮の会話からお願いします」

「はい」

軽やかに返事をした綾香は、この場では一番リラックスしているように見える。

『蓮って、通い?一人暮らし?』

『一人暮らしだよ』

『じゃあ、実家地方なんだ?』

『いや、都内』

『えーいいなーリッチじゃん』

『恵茉、あんたが言うと嫌味なんだけど』

梨里が二人の会話に割り込む。

『ちょっと梨里、あっちのテーブル飲み物足りてないみたいよ?』

「ストップ」

テンポのいい会話を、容赦なく上原が遮る。

「恵茉は、相手によって自分の見せ方を変える子です。蓮に対しては甘く、梨里には強気に、トーンを使い分けてください」

「はーい」

ダメ出しをされても綾香は笑顔を崩さない。上原は気にする様子もなく進めていく。

「次、シーン3、トイレの蒼生と蓮の会話」

淡々とした上原の声に、龍臣は姿勢を正す。初めて、蓮と蒼生が二人きりで会話するシーン。

『お前、大丈夫か?』

『もう飲まないから』

『酒のことじゃなくて』

蒼生の台詞から、しばらく間が空く。刺すような沈黙。

ドラマの序盤、ゲイであることをカミングアウトしている蒼生と対照的に、蓮はまだ自分のセクシャリティを受け入れられていない。

『…何のこと?』

沈黙を破った、蓮の声が微かに震える。

『もう、二人で抜けるか?』

『…』

蓮の手を取ろうとする蒼生。

『…触るな!』

蓮の必死の訴えが空気を震わせる。

『変な言いがかりやめろよ』

「はい、オーケーです」

場違いなほど冷静な上原の声に、リハーサル室の空気が一気に緩む。今日初めての一発オーケーだった。

誰もが息をするのを忘れていたかのような緊張感は、間違いなく万尋の芝居がもたらしたものだ。

龍臣も深くため息をつく。いつの間にか万尋のペースに巻き込まれ、これ以上ないくらい集中していたことを自覚して、内心は穏やかでなかった。

(上手い、あいつ)

言葉の抑揚、間の取り方、声音。その全てが蓮の思いを雄弁に語り、脚本の台詞とト書きを立体的に浮き上がらせていた。

以前マネージャーから主要キャスト4人のうち万尋だけがオファーで、他はオーディションだったと聞かされていたが、これでは納得するしかない。

ぎり、と音を立てて握ったペンが軋む。

呑まれるわけにいかなかった。オファーだろうがオーディションだろうが、主演は主演だ。

「次、シーン4、同級生Aの台詞は僕が読みます」

張り詰めた空気に気付かない筈もない上原は、しかし素知らぬ顔で進行していく。

龍臣は余計な思念を追い払い、目の前の台本に向き直った。


※※※


「すみません、キャストの皆さん、こちらでプロモーションの動画撮影します」

読み合わせが終わって賑やかさを取り戻したリハーサル室で、ADの女性スタッフが声を掛けてきた。 

見ると、SNS用なのだろう、リングライト付きの撮影機材が用意されている。

「初の顔合わせということで、皆さんの感想をお願いします」

「え、どうする?何喋る?」

「とりあえず一回、撮ってみようよ。ぶっつけで」

戸惑う零と対極に、複数のSNSに5桁のフォロワーを持つ綾香は完全に楽しんでいる様子だった。

「マジで?いいの?永瀬くんと龍臣も、大丈夫?」

「いいよ」

龍臣が迷う間に万尋がためらう素振りもなく答える。

「じゃあ、とりあえず一回お願いします。立ち位置いいですか?」

スタッフが4人の並びを調整する。

隣に並んだ万尋は龍臣より頭一つ抜けていて、内心面白くない。

「はい、回しますね。よーい、スタート」

その言葉を合図に、全員がリングライトの真ん中に据えられたスマホのカメラに視線を向ける。

「初顔合わせと読み合わせを終えて、皆さんいかがでしたか?」

ADがカメラの外から質問する。 

「みんな同級生役なんですけど、今のところ微妙な距離感があって、ドラマの4人の緊張感とリンクするといいなと思いました」

言い出しっぺの綾香が口火を切った。笑顔で話しているが、遠回しにギスギスしていると言ったようなものだった。

「それで言うと僕、一番年上なんですけど」

龍臣も続いた。

「誰も僕に敬語使わないんだなって思いました」

「え、怒ってる?」

零が笑う。

「いや、思っただけだから」

「じゃあ、たっちゃんって呼んでいい?」

茶々を入れる綾香を睨むふりをする。

「…いいよ」

「めちゃくちゃ怒ってるじゃん!」

女子二人がひとしきり笑う。

「あと今日は、主演二人がバチバチで、めっちゃ硬かったです」

綾香がどこまでも切り込んでいく。カメラの後ろでスタッフの笑い声がした。

「それはあれでしょ?役作りでしょ?」

零も乗っかる。今日が初顔合わせのはずの二人は、既に息が合っているようだった。

「永瀬くん、そのうちラブラブになるんですか?」

零がこれまで黙っていた万尋に水を向ける。

「…それ、言っていいの?」

本気とも冗談ともつかない絶妙な表情で万尋が訊ねた。カメラの向こうでスタッフが苦笑いして手を振る。

「ダメですね。スタッフさんNG出ました」

綾香は読み合わせよりよほど生き生きとしている。

「頑張って撮影するので、オンエア見てください!」

「よろしくお願いしまーす」

最後も女子二人が締め、全員で手を振った。

「はい、ありがとうございます」

スタッフが笑顔でスマホを降ろす。

「ね、一発でできたじゃん」

「読み合わせより緊張したんだけど。今ので大丈夫なんですか?」

「チェックしますけど、大丈夫だと思います」

スタッフがスマホを操作し、動画を再生する。零と綾香が後ろから覗き込んだ。

「はい、オーケーです」

スタッフの言葉に、女子二人が沸く。

「ありがとうございました。お先に失礼します」

反対側から声がして、見るといつの間にか万尋が身支度を済ませていた。

カメラが回っている間は穏やかな笑顔だったのに、また能面のような無表情に戻っている。

そのまま男性マネージャーに伴われ、リハーサル室を足早に出て行った。

「あのマネージャー、堂島さんにもついてるチーフらしいよ」

零が声をひそめる。

堂島とは万尋の事務所のエース格の俳優で、アイドル的人気ながら昨年主演した映画で国内賞レースを総嘗めにした実力派だった。

「龍臣、負けてらんないね」

「…俺も帰る。またな」

零の冷やかしには応じず、龍臣はその場を離れる。

零に言われるまでもなく、負ける気などなかった。

「ごめん、待たせた」

声を掛けると、後ろで手持ち無沙汰に待機していたマネージャーの石野が顔を上げた。

20代半ばの彼女は龍臣の専属ではないが、プロデューサーへの挨拶と、ADとのスケジュール調整のために今日は同行してきていた。

「お疲れ様でした。動画、面白い仕上がりでしたね」

「プロがいたからな。事務所行くなら車乗ってっていい?」

「いいですよ」

年は石野の方が3つほど上だったが、最初から彼女は龍臣には敬語を使っていた。訊ねると、「私、体育会系なんで」と分かるような分からないような説明をして、結局そのまま今に至っている。

廊下の空気はリハーサル室の熱気とは対極にひんやりと冷たく、龍臣はようやく緊張から解放され、ゆっくりと息をついた。


※※※


スタジオの地下駐車場から、事務所のワゴンに乗り込む。龍臣はハンドルを握る石野の隣の助手席に身を預けた。

「読み合わせとは思えない緊張感でしたね」

石野の口元には笑みが浮かんでいる。

端で見る分にはスリリングな見世物だったことだろうが、やる方は堪らない。

車はテレビ局の駐車場を出ると、埋め立てエリアの広々とした二車線道路を都心へと進む。

「あいつ、すげー上手いのな」

「永瀬さんですか?読み合わせで殴り合い仕掛けてくるとは思いませんでしたね」

芝居経験はないはずの石野の比喩は的確だった。今日はサンドバッグ代わりにボコボコにされた気分だ。 

「18才でデビューして今3年目なので、年は下ですけどキャリアは同じくらいですね」

龍臣は大学在学中に事務所のオーディションに引っかかって2年前に20歳で俳優デビューしていた。

「あのさあ、すごいダサいこと聞いていい?」

「なんですか」

「クレジットって、あっちが上?」

「本当にびっくりするくらいダサいですね」

石野は前を見たまま、面白そうに笑う。

この同年代のマネージャーの歯に衣着せぬ物言いは、決して嫌いではなかった。

「正直、事務所的には納得のクレジット実質二番手です。BLドラマだからギリギリW主演扱いにしてもらった感じですね」

「…だよな」

万尋の所属する事務所はスター俳優を多数抱える、いわゆる大手事務所だ。事務所の格で言っても、キャスティングの経緯で言っても、万尋が一番手なのは順当なんだろう。

ーーまだ、今は。

キャリアも年齢も近くてお互い初主演。クレジット順なんか、実力でひっくり返してみせる。

「納得いかないですか」

「別に。主演は主演だろ。組んだからにはやるよ」

覚悟を決めて宣言する。そのためには、いくら何でもあの鉄面皮のままというわけにはいかない。

気に食わなくても何でも、他ならないラブストーリーの共演者である以上、もう少し距離を詰めないことには始まらないだろう。

相手役と合わないから上手く演れないなんて、子どもの言い訳にもならない。

「偉い、さすがプロですね」

「マネージャー、褒めて伸ばそうとしてるだろ」

「本心ですよ。それできない人も多いんで」

龍臣は頷くと、膝の上に置いた台本を眺めた。

放送は1クールだが、撮影期間は驚くほど短い。カウントダウンはもう始まっていた。


※※※


「カット、チェック」

キャンパスの中庭に、監督のメガホン越しの声が響く。

中庭のテーブルで龍臣と向き合って芝居をしていた万尋は、立ち上がってモニターに歩み寄る。後ろから龍臣も覗き込んでくる気配がする。

まだお互い本心を明かさない蓮と蒼生が当たり障りのない会話をするシーンで、モニター越しにもまだぎこちない二人がお互いを探り合う空気感が伝わる。

「はい、オーケーです」

上原の声に、現場の空気が緩む。

「良かったよ」

モニターの最前にいた上原が、振り返って声をかけてくる。

「あざっす」

龍臣がフランクに応じる。

「あれでしょ、永瀬くんと俺のリアルな距離感が絶妙に出ちゃってたでしょ」

「出てた出てた。なんだコイツって、お互い顔に書いてあった」

「はは、やっぱりなー」

二人の会話を端で聞いていた万尋は、上原とすっかり親しげな様子の龍臣に驚く。

クランクインからまだ一週間も経っていないというのに、この気難しい監督の懐にいつの間に潜り込んだのだろうか。

そんなことを考えていると、万尋の視線に気付いたらしい龍臣と目が合う。にこりと笑いかけられ、思わず視線を外してしまう。

どの現場にも必ず一人はいる明るいお調子者。年齢こそ近いが、自分とは正反対に感情をストレートに表現する龍臣は、はっきり言って苦手なタイプだった。

顔合わせの時はあからさまに疎ましそうな表情だったくせに、クランクインした途端に親しげに話しかけてくるのも不快だった。

「昼休憩のあと、準備ができたら教室のシーンです」

ADが段取りを説明する。3時間近くの待ち時間はドラマでは珍しくない。

「すみません、永瀬さんと柳さんは告知映像の撮影お願いします」

別のADから声を掛けられる。

放映開始はまだ先だが、第一話のシーンからから順に告知映像も撮影するようスケジュールが組まれているらしい。

「はーい」

例によって龍臣が軽やかに返事をして、スタッフの後に続く。

「今日なにすんの?」

「ベタなんですけど、ペットボトルチャレンジです」

「俺、結構得意だよ」

「えーマジですか」

同年代の女性スタッフとも友達のようなテンポで会話する龍臣の後をついていくと、楽屋代わりの空き教室の片隅に、いつものごとくスマホとリングライトだけの簡易な撮影機材が用意されていた。

