第九話:久しぶりのデート、埋まらない距離
書店での、あの気まずい遭遇から数週間。俺と弥生さんの関係は、表面上は元通りになったように見えた。毎日のメッセージや電話は欠かさず、週末にはデートもする。彼女はいつもと変わらず優しく、俺の夢を応援してくれている。俺も、彼女への愛情を、以前にも増して強く感じていた。
だが、俺たちの間には、あの出来事が残した、見えないけれど確かな溝のようなものが、横たわっている気がしていた。
佐伯先輩に言われた「将来性がない」「身の丈に合っていない」という言葉。弥生さんは「気にしないで」と言ってくれたけれど、俺の心には、その言葉が棘のように突き刺さったままだった。
(俺は、本当に弥生さんにふさわしいのだろうか……?)
(いつか、彼女は俺に愛想を尽かして、もっとちゃんとした大人の男性を選んでしまうのではないだろうか……?)
そんな不安が、常に頭の片隅にある。だから、彼女の前で、素直になれない自分がいた。もっと甘えたい、もっと頼りたい、という気持ちとは裏腹に、「俺は大丈夫だ」「ちゃんとやっている」と、無理に強がってしまう。年下の彼氏として、少しでも頼りがいのある存在に見られたかったのだ。
執筆活動も、どこか空回りしていた。コンテストへの応募を目指して、新しい作品に取り組んではいるものの、なかなか思うように筆が進まない。焦りばかりが募っていく。その焦りを、弥生さんに悟られたくなくて、つい「順調だよ」なんて嘘をついてしまうこともあった。
そんな、互いにどこか本音を隠し、微妙な距離感を保ったまま、俺たちは久しぶりに丸一日使ってのデートをすることになった。場所は、弥生さんが「気分転換に行きたい」と言った、少し郊外にある、緑豊かな大きな公園。秋晴れの空の下、ピクニックでもしよう、ということになったのだ。
俺は、朝から少しだけ気合を入れて、お弁当を作った。と言っても、得意の(?)カレーではなく、卵焼きと、ウィンナーと、ブロッコリーを詰めただけの、簡単なものだ。弥生さんの手料理には到底敵わないけれど、少しでも彼女に喜んでもらいたかった。
公園の入り口で待ち合わせると、弥生さんは、ふわりとしたベージュのロングスカートに、白いブラウスという、秋らしい、上品な服装で現れた。その姿は、やはり息をのむほど綺麗で、俺の心臓がまたドキリとする。
「ごめんね、待った?」
「いえ、俺も今来たとこです」
自然な笑顔で会話を交わす。でも、どこか、ほんの少しだけ、ぎこちなさが残っているのを、互いに感じていたのかもしれない。
公園の中を、ゆっくりと並んで歩く。色づき始めた木々の葉が、陽の光を浴びてキラキラと輝いている。空気は澄んでいて、気持ちがいい。
他愛のない会話をしながら、芝生の広場を見つけて、レジャーシートを広げる。
「わあ、航くん、お弁当作ってきてくれたの? ありがとう!」
俺が作った、ささやかなお弁当を見て、弥生さんは心から嬉しそうな顔をしてくれた。その笑顔に、俺の心も少しだけ和む。
二人で、お弁当を広げて食べる。外で食べると、簡単なものでも美味しく感じるから不思議だ。弥生さんが作ってきてくれた、温かい紅茶も、体に染み渡るようだった。
「航くんの卵焼き、美味しいね。ちょっとだけ、甘いのが好き」
「本当ですか? 良かった……」
彼女に褒められて、顔が熱くなる。
食事を終え、シートの上に寝転がって、流れる雲を眺める。隣には、弥生さん。彼女も、同じように空を見上げている。その横顔は、穏やかで、美しい。
手を繋ぎたい。肩を抱き寄せたい。そんな衝動に駆られるけれど、なぜか、その一歩が踏み出せない。彼女も、どこか遠慮しているような気がする。
(……どうして、こんなにぎこちなんだろう……)
以前は、もっと自然に触れ合えていたはずなのに。あの夜、確かに一つになったはずなのに。
その事実が、逆に、俺たちを臆病にさせているのだろうか? 関係が変わってしまったことへの、戸惑い?