「お二人同時にチャレンジしてもらって、先に成功した方がタイトルと放映時間の告知をお願いします」

「了解」

ペットボトルが置かれたテーブルの前に二人で並ぶ。こういう芝居以外の仕事は、あまり得意ではなかった。

「いきます、よーい、スタート」

スタートの合図に、万尋はペットボトルに手をかける。

「あのさあ」

投げようとした瞬間、隣の龍臣が口を開く。万尋は手から滑り落ちそうになったボトルを慌てて掴む。

「え?」

「せっかくだから、昼メシ賭けようよ」

スタッフはスマホカメラをこちらに向けて撮影を続けている。無下に拒否することはできなかった。

「昼メシ?弁当あるのに?」

「いいじゃん。この先ロケも長いんだし、学食のメニュー制覇しようぜ」

「…いいよ」

龍臣にペースを握られ、カメラの前では頷くしかない。

「よし、じゃあ、始め!」

その声を合図に、ペットボトルを同時に放り投げた。万尋のペットボトルが転がる横で、龍臣のペットボトルが一回できれいに着地する。

「よっしゃ!勝ったー」

龍臣が大げさにガッツポーズする横で、万尋はテーブルに手をついてがっかりしたポーズをとる。

「なんか、細工した?」

「するわけないだろ!負け惜しみ、やだねー」

カメラの外でスタッフが笑いながら手で喋るジェスチャーをする。

龍臣が思い出したようにカメラに顔を向ける。

「『まだ夜明けを知らない世界』、火曜日深夜24時30分です!よろしくお願いしまーす」

最後は二人でカメラに向かって手を振る。

「はい、ありがとうございました!」

「大丈夫だよね?」

「完璧です」

スタッフと顔を見合わせて笑った後で、龍臣は万尋に向き直る。

「よし、行こうぜ」

「行くって、どこに?」

「学食って言っただろ。腹減ったし」

龍臣は言うと踵を返して教室を出る。万尋は勢いに押されてその後を追った。


※※※


「ここの学食、前通った時美味そうだと思ってたんだ」

「学食って、いくつかあるんだ」

「これだけでかいキャンパスならな。他のところも今度行くか」

どこまで本気か分からない龍臣の誘いは聞き流し、万尋は食堂を興味深く見回した。

私立大学ということもあってか、天井の高い広々としたスペースに丸テーブルや観葉植物がゆったりと配され、食堂というよりカフェのような雰囲気だった。

中庭に面した大きな窓からは春の陽が射し込んでいる。

「なんか珍しいか?」

龍臣が訊ねる。

「いや、大学の学食って初めてだから」

「ああ、高校卒業してすぐデビューだったんだっけ?」

「そう」

「そんなに珍しいもんでもないけどな。食券買いに行くか」

平日の昼間だったが、大学の昼休みはすでに終わった時間帯のようで、学生の姿はまばらだった。

万尋は焼き魚定食の食券を買い、トレーを持ってレーンに並ぶ。

前にいる龍臣を真似て、「定食」と書かれたレーンで食券を渡し、予想の1.5倍のボリュームで盛り付けられた皿を受け取った。

唐揚げ定食を受け取った龍臣と、テーブルに向かい合って座り、食べ始める。

「どうだった?美味いか?」

「…まずくはない」

「こっちも。次は別の学食行くか」

龍臣は話しながらも大きな口に次々と唐揚げを放り込んでいる。

「そっちは、大学行ってたのか?」

「龍臣でいい」

もぐもぐと咀嚼しながら龍臣が返す。

「去年単位ギリギリで卒業しただけだけどな」

「いいな。大学生役、イメージしやすくて」

思わず本音が漏れる。今日も本来の集合時間より早く来て学内を見て回ったが、想像力には限界があった。

「講義、受けてみるか?」

「え?」

「大学の講義ってどんなもんか、興味あるだろ」

事も無げに龍臣が続ける。

万尋はとっさに返事に詰まる。興味がないと言えば嘘だった。

「そんなことしていいのか?」

「いいか悪いかで言ったら悪いだろうけど、できるよ」

尚も万尋は逡巡する。

頭には一つの疑念があった。

「なんで?」

「ん?」

「なんで俺のこと、そんなに構うの」

「…構ってるの、バレた?」

それほどまずいとも思ってない表情で、龍臣が口元だけ笑ってみせる。

「このままだと、この先のシーンが撮れなそうだからさ」

何気なさを装った龍臣の言葉は、不本意ながら身に覚えがあった。

中庭のシーンは、芝居だけではない、龍臣と万尋の現実の距離感が如実に映し出されてしまっていた。

今のままでは、ストーリー後半、共依存に近いお互いへの執着は表現できないだろう。

「…分かった」

短く万尋が答えると、龍臣は空になったトレーを持って立ち上がる。

「よし、今なら3時限目始まったばかりだから、早めに行くか」

万尋も慌ててトレーを持って立ち上がると、迷いなく歩を進める龍臣の背中を追った。


※※※


撮影も中盤に差し掛かる頃、万尋はテレビ局の打ち合わせスペースで台本を眺めていた。

今日は龍臣と情報番組のインタビューを収録する予定だった。番組ディレクターとの打ち合わせ時間まではまだ時間がある。

「よ!昨日ぶり」

後ろから不意に肩を叩かれる。

「…痛いんだけど」

「今日のインタビューのエピソード、何書いた?」

龍臣は万尋の苦情を無視して丸テーブルの向かいに座る。今日のインタビューは、撮影中の印象的な出来事、というお題が出されていた。

「…この前の講義潜り込んだやつ」

万尋の答えに、龍臣は破顔する。

「マジで?それオッケー出んのか?」

「龍臣は」

「この前のお前のNG祭り」

「やめろ」

万尋は頭を抱えたくなる。普段はほとんどNGなど出さないのに、どうしてか一箇所だけどうしても噛んでしまう台詞があり、NGの山を築いて龍臣や零に散々いじられたのはつい最近だった。

「どっち使うかはディレクター次第だから」

龍臣は万尋の言葉に笑って見せると、万尋の手元を覗く。

「それ、次の現場の台本?」

「そう」

「何?ドラマ?」

「いや、映画」

「すげーじゃん」

「どうかな。堂島さんが主演のバーターだから」

初めての映画出演は嬉しかったが、できるなら実力で勝ち取りたかった。青臭いと分かっているが、苦い気持ちは拭いきれない。

「いいじゃん、バーターがぶちかましたら、観客もスタッフも沸くだろ」

どこまでも前向きな龍臣の発想は、万尋にはないものだった。

「クランクイン、いつ?」

「来週」

「ドラマと並行ってこと?」

「そう」

「マジか。鬼だな、お前のマネージャー」

「こっちの現場には影響ないようにするから」

「分かってるよ」

龍臣とは、距離感を指摘されて以来、しばらくは努めて頻繁に会話するようにしていたが、最近は何も意識せず接するようになっていた。

はじめただのお調子者だと思っていたこの共演者が、予想外に仕事に真面目な努力家だと気付くのに、そう時間は掛からなかった。

芝居も打てば響くように監督の指示を飲み込み、万尋を焦らせることも一度や二度ではなかった。

現場でも待ち時間には演技について相談することも増えていて、はじめの頃の空気感からの変化にスタッフやマネージャーは一様に驚いていた。

『本当に、イメージ変わったね』

移動の車中で、普段はほとんど世間話をしないマネージャーの藤枝が言った。

『いいと思うよ、気取った実力派より素直な若手の方が一般受けするから』

気取った実力派という表現に若干のショックを受けたが、反論はできなかった。

『せっかくなら続けてね、新境地』

演じるために自然体でいる必要があるなんて、デビュー当時には考えもしなかったことだが、事務所エースのチーフマネージャーに背中を押され、もう迷う余地はなかった。


※※※


「あれ、龍臣?」

「能代さん、お久しぶりです」

声を掛けられ、龍臣が立ち上がった。見ると30代半ばの男性が龍臣の肩に手を置いていた。

「そっちは永瀬くん?TVで見るよりイケメンだね」

能代と呼ばれた男は万尋にも値踏みするような視線をよこした。

「前の現場でお世話になった助監督の能代さん」

龍臣に紹介され、万尋も立ち上がり初めまして、と挨拶する。

「主演俳優、売れてんじゃん」

「まだ放映前ですよ」

「お前、こないだの設楽さんのオーディション、身長足りなくて落とされたって?」

「そうなんですよ、身長制限とか書いといてほしいですよ」

「イケメン系は諦めろって。石野さんにも言っといてやろうか」

「いや、多様性の時代なんで!可能性に賭けますよ」

龍臣はおどけてみせる。

「バーカ、言ってろよ」

能代は笑って龍臣の背中をぞんざいに叩くと、またな、と去っていった。

「いつまで立ってんの」

いつの間にか座っていたらしい龍臣の声で我に返り、椅子に座り直す。

能代の冗談のベールを被った嘲りは、万尋の胸にざらりとした嫌な感触を残した。

「お前、あんなの言わせておいていいのか」

「ああ」

当の龍臣は冷静そのものの顔をしている。

「笑いたいやつには笑わせとけばいい。同情されるよりマシだ」

とっさに返答できず黙ると、視線を上げた龍臣と目が合う。

「なんでそんな怒ってんの」

「…怒ってない」

胸の内を言い当てられて憮然とする。前までは感情など奥深くにしまって眉一つ動かさずにいられたのに。

万尋の様子に、龍臣が笑う。

「ありがとな」

「だから怒ってないって」

感情を隠せない状況は、不本意ではあったが居心地は悪くなかった。

万尋は椅子に座り直すと、まだ読み込めていない台本をもう一度開いた。


※※※


『間もなくW主演ドラマが公開されるお二人に、今日は撮影の裏話をお伺いしたいと思います』

『よろしくお願いします』

『よろしくお願いしまーす』

『もう撮影も半分くらい終えたと聞いてるんですが、何か印象的だったことはありますか?』

『僕、大学って通ってなかったんですけど、役作りのために撮影してるキャンパスの講義を二人でこっそり受けてきました』

『お前さあ、それ、言っちゃダメなやつだよ?』

『え、そうなの?』

『ちゃんと確認したか?プロデューサーとマネージャーに』

『してないですね』

『あの話しようぜ。お前が台詞噛みすぎて現場がゲシュタルト崩壊起こした話』

『やめろ』

『しばらくキャストの間で早口言葉が流行りました』

『なるほどー。賑やかな雰囲気の現場なんですね!』

『ストーリーは結構ずっと切ないんですけど、現場は楽しいです』

『永瀬さんって、意外と明るい方だったんですね』

『前は違いました?』

『なんかもっと大人しめの方だと思ってました』

『それ分かります。根暗で扱いにくい陰キャ俳優のイメージでしたよね』

『そこまで言ってないから。それ思ってたのあなたですよね?』

『あ、知ってた?』

尚も続く二人のやり取りにインタビュワーの女性タレントが笑ったところで映像が切り替わり、ドラマの予告が流れる。

地上波の情報番組で流れたその映像は、番組SNSに掲載されると瞬く間に拡散され、ドラマ放映前だというのにちょっとした話題になった。

とりわけ、これまでクールなイメージで番宣などでも言葉少なだった万尋の笑顔に、SNSのコメント欄は沸いた。

更に、フォロワーが切り抜いた動画がバズり、結果的にドラマの公式アカウントのフォロワー数は広報スタッフの想定を遥かに上回る伸びを見せた。

ただでさえ撮影終盤の追い込みの時期に追加の番宣やインタビューが組まれ、万尋と龍臣は睡眠時間を削って殺人的なスケジュールをこなした。

できる限り順撮りになるように組まれた撮影は、後半になるにつれ重要なシーンが増えていく。

撮影への集中力を保ち続けることができるかが、二人の目下の懸念だった。


※※※


「おはようございます」

「おはよう。早いね」

テレビ局のスタジオの廊下で、龍臣はスタッフとすれ違う。

時間は朝の8時で、指定された入りの時間より1時間早い。

自分の名前が掲示された楽屋の前を通り過ぎ、隣の万尋の楽屋をノックする。今日撮影するシーンについて、事前に相談したいことがあった。

「…」

しばらく待っても物音一つせず、ためらいつつドアを薄く開けると、楽屋は暗く、無人だった。

今日は万尋の方が撮影順が早く、既にスタジオ入りしている筈だ。

龍臣はスマホを取り出し、LINEのトーク画面を呼び出す。

『いまどこ?』

短く打つと、すぐに既読がつく。

そのまま画面を眺めていると、メッセージが表示された。

『7階の外階段』

予想外の返信に首をひねる。

外階段は全てオートロックで、一度出てしまうと外からは開かないと聞いたことがあった。

訝りながらも、龍臣は早足でエレベーターに向かった。


廊下から外階段に出る重いドアを開けると、すぐに階段に座る万尋の背中を見つけた。

「よお」

「…おはよう」

万尋は振り向くのも億劫な様子で、横顔で頷く。

開けたドアを閉めていいのか躊躇していると、「そこの鍵壊れてるから、閉めて大丈夫」と背中を向けたまま万尋が言った。

龍臣はドアを閉め、階段を数段降りて万尋の隣に座る。

駐車場に面した階段はもちろん他には誰一人おらず、ドア一つ隔てたスタジオの慌ただしさとは別世界のようだった。

季節は春を迎えて久しいが、まだ朝の空気はひんやりと冷たい。

「こんなとこ、よく知ってたな」

「…一人で集中したい時便利なんだ」

静かに呟く万尋は、分かりやすく顔色が冴えない。

「大丈夫か?」

「何が?」

視線を上げた瞳は、やはりどこかうつろだ。

「何がって、お前、鏡見た?」

万尋はようやく思い当たった様子で手の平で頬を撫でた。クマはメイクで何とかなるだろうが、瞳に力がないのはごまかせない。

「そんなにひどい?…まずいな」

「昨夜、何時までやってたんだよ」

「…夜の3時」

万尋は、いよいよ映画もクランクインし、しばらくは映画とドラマ、そしてドラマのオンエア直前の番宣が同時進行する期間が続く予定だった。

ふいに、スマホの震える音が響いた。

万尋がズボンのポケットからスマホを取り出すと、表示を確認してスワイプする。

「…はい」

『永瀬くん、今日の撮影順、今なら監督に変えてもらえるけど、どうする?』

スピーカーから万尋のマネージャーの藤枝の声が聞こえる。

「いや、今のままでいいです」

今日は、万尋のシーンの後に龍臣のシーンを撮影する予定になっていた。

順番を変えれば、一時間以上は時間が稼げるかもしれない。

『今のままでいいようには見えなかったけど』

「大丈夫です。こっちに影響させない約束でしたよね」

藤枝の指摘に、万尋の声が心なしか強張る。

『意気込みは大事だけど、理想通りにいくことばかりじゃないからね。周りが迷惑することもあるって、分かってる?』

「…分かってます。徹夜したわけじゃないんで、やれます」

努めて抑揚を抑え、万尋が返す。

『分かった。じゃあ、また後で』

藤枝の短い言葉の後、通話が切れた。

万尋が深く息をつく。

「…お前のマネージャー、容赦ないな」

事務所のスター俳優を抱える凄腕とは聞いていたが、率直すぎる言いようは龍臣には冷淡にも感じられた。

「あの人、悪意はないから」

「俺は大丈夫だから、変えてもらえば」

「いいって言ったろ」

「なんで。映画の方がでかい仕事なんだから、優先させても誰も何も言わないだろ」

その言葉に、万尋が重い視線を上げて龍臣を見やる。瞳には怒りに似た色が灯っている。

「…こっちは主演だ」

押し殺した声で、呟く。

「映画やってるから仕方ないなんて思われたくない。絶対に」

それは龍臣への返答のベールを被った独白のようだった。そうして自分を戒める様子は、龍臣には悲痛に映る。

「それより、なんか用あったんじゃないの」

万尋に問われ、龍臣は本題を思い出す。

「ああ、今日の二人のシーン、相談したくて」

「…」

万尋はすぐには答えず、龍臣と反対側の階段の格子に頭を預けた。

「おい、聞いてるか?」

「…聞いてる。5分寝てからでいい?」

「…いいけど」

答えを待たずに万尋は目を閉じている。

龍臣はさっきまでと打って変わって穏やかなその寝顔に見入る。

出会った当初は有り余る才能をカメラの前で見せつけるばかりかと思っていた万尋の演技力は、撮影を重ねるうちに驚異的な負けず嫌いと山のような努力が組み合わさって生まれたものだということが分かっていた。

見ると、彼の膝の上に開かれたままの台本にはぎっしりと書き込みがあり、その痛々しさに拍車をかける。

(なんか、かわいそうな奴)

胸に浮かぶ感慨は、龍臣が演じる蒼生にリンクするかのようで少し混乱する。役の感情と自分の感情が入り混じるのは、俳優になって初めてのことだった。


※※※


万尋が倒れるのが先か撮影が終わるのが先かという綱渡りのスケジュールの中で、ドラマの放映がようやく開始された。

前評判の高さや既に新人俳優の中でも注目株だった万尋の初主演作ということもあり、初回から深夜枠ではクールトップの数字を叩き出し、現場はプロデューサーをはじめとして分かりやすく盛り上がっていた。

唯一、監督の上原だけは今までと変わらず淡々と妥協のないテイクを重ねていたので、カメラの前ではペースを乱さずにいられたことは龍臣にとっては救いだった。


「いた、龍臣!」

「え、マジで!?」

撮休の午前、打ち合わせと取材のために事務所ビルへ向かういつもの道を歩いていると、背後から嬌声が聞こえた。

驚いて振り向くと、声の主らしき20代半ばの女性の二人連れが、バス通りを挟んだ反対側からこちらに向かって走ってくるところだった。

状況が読めないながら、二人の勢いがただ事でなく感じられて、龍臣は反射的に走り出す。

「やばい、速い!」

「やだー」

後ろの二人が尚も声を上げながら迫ってくる。

龍臣はほとんど全力疾走で事務所ビルに辿り着き、警備員のいるゲートで入館証をかざしてエントランスホールに駆け込んだ。

後ろでまだ声がしたが、もう振り向かずそのままエレベーターに乗り込んだ。


「なんか、追いかけられたんだけど」

まだ息が整わないまま、オフィスのデスクにいた石野に話しかける。

「え、大丈夫ですか?」

石野は驚いた様子で立ち上がる。

窓際から外を見下ろし、ビル入り口周辺の人影を確認した。

「あの二人ですか?」

石野の視線をたどると、さっきの二人組がビルの入り口前のガードレールにもたれてスマホをいじっているのが見える。

「気のせいじゃないよな」

「ですね。しばらく待ち伏せしそうな雰囲気ですよ」

「マジか…」

石野と話すうちに、跳ねるようだった動悸がようやく収まってくる。

「BLドラマの主演は熱心なファンが付きやすいんですけど、それにしても早かったですね」

それだけ今回のドラマが話題ということなのかもしれなかったが、この事態には素直に喜べそうにない。

「落ち着くまで、送迎できない時はタクシー使ってくださいね」

「マジで?めちゃくちゃ金かかるじゃん」

大学在学中にデビューした龍臣は、今も都下の実家から通い続けていた。

「変な人達には見えなかったけど。追いかけられるだけなら害はないんじゃない」

「あの人達は良くても、彼女達がSNSで拡散した情報を見て集まってくる人達はそうじゃないかも知れないんで」

石野がさらっと怖いことを言う。

「…そういう人達って、何するの?」

「ひとくくりにできないんで、ピンキリです」

「ピンキリって、どこからどこまで?」

「応援してますって言うだけから、毎日ピンポン押して結婚を迫るまで、ですかね」

石野の淡々とした口調は、龍臣の背中を冷たくさせた。

「…それって実話?」

「何年か前ですけど、永瀬さんのところの堂島さんの実話です」

アイドル並みに甘いマスクの堂島は、デビュー当初から人気もアイドル並みだったが、その影にそんな事件があったとは知らなかった。

俳優になって成功するということの中にこの手の不自由さが含まれることは頭では分かっていた筈なのに、いざ見知らぬ相手に追われると足がすくむような恐怖があった。

「そういえば」

石野が改まって龍臣に向き直る。

「この前の吉住監督の映画、決まりましたよ」

「え、マジで?」

「はじめから結構好感触だったみたいです。頑張ってくださいね」

一ヶ月ほど前、龍臣はキャリアの中では挑戦の部類に入るオーディションを二つ、立て続けに受けていた。

一つが以前能代に揶揄された若手男性俳優を揃えたライトなラブコメで、もう一つは海外の映画祭常連の監督がメガホンを取る、直木賞受賞の小説を原作にしたヒューマンドラマだった。

前者は等身大の役柄なのに対し、後者は哲学的なテーマをはらんだ重厚なトーンのドラマで、龍臣が受けた役はクレジットこそ高くないものの物語のキーパーソンともいえる位置づけで、はっきり言ってこちらの方が数倍難しい役どころだ。