「……弥生さん、仕事、最近どうですか? 忙しいって言ってましたけど……」
沈黙を破るように、俺は尋ねた。
「……うん、まあ、相変わらずかな。でも、少しずつ慣れてきたよ。……航くんは? 大学、楽しい?」
「はい。サークルも講義も、面白いです。……執筆も、まあ、なんとか……」
嘘をついた。本当は、全然「なんとか」ではなかったけれど。
そんな、当たり障りのない会話が、ぽつりぽつりと続く。
互いに、相手を気遣い、踏み込んだことは聞かないようにしている。それが、かえって距離を生んでいることに、気づきながらも、どうすることもできない。
やがて、陽が傾き始め、公園を後にする時間になった。
帰り道も、やはりどこかぎこちない空気が流れていた。手を繋ぐこともなく、ただ隣を歩くだけ。それが、たまらなく寂しかった。
駅まで送っていくと、彼女は「今日はありがとう。楽しかったよ」と、笑顔で言ってくれた。でも、その笑顔は、どこか寂しげに見えた。
「……俺も、楽しかったです」
俺も、精一杯の笑顔で答える。
電車がホームに入ってくる。別れの時だ。
「……じゃあ、また連絡するね」
「はい。……弥生さんも、無理しないでくださいね」
「うん。……航くんもね」
ドアが閉まる直前、彼女が、何かを言いかけたように見えた。でも、結局、何も言わずに、ただ小さく手を振るだけだった。
走り去っていく電車を見送りながら、俺の胸には、虚しさと、そして切なさが込み上げてきた。
楽しかったはずのデート。でも、何かが足りない。
俺たちは、一体、どこですれ違ってしまったのだろうか。
この、埋まらない距離を、どうすれば縮めることができるのだろうか。
答えが見つからないまま、俺は、重い足取りで、一人、家路につくのだった。
*
久しぶりの、航くんとの一日デート。すごく楽しみにしていたのに、私の心は、朝からずっと落ち着かなかった。書店での、あの佐伯先輩との一件以来、私たちの間には、どこか見えない壁のようなものができてしまっている気がしていたからだ。
彼が、私のために一生懸命お弁当を作ってきてくれたのは、すごく嬉しかった。公園で、隣に寝転がって空を眺めた時間も、穏やかで幸せだった。
でも、何かが違う。
以前のような、無条件の安心感や、心が通じ合っているという確かな感覚が、薄れてしまっているような気がするのだ。
彼が、無理に明るく振る舞っているのが分かる。私に心配をかけまいと、執筆の悩みを隠しているのも、きっとそうだ。私の方も、仕事の疲れや、将来への不安を、彼に素直に打ち明けられないでいる。互いに、相手を気遣うあまり、本音を隠し、壁を作ってしまっているのだ。
(……どうして、こんな風になっちゃったんだろう……)
あんなにも、心を寄せ合い、身体まで重ねたはずなのに。その事実が、逆に私たちを臆病にさせているのかもしれない。関係が変わってしまったことへの戸惑い。そして、この幸せを失いたくない、という恐怖。
帰り道、手を繋ぐこともなく、ただ隣を歩くだけの時間が、たまらなく寂しかった。もっと、彼に触れたい。彼の温もりを感じたい。でも、その一歩を踏み出す勇気が出ない。彼も、同じように感じているのだろうか? それとも、もう、私に対して、以前のような気持ちはなくなってしまったのだろうか?
駅のホームで、別れの時が来た。
「じゃあ、また連絡するね」
本当は、「今夜、泊まっていかない?」と、言いたかった。でも、言えなかった。彼の負担になりたくなかったし、もし断られたら、と思うと怖かったのだ。
ドアが閉まる直前、彼が、何か言いたそうな顔で、私を見ていた気がした。でも、結局、彼は何も言わずに、ただ手を振るだけだった。私も、笑顔で手を振り返しながら、胸がきゅっと締め付けられるのを感じていた。
走り出す電車の中で、窓の外を流れる景色を見ながら、涙が溢れそうになるのを必死で堪える。
楽しいはずのデートだったのに、どうしてこんなに切ないのだろう。
私たちは、どこですれ違ってしまったのだろう。
この、埋まらない距離を、どうすればいいのだろう。
家に帰り着き、一人になった部屋で、私は、今日のデートを思い出していた。彼の笑顔、彼の優しさ、そして、彼のどこか寂しそうな瞳……。
彼もきっと、私と同じように、悩んでいるのかもしれない。
(……ちゃんと、話さなきゃ……)
このままじゃダメだ。ちゃんと、彼と向き合って、正直な気持ちを伝え合わなければ。たとえ、それで傷つくことになったとしても。
私は、スマホを手に取り、彼へのメッセージを打ち始めた。
『航くん、今日、ありがとう。……少し、話したいことがあるんだ』
送信ボタンを押す指が、震えていた。
私たちのラブコメが、ここで終わってしまいそうで。