受かるならラブコメの方だと思い、そちらが落ちた段階で両方諦めていた龍臣は、複雑な心境だった。

「社長、ご祝儀袋配りかねない喜びようですよ」

石野の言葉が得体の知れない憂鬱に拍車をかける。

オーディションに受かって悩む日が来るなんて、少し前には考えられなかったことだった。

「…勘弁してよ」

やっとの思いでそう返したが、胸の内に広がる戸惑いは龍臣を落ち着かなくさせた。


※※※


事務所の応接室で雑誌の取材を終えたのはまだ外が明るい時間帯だった。

すぐに帰ってもよかったが、空いている打ち合わせスペースを借りて台本を開いた。

ドラマの撮影は残り一週間を切り、残っているのはほとんどクライマックスの気の抜けないシーンばかりだった。

演技プランを詰めたいのに、頭の中に雑音がひしめいてなかなか集中できず、龍臣はため息をついた。

「お、龍臣、来てたのか」

不意に声をかけられ、顔を上げる。パーテーションのすき間から、見知った顔が覗いていた。

「颯人、久しぶり」

「ここ誰か来る?」

「いや、空いてるから場所借りてるだけ」

龍臣が答えると、颯人は軽やかに向かいの椅子に座った。

「偶然だな。いつぶり?」

「新年会以来だから、4ヶ月くらい?」

颯人はほとんど同じタイミングで事務所に所属したいわば同期で、お互い箸にも棒にもかからない下積みの時期を一番よく知る間柄だった。

久々に気の置けない友人に会い、自然と気分が高揚する。

「あれ見た?時田監督の新作」

「見た。やばかったな」

元々邦画が好きでこの世界に入った龍臣だったが、颯人は更に輪をかけた映画オタクで、以前はよくお互いの家で映画を見てはストーリーについて考察を言い合ったりしていた。

「でもあのラストシーン、いるかなって気がした」

「分かる。俺ラストの解釈迷って監督のインタビュー読み漁っちゃった」

「なんて言ってた?」

「あのシーンは夢落ちとかじゃなくて現実で、希望を残したかったって」

「え、ならミスリードじゃん」

「な?俺もそう思った」

颯人は出会った頃から、映画の台詞やシーンの意図についての考察がずば抜けていて、龍臣はそんな彼の慧眼を素直に尊敬していた。

久々の颯人との会話は、毎日芝居や映画について飽きることなく語った頃と変わらず、居心地がよかった。

そのうちまた、一緒に新作映画を見られたら。

そんな提案をしようかと思った矢先、颯人が先に口を開いた。

「お前、吉住監督の次回作、決まったってな」

口調が硬く感じたのは多分気のせいではないだろう。

龍臣も、知らず息を呑む。

さっきまで穏やかだった空気が、急に重く張り詰める。

「…耳が早いな」

吉住監督は、颯人が最も敬愛する監督だった。

少しでも作品に関わりたいと前作のエキストラに応募し、採用されて興奮気味に現場での監督の様子を語っていたのは、確か一年前のことだ。

「社長がはしゃいで言いふらしてるから」

颯人の顔は笑っていたが、空気は重苦しいままだった。

二人だけが知る、芝居や作品への混じりっけなしの情熱に溢れた長い長い大切な時間が、目の前でバラバラに切り刻まれていくような気がした。

「順調じゃん。俺もバーターで出してよ」

「バカ、オーディションやっと引っかかっただけでそんな力あるかよ」

全然本音じゃない、上辺だけの会話。

どうして、他でもないこいつと、こんなに心のない会話をしないといけないんだろう。

「そんなこと言ってないでさ、話題のBLドラマも頑張れよ」

『話題の』のトーンに込められた特別な意味合いを感じ取る。

「…ああ」

やっとのことでそれだけ答えた。もうこれ以上は耐えられそうになかった。

「そろそろ行くわ。台本読んでたのに、邪魔して悪かったな」

「ああ、またな」

龍臣の言葉は聞こえたのかどうか、颯人は立ち上がると素早くパーテーションの向こうに姿を消した。

一人無機質なスペースに取り残され、いっそ泣きたい気もしたが、それよりも現実がフィクションに飲み込まれるような感覚が勝った。

一つ一つ目の前の仕事に打ち込んできただけの筈だったのに、いつの間に自分を取り巻く世界はこんなに変わってしまったんだろうか。

開いた台本はもう読む気もせず、龍臣は目を閉じて息をついた。


※※※


『恵茉と、あの後どうした?』

『…振られたよ』

『へえ、ご愁傷さま』

蒼生のからかい半分の言葉に、蓮は眉をしかめた。蓮の一人暮らしのワンルームのベッドに、蒼生は我が物顔で座っている。

『今度さ、買い物付き合えよ』

急に話題が変わり、蓮は蒼生に向き直る。

『なんで?』

『なんでって、一人で行くより楽しそうじゃん』

『付き合ってもないのに、そんなことしない』

蓮のトーンはどこまでも冷たいが、蒼生は頓着せず、彼の手を取り隣に引き寄せた。

『付き合ってもないのに、こんなことはするんだ?』

身近で見つめ合う。探るような視線。蓮は突き放すことはせず、黙って目を閉じる。


「カット、チェック」

スタジオに上原の声が響き、現場は緊張から解き放たれる。

龍臣と万尋はベッドを離れ、モニターに向かった。

物語は終盤に差し掛かり、蓮は蒼生と体の関係を持ちながらも心は閉ざし続けている。

蒼生も蓮に深入りするつもりもなく、面倒な恋愛感情とは無縁の単純で優しい夜を幾夜も過ごしていた。

モニターの中の二人は、充分に練られた演技で、蓮と蒼生の恋人とも友達とも違う距離感を表現している。

「はい、オーケーです」

一発オーケーに、万尋は安堵の息をついた。時間は既に22時を回っていて、集中力も限界を迎えていた。

「今日の撮影は以上になります。お疲れ様でした」

ADのアナウンスに、現場スタッフはそれぞれ撤収の作業に取り掛かる。

「ちょっと巻いたな。ラッキー」

嬉しそうな龍臣と連れ立って、楽屋へと向かう。廊下に出ると、窓を叩く雨音に気付いた。

「すげー雨だな」

龍臣につられて窓を見ると、勢いよく降りしきる大粒の雨が、街灯に照らされて光っていた。天気予報で雨が降ることは知っていたが、こんな豪雨になるとは予想外だった。

廊下に面した打ち合わせスペースで、パソコン作業をしながら待機していた藤枝が、こちらに歩み寄ってくる。

「お疲れ様です」

「お疲れ様。柳くん、今日は迎えは?」

藤枝が気遣わしげな表情で龍臣に話しかけた。龍臣は少し意外そうに藤枝を見る。

「今日はタクシーで帰ります」

龍臣のマネージャーの石野は、今日は姿を見せていない。

「この雨で電車が止まってる。タクシー、捕まらないと思うよ」

「え、止まってる?」

龍臣はズボンのポケットのスマホを取り出し、操作する。

「うわ、本当だ」

隣から画面を覗き込むと、JRの路線にずらりと「運転見合わせ」の赤い文字が並んでいた。確かにこれではタクシーは捕まらないだろう。

「家どこだっけ?」

「JRの、西の方なんですよね…」

龍臣は都下の駅名を口にする。

万尋の記憶が正しければ、他の私鉄は通っていない駅のはずだった。

「どうする?どこか途中の駅とか、事務所でよければ永瀬くんのついでに送るけど」

「いやー、事務所はもう閉まってると思うんで…」

スマホの画面を見ながら龍臣が口ごもる。

「どうせ明日もここなんで、最悪楽屋の椅子で寝ます」

冗談かと思いきや、どうも本気らしい龍臣に、万尋は少しためらってから口を開いた。

「…なら、うち来る?」

「え?」

「ここから車で20分くらいだし、どうせ明日もここだし」

万尋の思いつきの提案に、龍臣以上に藤枝が驚いた様子で視線を向けてくるのが分かった。

「えー、いいのか?」

「何もないけど。椅子で寝るよりはマシだろ」

「いや俺はめちゃくちゃありがたいけど」

「藤枝さん、いいですか?」

「僕は別に手間は変わらないから」

「じゃあ、行こう」

まだ戸惑い半分の二人を促して、万尋は歩き出した。


※※※


「どうぞ」

マンションの玄関ドアを開けて、万尋は龍臣を部屋の中に招き入れた。

龍臣は心なしか緊張した面持ちで、部屋の中を物珍しそうに見渡しながら1LDKのリビングのソファに居場所を見つけたように座った。

「何でこんなに片付いてんの?」

「別に、普通だと思うけど」

一人暮らしを始めてから他人の部屋に行く機会もなく、万尋にとっては最低限の家具と家電が配置されただけのこの部屋が『普通』だった。

「俺の部屋なんか、服と靴と雑誌でぐちゃぐちゃだけどな」

龍臣の呟きを聞きながら、万尋は冷蔵庫と棚を物色する。

この雨で外食も買い出しもできる余裕はなく、部屋にあるもので空腹を凌がなくてはならなかった。

「カップ麺とポトフ、どっちがいい?」

キッチンから声を掛けると、龍臣は大げさに驚いた顔を向けてくる。

「ポトフって、作ったやつ?」

「そう。作り置きだけど」

「すげえな。そっち食ってみたい」

「分かった」

万尋は答えると、食器と鍋を取り出し、準備に取りかかった。


二人掛けのダイニングテーブルに温めたポトフをよそった深めのプレートを並べる。

向かいの椅子に座った龍臣は、いただきます、と律儀に手を合わせて食べ始めた。

考えてみれば手料理を家族以外に振る舞うのは初めてだった。万尋は龍臣の表情を伺う。

「普通にめちゃくちゃ美味いじゃん」

まだ口に頬張ったまま龍臣が声を上げた。

「料理人の役できるな、お前」

「簡単だよこんなの」

少しほっとしながら、万尋も食べ始める。実家から大量に送られてきた玉ねぎの消費のためのメニューだったが、我ながらいい出来だった。

「一人暮らし長いんだっけ?」

「高校からだから、もう5年」

「俺、一人暮らしも自炊もしたことない」

「ずっと実家?」

「そう。だからこんな飯、絶対作れない」

龍臣の心底感心した様子は、お世辞ではなさそうだった。

「コンビニもあんまり行くなって言われてるし、外食好きじゃないから、自炊するしかないだけだよ」

「コンビニって、近所のコンビニとかも?」

龍臣が真顔になるのが分かった。何か気にかかるトピックスだっただろうか。

「近所ほど行くなってうるさく言われてる」

「それって、やっぱり住んでるところかバレないようにってこと?」

「そう。前に堂島さんが危ない目に合ったから」

堂島がストーカー化したファンにマンションを特定されて付きまとわれたのはまだ万尋がデビューするかしないかの頃だった。

警察も交えて藤枝と社長が深刻そうな顔で事務所で話し合っている様子は今でも鮮明に覚えている。

「…俺、昨日知らない人達に追いかけられた」

龍臣の表情が翳り、万尋はさっきの違和感の原因を知る。

「…どこで?」

「事務所」

「家は、大丈夫だった?」

「母親は何もないって言ってたから大丈夫だと思う」

「俺もあるよ。買い物してるとこ盗撮されてSNS上げられたりとか」

本当はもっとひどい目にもあったが、言わずにおく。

「マジで?」

「多分このドラマでまた増えるんじゃない」

「だよな。覚悟してたつもりだったけど、甘かった」

そう言って俯く龍臣は、現場では見せたことのない疲れた顔をしていた。

「で?」

「え?」

万尋の声に、龍臣が視線を上げる。

「怖いから、やめるの」

目をそらさず問いかけると、龍臣の顔色が変わった。万尋を睨んで、口を開く。

「やめねーよ、バカ」

そう言った彼はもういつもの調子を取り戻していて、万尋は笑いながら二人分の皿を手に立ち上がった。


万尋がシャワーを終える頃には、もう日付が変わっていた。

リビングでは先にシャワーを終えた龍臣が、万尋が貸した部屋着を着てダイニングテーブルで台本に向かっていた。

「明日のシーン?」

万尋は向かいの椅子に座りながら問いかけた。

「…ああ」

龍臣が顔を上げる。明日は、蒼生が蓮のために涙する、二人の関係のターニングポイントになるシーンが予定されている。

「明日のシーン、俺好き」

「蒼生が泣くところ?」

「そう。頭より先に感情が動いちゃう感じが、リアルだなって」

言語化された恋愛感情ではなく、お互いを憐れむことでしか愛せない、という関係がこのドラマの主題だった。

「かわいそうと愛してるって、同じなのかな」

万尋の問いに、龍臣は首をひねる。

「分かんねえ」

けど、と龍臣が続ける。

「好きと嫌いが近いのは分かる」

「…龍臣、はじめ俺のこと嫌いだっただろ」

「あれはお前の態度がひどすぎるから」

龍臣は否定もせず笑ってみせる。

初めての読み合わせの日の、あの刺々しい空気は忘れられなかった。

「前の現場の助監督には嫌み言われても笑ってたくせに」

いつかのテレビ局で、軽々と笑ってやり過ごす龍臣の表情が浮かぶ。

「あったな。あれは流していい相手だから」

龍臣も思い出したように頷く。

「お前、ああいうの言われなそう」

「言われないわけないだろ」

反射的に言い返す。

「堂島さんのバーターでデビューして、最初は散々言われたよ」

龍臣は意外そうに目を見開く。

「で、いちいち怒るタイプ?」

「顔には出さないけど、誰に何言われたか一生忘れない」

「はっ、こえーな」

愉快そうに笑う龍臣は、今までで一番身近に感じられた。性格も芝居のスタイルも、何一つ共通点なんてないと思っていたのに、今この瞬間、自分の心情を誰よりも理解するのは彼だった。

「…デビューしたての頃、オーディション受けた映画の監督にダメ出しされて」

その理由は分からないまま口を開く。今まで誰にも語れずにいたことを。

「お前、本当に自分を嫌いになったことないだろって。それがなきゃ本当の表現者にはなれないって」

雲の上の存在だった著名な映画監督から掛けられたその言葉は、当時まだ高校生だった万尋を呪いのように縛った。

そうしてその日から、どこかで自分を抑制していた。そうやって苦しむことが自分には必要なんだと言い聞かせて。

「それで?」

しばらく黙って聞いていた龍臣が問うてくる。

「え?」

とっさに何の問いか分からず、万尋は彼の目を見る。

「なれたのか、『表現者』に」

「どうかな。自分のことは嫌いはなれたけど」

龍臣の瞳から目が離せないまま、我ながら青臭い告白をする。

そう、もうずっと嫌いだった。この世界で、才能もないのに分不相応な居場所を与えられて、あがき続けている自分が。

若手の演技派なんていう脆いメッキが剥がれてしまえば、中身は取るに足らない未熟者だ。

「じゃあもういいんじゃねえの」

龍臣が目をそらさずに口を開く。

「充分ってことだろ。これだけ注目されて、評価されて」

大昔に言われたたかが一言で大袈裟だと笑ってもいいのに、龍臣の口調は真剣そのものだった。

「俺はお前の芝居、好きだよ」

きっぱりと彼が言う、その言葉と瞳の引力に耐えきれず、万尋は視線をそらした。胸には長年の重荷を下ろしたような軽さと、別の種類の痛みが混在して、息をするのが苦しく感じられた。

「…なんか、不思議だな。クランクインしてまだ二ヶ月くらいなのに、お前とは馴れ合って、親友とはほとんど絶縁して」

龍臣が感慨深そうに口を開く。

「絶縁?」

何のことか分からず問いかける。

「仲良かった事務所の同期が尊敬してる監督の、次の映画のオーディション受かってさ」

「…ああ」

あとは聞かなくても分かってしまう。

万尋も、デビュー前に一緒に演技レッスンを受けていた同期とは、完全に疎遠になってしまった。

「俺もあいつも何も悪くないのに、もう前のままでいられないって、何なんだろうな」

龍臣はうつむいたまま淡々と続けるが、言葉以上に彼が傷ついていることが分かってしまう。

これまでずっと強気な姿しか見せてこなかった龍臣が気落ちしている様子は、思いがけず万尋の心の柔らかな部分を揺さぶった。

「…何でそんな話、俺にするの」

万尋の問いに、龍臣は言葉を探す素振りで視線を上げた。

「…何でだろうな。お前なら分かる気がしたからかな」

「ああ」

万尋は龍臣の視線をまっすぐ受け止める。

本当に、どうしてこんなに近くまで来てしまったんだろうか。あの狭くて息苦しい会議室から。

「…分かるよ」


※※※


翌朝、雨は止んだものの低くて黒い雲が空を覆っていた。

藤枝は今日は夕方まで別の現場らしく、万尋と龍臣はタクシーでスタジオに入った。

洗濯したものの乾燥が間に合わなかった龍臣の服は、万尋の私服を貸していた。

「おはよー!」

既にメイクを済ませた綾香が二人に手を振る。

同じ時間に入る予定の零の姿は見えない。

「万尋、この前の本読んだよ」

綾香が笑顔で話しかけてくる。

「ああ、どうだった?」

撮影の始めの頃、演技が初めての綾香に相談され、初心者向けの演技論の本を紹介していた。

「すごい良かった!ありがとね」

「なに、なんの話?」

龍臣が横から口を出す。

「ていうか、いつの間に名前で呼んでるんだよ」

「万尋のこと?零も呼んでるけど」

綾香は屈託なく答える。

「いいな、俺も呼びたい」

「だめだな」

深い意味はなく冗談で返す。

「なんでだよ!お前は龍臣って呼ぶくせに」

「自分でいいって言ったんだろ」

「じゃあ今はなんて呼んでんの」

「『お前』」

「何それ、夫婦じゃん」

綾香が声を上げて笑う。

「零はまだ来てないの?」

万尋は気にかかっていたことを訊ねる。

綾香が神妙な顔つきで声をひそめた。

「昨日の番宣動画が炎上して、まだ楽屋」

「昨日のって、俺と二人のやつ?」

「そう。馴れ馴れしすぎるって、叩かれまくってる」

胸をざわりと嫌な感触が撫で、動悸が速くなる。

万尋は冷たくなった指先でスマホを取り出し、ドラマのアカウントを開くが、目的の投稿は見当たらない。

「オフィシャルはもう削除されてるけど、切り抜きが拡散されてるみたいよ」

SNSの炎上など何度も経験しているのだろう綾香は、どこか飄々とした様子でスマホを手繰る。

「これこれ」

綾香が差し出してきたスマホの画面に龍臣と顔を寄せて見入る。


縦の画面に、零と万尋が衣装を着て立っている。

キャプションにお題が表示される。

『チャームポイントを教えてください』

『えー、なんだろう。足のサイズ?』

『いくつなの?』

『22cmです。子ども靴が余裕で履けます!』

『俺は、うなじにほくろがある』

『どこどこ?』

万尋が零に背中を向け、零が覗き込む。

『この辺』

『意外と小さいんだけど?カメラさん、ここです!』

零が笑いながら万尋の服の襟を押さえ、カメラに向かってほくろを指さす。

動画はそこで終わり、また始めからリプレイされる。

「で、コメントね」

綾香が淡々と画面を操作し、コメント欄を開く。

“ボディタッチこんなにする必要ある?普通に不快“

“万尋くん顔引きつってるじゃん“

“役もウザいけど中身もウザい“

“なんでBLドラマで女子とのイチャイチャ見せられてんの“

内容はほとんどが零への中傷で、万尋は見ていられず途中で目をそらした。

軽率だった自分への後悔と、あたかも自分たちが正義であるかのようなコメントへの嫌悪感が合わさって、比喩でなく吐き気がした。

『理想通りにいくことばかりじゃないからね』

いつかの藤枝の、冷静な声が頭をよぎる。

結局、覚悟が足りてないってことなんだろうか。

必死に作品と芝居に向き合っても、こうしてあっさり足元をすくわれる。単に仕事というだけでは割り切れない憤りがあった。

「おい、大丈夫か?」

間近に龍臣の声が聞こえ、我に返る。

「顔色ひどいぞ。ちょっと座ってろ」

手を引かれ、言われるままに椅子に腰を下ろした。

「炎上するくらい話題だってことだろ」

うそぶく龍臣は強がりでもない様子で万尋は驚く。

「あ、零、大丈夫?」

綾香の視線を辿ると、衣装に着替えた零の姿があった。

メイクはしているものの、憔悴しきった様子は隠しきれていない。明るく気丈ないつもの零の姿との落差に、また胸が痛む。

「ごめん、大事な時期なのに、私のせいで」

「謝るなよ。悪いことしてないんだから」

きっぱりと龍臣が言い切る。

「でも」

「いいから、黙ってろ」

有無を言わせぬ龍臣の口調は、言葉とは裏腹に優しい。

「広報的には今回はスルーの方針みたいだけど」

「なんだそれ。言ったもん勝ちじゃん」

綾香の言葉に、龍臣が納得いかない表情で声を上げる。

「どうせならひっくり返してやろうぜ」

「いいね。なにする?」

龍臣に綾香が目を輝かせて乗っかる。

零が涙の滲む瞳を向けると、龍臣がその視線を受け止めて笑いかける。

万尋の胸に、また嫌な感覚がざわりとうごめく。

さっきまでの感覚と異なるその違和感には、まだ気付かない振りをした。


※※※


『俺は、うなじにほくろがある』

『どこどこ?』

『この辺』

『意外と小さいんだけど?カメラさん、ここです!』

カメラは万尋の襟足をクローズアップした後、少し離れてそのままぐるりと向きを変え、椅子に座って腕組みをした龍臣をとらえる。

龍臣は無表情のまま何も言わず、じっと二人を眺めている。

またカメラが向きを万尋と零の方に変える。二人は気まずそうに笑ってごまかすと、カメラの左右に分かれて消えた。最後、再度映った龍臣の不敵な笑みで動画は終わる。

投稿の下にはハッシュタグが並んだ。

#お待たせしました完全版

#もしかしなくても 

#修羅場

#れんあお

なのか

#れんりり

なのか

#続きは8話で!?


龍臣が考えたシナリオで綾香が撮影したその動画は、意外にもあっさり広報スタッフと双方の事務所の了解を取り、すぐにドラマの各SNSアカウントから投稿された。

“蒼生の冷たい視線怖すぎ笑“

“完全版あったんなら最初から言ってよ!“

“これって釣られたってこと?“

“梨里逃げて!“

投稿した直後から予想以上の速度で拡散されたその投稿には、手の平を返したコメントが並んだ。

投稿の直後から画面をリロードし続けて反応を見守っていた万尋たちは、一様に安堵の息をついた。

「零、泣かないでよー」

綾香の声に視線を向けると、零が声もなく泣いていた。今まで堪えていた分が溢れたようだった。

「おい、メイク落ちるぞ」

龍臣が笑う。

零は頷くだけで言葉にはならない。

龍臣は机に置いてあったティッシュを差し出し、零の頭を軽く撫でた。

思いがけず親密なその二人の様子から目が離せずにいると、視線に気付いたのか龍臣と目が合う。

「お前も、大丈夫か?」

顔を覗き込まれ、我に返る。

「何が?」

「まだ顔色悪いぞ」

間近から向けられる視線に耐えられず、顔を背ける。

「…大丈夫だよ」

それだけ言うので、精一杯だった。


※※※


「おい、龍臣!」

零と龍臣と連れ立って撮影スタジオに向かう廊下で、呼び止める声がした。綾香は撮影く既にスタジオに入っている。

振り向くと、見たことのある同年代の男性が笑顔でこちらに向かってくる。

確か、一つ前のクールの学園ドラマで、龍臣や零と共演していた俳優だった。

「悠太、来てたのか」

悠太と呼ばれた男性は、三人に追いつくと零と万尋にも快活に笑いかける。

「秋月さんも、久しぶり。永瀬くんは初めましてだよね」

如才なく笑いかけられ、万尋も笑顔で返す。

「初めまして、永瀬万尋です」

「いいよ年近いしタメ口で。実物もめちゃくちゃ優等生って感じだね。ごめんね、こいつ現場でうるさいでしょ?」

悠太は親しげに龍臣の肩に手を回す。龍臣は眉をしかめるが、口元は笑っている。

「うるさいのはお前だよ、バカ」

「今日、DVDの特典撮りで尚弥と響も来てるよ」

「マジで?俺、呼ばれてないんだけど」

「ああー、お前監督に嫌われてたから」

「そんなわけあるか!」

友達ノリのテンポのいい会話を、端で見守る。

「時間あんの?ちょっと顔見に来る?」

「5分くらいしかないけど、行こうかな」

「秋月さんもどう?」

「私、入りの時間過ぎちゃってるから」

「そっか。じゃあ、また今度ね」

「悪い、すぐ行くってスタッフさんに伝えて」

言うと二人はこちらに背を向け、慌ただしく廊下を逆戻りしていく。後ろからでもまた何か賑やかに言い合っていることが分かる。

誰とでも親しげに笑い合うのは龍臣の常だと分かっているのに、彼の背中が実際の距離よりずっと遠くに感じられた。

「あいつ、どの現場でも人気者だよね」

隣の零が少し笑って呟いた。

その様子がなんだか淋しげに感じられて、万尋はある仮説に行き当たる。

脳裏にはつい数分前の零の涙があった。

「…秋月さんって、」

聞いたら後悔するという予感があったが、言葉が勝手に口をつく。

「龍臣のこと、好きなの?」

「え、違うよ。そう見えた?」

零は驚いた様子で万尋を見る。

「なんか、淋しそうな顔してたから」

「私、そんな顔してた?俳優なのにやばいね」

零は思い当たったように笑ってみせる。

「龍臣も悠太も、みんな学園ドラマの同級生役で同じスタートラインだったのに、なんか差がついちゃったなって」

うつむいて呟く零は、それでもいつもの気丈さを取り戻していた。

「あいつの芝居とメンタルは尊敬するけど、恋愛はさ、リスク高すぎてちょっと怖くなっちゃうよね。いちいち共演者に引っかかってたら、俳優なんてできないし」

「…そうだね」

きっぱりと理性的な彼女の言葉と、自分の心情とのその落差に、万尋の混乱は深まる。

あとはもう黙って、殺風景なだけの廊下を歩く。窓の外の空は分厚い雲に覆われたままだった。


※※※


『さっきの男、元彼?』

『…名前も知らない』

『ワンナイト?無理やりとかじゃなくて?』

『保護者面するなよ。関係ないだろ』

『ならなんでそんなに怯えてんだよ』

真夜中の蓮の部屋で、蒼生は蓮の手を引いて自分の方に向かせた。

夜の街で、以前初めて関係を持った男と出くわして動揺する蓮を、蒼生が問い詰める。

蓮にとっては過去の自分の過ちを暴かれる、辛いシーンだった。

万尋は龍臣と並んで、撮り終えたシーンをチェックする。

蒼生の表情をメインで映すモニターに、自然と視線が吸い寄せられる。

彼の瞳に宿る、本物だけが持ち得る光。

見る人を惹きつけずにいられない、理屈じゃない天然のチャーム。

龍臣の俳優としての力は、台詞回しでも身体表現でもなく、この瞳の光にあった。

その問答無用の引力の前に、自分の「若手の演技派」なんていう看板は、どうしようもなくちゃちに思えてしまう。

「はい、オーケー」

監督の上原の声が響くと、現場は次のシーンのためのセッティングが慌ただしく始まる。

楽屋に戻るほどの待ち時間でもなく、そのまま龍臣とディレクターズチェアに並んで座った。

次のシーンは万尋がメインだ。

拳を握った指先は冷たく固まっている。

ーー演れるだろうか。今の自分に。

役者になって初めての疑念を抱く。

演れるだろうか。自分の気持ちに名前をつけないまま、蒼生の涙をただ受け止める、純粋な蓮の眼差しを。こんなにも混乱した雑念に満ちたままで。

「なあ、大丈夫か?」

龍臣の気遣わしげな声が隣で聞こえるが、すぐには反応することができない。

「指、めちゃくちゃ冷たかったぞ。貧血か?」

芝居の中でほんの数秒手を掴まれた時にそんなことまで伝わってしまっている。

「大げさだよ。女子じゃないんだから」

「よこせよ」

何を、と問う間もなく、肘掛けに置いた万尋の手を龍臣が取った。

その掌の熱に、身動きが取れなくなる。

「うわ、氷だな」

屈託なく龍臣が呟く。振りほどこうと思うのに体は動かない。

万尋は観念して目を閉じた。


※※※


『ならなんでそんなに怯えてんだよ』

さっきと同じシーンを、アングルを変えて撮り続ける。今度はカメラは蓮の表情をアップで追う。

息の触れる距離に、蒼生の瞳があった。そのまっすぐな光から逃れられないまま、蓮は口を開く。

『どんなに隠して繕っても、あいつは俺のことを知ってる』

ゲイである自分を受け入れられないくせに、欲望だけは一人前に膨れ上がって、あの男と一緒になって蓮を食い殺した。

『…俺が、男に抱かれるために何でもできるってこと』

歯を食いしばって絞り出した言葉を、蒼生は目をそらさずに受け止めた。

包むように握られた指先は、今は二人分の体温が混ざり合って熱い。

不意に、彼の瞳の光が揺らぎ、涙があふれてこぼれた。言葉もなく、息を震わせて蒼生が泣いていた。

蒼生の涙は温かなまま蓮の手の甲に流れ落ち、心の一番冷たくて暗い場所を溶かす。

『蒼生?』

初めて彼の名前を呼んだ。今まではそんな必要はなかったのに。

顔を上げた蒼生は、自分でも理由を測りかねたような目をしている。

なんの涙だろうか。彼に泣く理由はないはずだった。

遊びのつもりで構っていた同級生の、青臭い過ちへの同情だろうか。

放っておいてくれていいのに。俺なんかのために、泣く必要ないのに。

かわいそうな蒼生。

ーーかわいそうな、俺。

次の台詞は蓮の筈だったのに、代わりに視界が急に揺らいだ。

(ーーだめだ)

思う間もなく、頬を涙が伝った。蓮の涙は脚本にはない。言うべき台詞は胸の奥でつかえて消える。

脚本を離れてしまっているというのに、なぜかカットの声は聞こえない。

蒼生が両手を伸ばし、蓮の頭を胸に抱きかかえる。その腕の温かさに、また泣けてくる。

『なんだよ、泣くなよ』

耳元で彼の声が聞こえる。

小さな子どもをあやすような優しい声。蓮はその抗いがたい心地よさに目を閉じた。


「カット、一回チェックします」

メガホン越しの上原の声に、万尋は目を開けた。

龍臣は万尋の頭に回していた腕を解くと、万尋の顔を覗き込んだ。何か言いたげなその表情に耐えられず、顔を背ける。

「ーーごめん」

それだけ言ってセットを離れると、メイクのスタッフが慌てて飛んできた。おそらくすぐに撮り直しになるだろう。

ディレクターズチェアに座らされ、されるがままに身を任せる。モニターを見る勇気はもちろんなかった。

「はい、オーケーです」

監督の声に耳を疑う。

台詞も芝居も何も脚本通りにいかなかったのに、一体何が起きたんだろうか。

「では本日撮影のシーンは以上になります。お疲れ様でした!」

ADが声を張る。

メイク直しの必要がなくなり、スタッフが離れる。見回すと、いつの間にか近くに立っていた上原と目が合った。反射的に立ち上がる。

「ーーすみませんでした」

「いや、良かったよ」

いつものごとく感情の読み取れない顔でそれだけ言うと、上原は背中を向けてADに指示を出しに戻っていった。

彼の背中の先で、龍臣の視線とぶつかった。

尚も何か問うような目に耐えきれず、万尋はスタジオを後にした。


※※※


最後のシーンの撮影直前にスタジオに入っていた藤枝と合流し、地下の駐車場で黒のセレナに乗り込む。

助手席にはかなり初期から座ることは許されておらず、後部座席に身を沈めた。

龍臣とこの座席に並んで座ったのがたった一日前とは信じられなかった。

一体、どこで間違ってしまったんだろうか。ほんの少し気の合う、ただの共演者だった筈なのに。

いつの間にか暗くなった空を見上げる。自然とため息が口をつく。

零との距離感を間違えて炎上して、カメラが回っているのに芝居にならなかった。

俳優としての才能なんて大してないことははじめから分かっている。それでも脚本を読み込んで自分の芝居をチェックして、台詞一つの意味を考えて必死に食らいついて、積み重ねてきたのに。

「…藤枝さん」

ハンドルを握る藤枝が少し振り向いた。

運転席越しに赤信号が見える。

「すみませんでした。今日は」

SNSの炎上にせよ、現場での醜態にせよ、この有能なマネージャーの期待を裏切ってしまった自覚があった。

「動画のこと?あれはほとんど不可抗力だから」

「最後のシーンも、全然ちゃんとできなくて」

「…今日のシーン、良かったよ」

藤枝は前を向いたままいつものトーンで淡々と言う。

「君のプラン通りじゃなかったとは思うけど」

良かった、という上原と同じ言葉はすぐには信じがたかったが、藤枝がお世辞を言うタイプではないことも分かっていた。

「…俺、俳優続けられるかな」

「続くかどうかは結果論だから」

今度はいかにも彼らしい率直さで、万尋は思わず笑う。

「でも、僕は君の芝居のファンだよ」

相変わらず前を向いたまま藤枝が言う。

信号が青に変わり、セレナが緩やかに発進した。

「…ありがとう」

万尋は撮影中に壊れたらしい涙腺を何とか締め付けて、ようやくそれだけ呟いた。


※※※


「カット、もう一回」

撮った映像をチェックすることもなく、上原が冷徹に宣言する。

これで何度目のテイクだろうか。スタッフのため息が聞こえるようだった。

クライマックスの二人のシーンで、蓮が蒼生にキスをするカットが全く噛み合わず、万尋と龍臣はNGの山を築いていた。

時間は撮影終了予定だった21時をとうに回っている。

「すぐに本番いきます」

モニターをチェックすることも許されず、二人は立ち位置に着く。

カチンコの乾いた音が静かなスタジオに響く。

「はい、スタート」

監督の上原の声で芝居が始まる。


二人きりの部屋で、蓮と蒼生が向き合う。蒼生が蓮に向けていた憐れみが、このシーンで反転し、共依存めいた二人の捻れた絆の強さが浮き上がる。筈だった。脚本上は。

『…俺は大丈夫だよ』

世界を広げていく蓮を尚も庇護しようとする蒼生を、蓮がたしなめる。

『もう、心配しないでいいから』

蒼生が蓮を見上げる。

蒼生にとってその言葉は、決別を宣告されたも同然だった。

ただの友達でも恋人でもない自分が、蓮の側にいられるのは、表向き優等生の彼が抱えるセクシャリティへの煩悶や根深い自己嫌悪を全て引き受けていたからこそだった。

そうして自分にだけ本当の姿をさらけ出して何とかバランスを取る蓮を、ずっと憐れだと思っていたのに。

ーーもう、いらないのか、俺なんか。

蒼生は縋り付くように蓮のシャツを掴み、胸に顔を埋めた。

『蒼生?』

耳元で名前を呼ばれる。

返事はできない。

『お前最近、泣いてばっかりだな』

蓮はそんな蒼生の髪を撫で、震える肩を抱きとめた。

小さな子どもをあやすような、優しい抱擁だった。

『…かわいそうな奴』

しばらくそうして彼の嗚咽が収まるのを待ってから蒼生の頬を包み、涙の跡に触れる。

蒼生は蓮のそんな仕草の意図が掴めず、彼の瞳を覗き込んだ。

蓮はもう一度蒼生の目尻の涙に触れると、そのまま何も言わずキスをした。


「カット、一旦チェック」

上原のチェックを待つまでもなかった。このテイクもさっきまでと何も変わらず、手応えはまるでない。

万尋はため息をついてセットを離れ、監督とは距離を置いてモニターを見つめる。

蓮の台詞は上滑りしてただ耳を通り過ぎていき、蒼生の涙は安っぽかった。

お互いが言葉にしない思いを秘めているシーンで、二人のトーンが明らかに噛み合っていない。

そうしてその噛み合わない理由も、万尋には分かっていた。

「ごめん、ちょっといいかな」

上原が二人を呼ぶ。

どれだけ役者の芝居が彼のイメージに背いていても感情を表に出さないのは上原の美点と言えるが、その分声音は冷え切っていた。

「二人とも全然、何をしてるか分からない」

穏やかな口調で、一刀両断に切り捨てられる。

「このシーンについては台詞にはほとんど意味がないって、分かってるよね?」

滔々と諭す上原に、頷くこともできず、万尋は立ち尽くす。

「ここに至るまでのお互いの心情を、もう一度確認してきてください」

普段は使わない敬語になるのも、逆に彼の憤りの大きさを感じさせた。

「明日の朝一で撮り直すから」

上原の言葉に、傍らで聞いていたADや他のスタッフが目配せするのが分かった。

明日は元々早朝から夜までスケジュールが組まれている。朝にもう一つカットをねじ込めば、しわ寄せが多方面に及ぶことは明白だった。

「…分かりました」

万尋と龍臣が異口同音に答えると、上原は頷いてADに向き直ると、振り向くことなくスタジオを出て行った。


※※※


演技の見直しを命じられ、万尋と龍臣はスタッフが用意してくれた打ち合わせ室に向かう。

今日は二人ともマネージャーは帯同しておらず、結果的に迷惑を掛けずに済んだことは幸いだった。

他に人気のない廊下に、二人の足音だけが響く。並んで歩いていてもお互い違うことを考えているような沈黙が居心地が悪かった。

「俺、こんなにNG出したの初めて」

ぽつりと龍臣が呟く。

それは万尋も同じだったが、何も言わずに歩を進める。

「なんかヤバいんだよな、最近」

龍臣は構わず続ける。

「吉住監督の映画も、全然自信なくてさ」

その不安は、万尋にはよく分かった。

デビュー直後の、素人にしては上手いというだけで許された時とはもう訳が違う。

初めて主演という肩書を与えられた今回のドラマも、同時並行している映画も、これまでの現場とは全く違った緊張感があった。

いつの間にか追いつかれて、もしかしたら追い抜かれているかもしれない周囲からの評価と期待に、応えられるかどうかのギリギリの線を綱渡りしている気分だった。

「オーディション受かって不安なんて、今までなかったのにな」

いつになく気落ちした龍臣の様子に、段々と胸の奥が揺さぶられる感覚があった。

クランクインしてからこっち、現場で彼がこんな弱音めいたことを言ったことはない。

ーーどうして、そんな話俺にするんだ。

誰にでも下の名前で呼ばれる人気者のくせに。ただの愚痴なら聞いてくれる奴、山ほどいるのに。

なんでそうやって、お前らしくない弱音なんか吐いたりするんだ。俺といる時にだけ。

どうしようもない苛立ちは、もちろん言葉にすることはできず、万尋はため息をついた。

「どうかした?」

「…別に」

怪訝そうにこちらを見上げる龍臣の視線をかわして、それだけ呟いた。


※※※


用意された打ち合わせ室は、長机2台と折りたたみ椅子が6脚置かれただけの狭い部屋だった。

撮り直しのシーンはベッドに腰掛けた芝居なので、とりあえず机を壁際に寄せ、椅子だけ並べてみる。

蓮と蒼生の、ここに至るまでの心情を確認してこいという監督のオーダーだったが、どうすれば二人の芝居が噛み合うのか、今の万尋には見当もつかない。

椅子に座り、形だけ台本を開いてみるが、視線は台詞の上を滑って全く像を結ばなかった。

「読み合わせしてみる?」

万尋の提案に龍臣は一応は頷いて隣の椅子に座ったが、何か別のことを考えているような顔で、すぐには台本を開こうとしない。

「…あのさあ」

しばらくして龍臣が切り出す。前を向いたまま。

「この前、なんで泣いた?」

言い訳を用意しておかなかった自分の迂闊さを悔やんだが、もう遅かった。

普通なら、役の感情で自然に泣けたとかなんとか言えばいいのに、他ならない彼にそんな見え透いた言い訳は通用しないだろう。

「…なんでそんなこと聞くの」

質問には答えず聞き返す。悪あがきと知りながら。

「クランクインからずっと、積み重ねてきたものがあのシーンで急に崩れた。そうだろ?」

龍臣が隣の万尋に視線を向ける。

万尋はその視線を受け止めることができない。

「その理由が分からないと、明日もすれ違うだけだ」

切々と龍臣が訴える言葉は、万尋が一番分かっていることだった。

大事なシーンはいつも、二人で意見を出し合って準備をした。そうやって、お互いがお互いの唯一の理解者である蓮と蒼生を作り上げてきた。

クランクインから、決して短くない時間を費やして形にしてきたものを、壊したのは自分だ。そんなことは、分かりきっていた。

『共演者にいちいち引っかかってたら、俳優なんてできないし』

零の言葉は正しい。

「…無邪気でいいよね」

「え?」

万尋の呟きに、龍臣が目を細める。万尋は今度はその視線を正面から受け止める。

「元々気の合わない共演者と無理して距離詰めて、上手くいってたつもりだったのに、ごめんね」

「何言ってんだ、お前」

龍臣が気色ばむ。

彼がこんな風に声を荒げるのを見るのは初めてだった。

そんな龍臣の姿は、同時に万尋の歪みを映して突きつけた。なんて醜いんだろう。自分の混乱を相手に押し付けて、傷付けて。

誰にでも好かれることも共演者との信頼を築くことも、彼の持つ多くの美点の一つに過ぎないのに。

それが自分だけのものにならないからって、子どもみたいに駄々をこねて。

でも、もう自分ではどうにもできなかった。

「ーーその分からない気持ちで泣けばいい」

万尋の言葉の意味を測りかねて、龍臣が眉を寄せる。

「俺のこと分かりきったつもりだったのに、全然遠くて途方に暮れる気持ちで泣けよ」

自分では予想もしなかった言葉が口をつく。

「『…かわいそうな奴』」

万尋のその呟きに龍臣は一瞬息を止めて、傷ついたみたいな目で万尋を睨んだけれどそれだけだった。

ーー最低だ、こんなやり方。

分かっているのに、万尋の指は勝手に動いて龍臣の頬に触れた。

龍臣は身動きできないまま、万尋の真意をその瞳の奥から探ろうと試みる。

しばらくの努力はしかし徒労に終わり、龍臣の表情に落胆の色が広がっていく。

そして苦しそうに顔を歪めたかと思うと、こらえきれず瞳から涙が溢れた。

万尋の胸に渦巻く苛立ちも憐れみも、自分に向かうものか龍臣に向けたものか分からないまま、その境界は曖昧に溶けていく。

ただ手の中には彼の涙だけがあった。

その引力に抗えず、万尋は龍臣にキスをする。シナリオ通りに。

唇は冷たく、微かに涙の味がする。

しばらくその感触を確かめて、離れる。

束の間、息の触れる距離で見つめ合い、もう一度唇を重ねた。

龍臣は何も言わずただ息を震わせて、万尋の唇を静かに受け止めた。

一体誰にキスしてるんだろうか。万尋の頭は混乱する。

蓮が、蒼生に?

違う。

俺が、キスしたかったんだ。他でもない、目の前の男に。

「…万尋」

初めて名前で呼ばれて、その響きの甘さに頭の芯が痺れた。息ができない。苦しい、苦しい。

なんで今更呼ぶんだ。そんな風に。

万尋は龍臣の肩を掴んで体を引き離す。

まだ涙を湛えたままの龍臣の視線から逃れ、立ち上がりドアを開ける。

背中に呼び止める声が聞こえたが、振り返ることはできなかった。


※※※


次の日の朝、撮り直したシーンは一発でオーケーを取った。

万尋は昨日の出来事は夢かと龍臣が疑うほど何もなかった風に振る舞っていたが、目が合うとすぐ逸らされたので、やはりあれは現実だったらしい。

そんな調子で元の鉄面皮を被り直した万尋はカットがかかるとすぐに龍臣を避け、声を掛ける隙もないままクランクアップを迎えた。

万尋は龍臣と並んで花束を貰い、殊勝でありきたりな挨拶をして、龍臣にマイクパフォーマンスめいた感謝の言葉を掛けて(実際メイキングのカメラが回っていた)、それで全部終わりだった。

一度だけ、あの雨の夜に借りたままになっていた服を返したいと送ったLINEは、予想通り既読はつかず、トークは沈黙したままだ。

ーー忘れた方がいいということは分かりきっていた。

共演者にいちいち深入りしてたらきりがない。相手が特別な感情でいるならなおさら。

そう頭では思うのに、撮影の待ち時間や一人の楽屋で、龍臣の脳裏には万尋のマンションに行ったあの夜のことが浮かぶ。

豪雨に閉ざされて逃げ込んだ二人きりの部屋で、聞かれてもいないのにこれまで誰にも言うことのなかった本心を打ち明けた、あの訳もなく居心地のいい時間。

どうしたらいいか分からないまま、ただ頭の中には自分自身を嫌いだと言った彼の、諦めとも悲しみともつかない透徹した眼差しがあった。


※※※


6月の東京の空は、龍臣の心中を映したかのように暗く重い。

運転席の脇の液晶モニターでは情報番組のお天気キャスターがどうやら先週から梅雨入りしていたらしいと告げていた。

龍臣はそんな間の抜けたニュースを聞き流しながら、マネージャーの石野が運転するワゴンの後部座席に身を沈め、窓の外の冴えない景色を見るでもなく眺めていた。

万尋と龍臣のドラマの最終回は、視聴率も見逃し配信の再生回数もこれまででトップの数字を取り、それと前後して送迎車の助手席に座ることはできなくなっている。

事務所ビル付近で追いかけられた後も、プライベートや移動中に街中で声を掛けられることが続き、握手を求められるだけならまだいいが、動画を回されたりそのまま着いて来られたりして慌ててタクシーに乗り込んだことも何度かあった。

ドラマ放映中にはこれから製作開始するドラマのレギュラー役のオファーが何件かあり、そのうちのいくつかはスケジュールやイメージが合わず、石野とも相談して初めて断っていた。

それでも万尋とのドラマのクランクアップの次の週には新しい現場に入り、複数の現場を掛け持ちするというこれも初めての経験をしていた。

ほんの一年前までには考えられなかった環境の変化に、龍臣はまだ慣れないままでいる。

オファーで仕事を貰うことはこの仕事を始めた頃から目標にしていた一つだったのに、もう以前のように無邪気に喜ぶだけでは居られなくなっていた。

モニターの情報番組がエンタメコーナーに変わる。レポーターが映画の撮影現場に潜入するという企画で、テロップに見覚えのあるタイトルが表示されたかと思うと、万尋と主演の俳優が映し出された。

撮影の待ち時間らしい二人は椅子に並んで座り、万尋はリラックスした笑顔で共演者と掛け合いながらリポーターの質問に答えていた。

あの夜、スタジオの打ち合わせ室で彼が見せた懊悩など欠片も感じさせないその屈託のない笑顔は、龍臣を苛立たせた。

「永瀬さんも好調ですね。来年の大河、主人公の息子役のオーディション決まったみたいですよ」

モニターを見た石野が口を開く。

「…マジかよ」

石野の言葉に、龍臣の胸には純粋な驚きと当然の嫉妬と、そして不可解な寂しさが浮かぶ。

そんな大きなオーディションを受けているなんて、彼は一度も言わなかった。

「ああ、オーディションといえば」

石野は龍臣の複雑な心中には気付かないまま、話題を変えた。

「志村さん、舞台決まりましたよ」

志村とは颯人のことだ。颯人とはあの事務所で会った日以来、メッセージのやり取りもしていない。

「…あいつ、映像作品にこだわってたのに」

颯人はこの世界に入ったのは映画俳優になるためだと早々に宣言し、オーディションを受けるのも映像作品に絞っていた筈だった。

「社長のアドバイスを聞くことにしたみたいです。出番も上演回数も多いんで、今必死にトレーニングしてますよ」

石野が語る颯人は、あの日とはまた違う印象だった。

あのままてっきり、事務所も役者も辞めてしまうかと思っていたのに。

あの日途絶えたように思えていた颯人との関係が、ほんの一筋の光で繋がる。

龍臣はなぜか泣きそうになるのをこらえて窓の外の雲を見上げる。

こんな気持ちを唯一話すことができた相手は、まだモニターの中で呑気に笑っていた。


※※※


「龍臣、久しぶり」

スタジオの廊下で、零の明るい声がして振り向いた。

今日はドラマのDVDの特典映像に収録されるビジュアルコメンタリーを撮影するため、久々にテレビ局の撮影スタジオに来ていた。

事前に石野から、主要キャストの4人と監督の上原が集まって撮ると聞いて、万尋と二人きりでないことに内心ほっとしていた。

「おお、MVめちゃくちゃ良かったじゃん」

「えー見てくれた?あの曲凄いいいでしょ」

零はヒットチャート上位常連の人気バンドの新曲MVに抜擢され、曲のヒットと相まって動画サイトで彼女の顔を見ない日がない。

映像ディレクターがドラマを見て零を起用したらしく、楽曲の世界観にマッチした零の演技はMVのコメント欄でも評価されていた。

零と連れ立ってスタジオに足を踏み入れる。

先に来ていたらしい長身の人影が立ち上がり、龍臣は自分の心拍数が一気に上るのを感じる。

「出た、大河俳優」

「やめてよ、それ」

零が冗談っぽくはやすと、万尋が笑ってみせる。そのなんの翳りもない笑顔は、社用車のモニターで見た万尋と同じくらい遠く思えた。

「そんなオーディション受けてたなんて、ぜんっぜん聞いてなかったけどね」

「言えないでしょ、それは」

「龍臣は?聞いてたの?」

話題を振られて顔を上げる。万尋とも目が合うが、彼は表情一つ変えず、まっすぐこちらを見ていた。

「…俺も全然聞いてない」

「あんなに仲良かったのに?薄情だよね」

「そういうやつだよな」

精一杯平静を装って、零のノリに乗っかる。まるで顔合わせの時に戻ったかのような白々しさだった。

「お疲れ様です」

「すみません、遅くなりましたー!」

そうこうする内に綾香と上原もスタジオ入りし、撮影準備にスタッフが動き始める。

大型のモニターの前に二人掛けのソファが3台並べられ、正面に万尋と龍臣、隣に零と綾香、反対側に上原が座るよう指定される。

龍臣は肩や膝が万尋に触れることのないように身を固くして座った。

ビジュアルコメンタリーは、ドラマ最終話を全員で見ながら同時にコメントを収録するというものだった。

モニターの前にはローテーブルが置かれ、全員のリアクションを撮るためのカメラが人数分据えられている。

ーーよりによって。

ここで万尋と並んで、あの最終話を見なければならないということが憂鬱で仕方なかった。

いつもならオンエアはできる限りリアルタイムで、それが難しければ録画で必ずチェックする龍臣だったが、最終話は未だに見れずにいた。

あれが果たして演技と呼べる代物だったのか、未だに確信が持てなかった。

そんな龍臣の心中には構わず、スタジオの照明が絞られ、モニターにオープニングが映し出される。


冒頭からしばらく、キャンパスのシーンが続く。

モニターに映る明るい大学の食堂は、いつか龍臣と二人で行ったときと同じように、まだ春の気配が残る柔らかな陽の光が差し込んでいる。

「でもなんか、本当にキャンパスライフって感じだったよね」

「分かる。実生活で大学生やってないから、その分こっちがリアルみたいな」

零と綾香が懐かしむように言い合う。その会話に、そう言えば万尋も大学生活を知らずにこの世界に入ったと言っていたことを思い出す。

「青春やり直しさせてもらった感じ?」

「ね、楽しかった」

二人のやり取りは、龍臣にとっては新鮮な視点だった。青春やり直し。そんなところなのだろうか。万尋が迷い込んだのも。

隣の万尋は身じろぎもせずモニターに見入っていて、表情は伺えない。

ストーリーは進み、蓮のアパートのシーンに差し掛かる。

キャンパスとは対照的に、暗く、張り詰めた空気が漂う。

「このシーン、凄い覚えてる」

零がモニターを指さす。

「本当は蒼生だけ泣くのに、蓮も泣いちゃって、NGかなと思ったらそのままOKで」

見たくないと思うのに、モニターから目を離すことができなかった。あの日何が起こったのか、見定めなくてはならないという気持ちもあった。

『どんなに隠して繕っても、あいつは俺のことを知ってる』

『…俺が、男に抱かれるために何でもできるってこと』

万尋の演技は、龍臣のよく知る蓮だった。

ここまでは。

それまで冷淡で本心を明かすことのなかった蓮が、初めて弱くて柔らかい心の内を蒼生にだけ見せる。

その悲痛な独白に、蒼生は揺れる。彼が、あまりにも愚かで、憐れで、愛おしかった。

『蒼生?』

万尋が初めて蒼生の名前を呼ぶ。

思いがけず甘い響きに、蒼生はまた涙する。

はじめは蒼生の涙の理由を探るように見つめていた蓮の瞳が、音もなく揺らいだ。

龍臣は身じろぎもできず目の前の映像に見入る。

モニターの中で、彼が泣いていた。

心の内の混乱を洗い流すように。

聖職者の前で告白する罪人のように。

龍臣は混乱する。

ーーこれは、誰の涙だ。

蓮の?それとも、万尋の?

『なんだよ、泣くなよ』

蒼生がそっと手を伸ばし、彼を抱きとめる。

憐れみは反転して、共鳴する。

お互いにしか見せない顔がある二人なのに、その心の内は分かり合うことができない。

それでも、この瞬間、二人の流す涙は同じ色をしている。

なんの打算も偽りもない、純度の高いその涙から、目が離せなくなる。

「龍臣?」

万尋の声がして顔を上げると、驚いたように見開かれた目とぶつかる。

何も演じていない彼の目を見たのはいつ以来だろうか。

テーブルの上にあった箱ティッシュを万尋が手に取って差し出してきて初めて、龍臣は自分が泣いていることに気付いた。

「龍臣、大丈夫?」

「思い出して泣いちゃった?」

綾香と零が向けてくる視線から逃れるように乱暴にティッシュで涙を拭った。

「これ、もちろんNGにもできたんだけど」

それまでほとんど黙っていた上原が静かに口を開いた。

「画が綺麗だったから、どうしても残したくなったんだよね」

そう、とても綺麗だった。

どんなメソッドも用いることなく生み出された二人の姿は、犯しがたい静謐さをまとい、龍臣の胸を打った。

撮影前に思い描いたシーンとはかけ離れているのに、自分の役者としての度量を超えた画になったことは間違いなかった。

「…俺も好きです、このシーン」

辛うじてそれだけ言った。

「分かる、私も好き」

零と綾香が頷く。その反対側で隣の共演者がどんな表情でいるのか、龍臣にはもう見上げる勇気はなかった。


※※※


収録が終わり、照明が上がると、スタッフが慌ただしくセットを片付け始める。

結局あの後のシーンは心ここにあらずで、最後のキスシーンもぼんやり眺めただけで終わった。

「お疲れ様」

「お疲れ様でした」

「龍臣、この後仕事?」

廊下に出ようとする龍臣を、零が呼び止めた。

綾香と万尋は先にスタジオを後にしていて、中原は残ってスタッフと何事か打ち合わせている。

「ああ、事務所で打ち合わせ」

「そっか。時間あったらみんなでお昼食べない?」

「いや、マネージャーが迎えに来るから」

そう言ったのは半分本当で半分嘘だ。

マネージャーの石野はここからすぐのテレビ局に営業に行っており、龍臣の収録が終わったら電話をして車を回してもらう約束だった。

「そっか。じゃあまた今度」

「ああ」

零と連れ立って廊下に出ると、エレベーターの手前に万尋と綾香の姿があった。

万尋は後ろ姿だったが、綾香の笑顔から二人が何か親しげにやりとりしていることが分かる。

綾香が、手に持っていた小さな紙袋を万尋に手渡した。

可愛い女子の専売特許のようなその紙袋は、少なくない好意が込められているようにも見える。

「…あの二人、仲いいの?」

「え?どうかな。特別やり取りしてるとかは聞いたことないけど」

零が首を傾げる。

万尋と綾香は、紙袋の中身を覗き合う。万尋が何か言い、綾香が笑う。

俺には能面みたいな無表情のくせに、他のやつと何をそんなに楽しそうにできるんだ。

龍臣ははっきりと苛立つ自分を自覚する。

ーー結局、忘れることなんてできなかった。

ただの共演者でいられなかったのは自分の方だ。キスされて、逃げられて、面倒くさかったらそれで終わりにすれば良かったのに。

気がついたら廊下の床を蹴り、走り出していた。背中に零の声がしたが、もう振り向かない。

まっすぐに万尋の側に駆け寄り、驚く二人に構わず黙って万尋の手を掴んだ。

「龍臣?」

万尋は何が起こっているか分からない様子で名前を呼んで、でも手を振りほどこうとはせずついてきた。

エレベーターの前を通り過ぎ、階段で2フロア上の7階に登る。

廊下の突き当たりの扉を勢いよく開けて、外階段の踊り場に出ると背中で扉を閉めた。

2階分の階段を一気に駆け上がったせいですっかり息が上がり、手すりにもたれてしばらく動けない。

「龍臣、何やってるの」

同じく荒い息をつきながら、呆れたように万尋が言う。

「お前が無視するからだろ」

この期に及んで平静ぶる万尋に腹が立つが、彼の目を見るとさっきまでの能面は取り払われ、久しぶりにまともに目が合った。

「…お前、あいつのこと好きなの」

「なんでそんなこと聞くの」

万尋にまたも聞き返され、龍臣は苦笑する。

「お前は一生俺の質問に答えないよな」

手すりにもたれたまま空を仰ぐ。

とっくに梅雨明けした初夏の青空は潔く晴れて眩しい。龍臣はその乾いた空気を吸い込んで、口を開く。

「…気安く名前呼ばせんなよ」

「誰にでも呼ばせてる奴に言われてもね」

子どもじみた注文に今度は万尋が笑う。

「俺とお前じゃ訳が違うだろ!」

「何その理屈」

以前の二人のような、打ち解けたテンポの会話が続く。

でも、もう元のままじゃない。

「…万尋」

ふと、名前を呼ぶ。あの夜と同じように。

不意を突かれた万尋は龍臣を見つめたまま一度笑おうとして上手くいかず、顔を歪めた。

龍臣は迷わず手を伸ばして彼の震える肩を抱き止める。

「俺たち、泣き過ぎだな」

肩口に万尋の吐息を感じながら呟く。

「今度お前の家また行っていい?」

万尋が無言で頷く。 

「LINEちゃんと返事よこせよ」

こくこくと、彼が頷くたびに頬に柔らかな黒髪が触れる。

「…俺のこと好き?」

その髪を撫でながら龍臣は訊ねる。万尋は答える代わりに額を深く肩口に顔を埋めた。

「俺も」

感じる二人分の動悸は痛いくらいで、龍臣は彼のその鼓動を一つも聞き流すまいと、もう一度強く彼を抱き締めた。



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