第八話:招かれざる現実 ~年の差という名の壁~
週末、約束通り俺は弥生さんの部屋を訪れた。彼女が淹れてくれた温かい紅茶を飲みながら、他愛のない話をする。窓の外はもう暗くなり、部屋の中には柔らかな間接照明の光だけが灯っている。二人きりの、静かで、親密な空間。ただ隣にいるだけで、心が満たされていくのを感じる。
夕食は、彼女が腕によりをかけて作ってくれたオムライスだった。「航くん、好きかなって思って」とはにかむ彼女は、最高に可愛かった。もちろん味も格別で、俺はあっという間に平らげてしまった。食後は、ソファで寄り添いながら、彼女が選んだ恋愛映画を見た。画面の中の恋人たちの姿に、自然と俺たちの状況を重ね合わせてしまう。隣にいる彼女の体温、甘い香り、時折触れる柔らかな髪……。もう、映画の内容なんて、ほとんど頭に入ってこなかった。
映画が終わり、エンドロールが静かに流れる。部屋の中には、心地よい沈黙が満ちていた。俺は、隣にいる彼女の顔をそっと見つめた。照明に照らされた彼女の横顔は、吸い込まれそうなほど綺麗で……気づけば、俺は彼女の唇に、自分の唇を重ねていた。
驚いたように少しだけ目を見開いた彼女。でも、すぐにその瞳はとろりと潤んで、ゆっくりと瞼が閉じられる。彼女の腕が、俺の首にそっと回された。応えてくれた……! その事実に、俺の全身を熱いものが駆け巡る。
キスは、次第に深くなっていく。触れるだけの優しいものから、互いの想いを確かめ合うような、熱を帯びたものへ。彼女の柔らかな唇の感触、甘い吐息、そして、俺の背中に回された彼女の腕の力強さ……。全てが、俺の理性を溶かしていく。
もっと、彼女に触れたい。もっと、彼女を感じたい。
俺は、彼女の肩を抱き寄せ、さらに深く口づけを交わす。彼女もまた、それに答えるように、俺の体にすがりついてくる。もう、止まれない。止まりたくない。
どれくらいの時間、そうしていただろうか。
どちらからともなく、ゆっくりと唇が離れた時、俺たちの息は荒く、互いの顔は熱く火照っていた。見つめ合う瞳には、強い愛情と、そして、抑えきれないほどの欲求が映し出されている。
「……航……」
彼女が、掠れた声で俺の名前を呼ぶ。その声が、たまらなく色っぽくて、俺の心臓を鷲掴みにする。
「……弥生さん……」
俺も、彼女の名前を呼ぶのが精一杯だった。
もう、言葉はいらなかった。
俺は、彼女を抱きしめたまま、ゆっくりとソファから立ち上がり……そして、寝室へと向かった。彼女も、何も言わずに、ただ俺の胸に顔をうずめて、ついてきてくれた。
その夜、俺たちは、恋人として、本当に一つになった。
初めて知る彼女の柔らかな肌の感触、甘い声、乱れる呼吸……。そして、俺を受け入れてくれる、深い愛情。全てが、俺にとって、あまりにも眩しく、尊く、そして強烈な体験だった。
年の差なんて、もう関係ない。ただ、目の前にいる、愛しい人を、全身全霊で感じ、求め、そして満たしたい。その想いだけが、俺の中を支配していた。
*
翌朝。
カーテンの隙間から差し込む、眩しいほどの朝の光で、私は目を覚ました。隣からは、すうすうと穏やかな寝息が聞こえてくる。そっと視線を向けると、航くんの、まだあどけなさの残る寝顔があった。
(……夢じゃ、なかったんだ……)
昨夜の出来事が、まるで走馬灯のように、頭の中を駆け巡る。彼の熱い唇、力強い腕、私を求める真剣な眼差し、そして、一つになった瞬間の、どうしようもないほどの幸福感……。思い出すだけで、顔が、耳まで真っ赤になるのが分かる。
恥ずかしい。すごく恥ずかしいけれど、でも、それ以上に、満たされた気持ちでいっぱいだった。
私たちは、ついに、本当の意味で結ばれたのだ。
もう、彼は単なる「年下の彼氏」ではない。私にとって、かけがえのない、唯一無二の存在。私の全てを受け入れてくれた、大切な人。
そっと、彼の頬に触れてみる。少しだけ、ひげの感触。ああ、やっぱり彼は「男の人」なんだな、と改めて思う。その事実に、また胸が高鳴る。
彼の寝顔を、飽きることなく見つめていると、彼がゆっくりと瞼を開けた。
「……ん……やよい、さん……?」
寝ぼけ眼で、私の名前を呼ぶ声。それが、たまらなく愛おしい。
「……おはよう、航」
私が微笑みかけると、彼は一瞬きょとんとした顔をしたが、すぐに昨夜のことを思い出したのだろう。みるみるうちに顔を赤くして、慌てて視線を逸らした。
「お、おはようございます……!」
その初々しい反応が、また可愛くて、私は思わずくすくすと笑ってしまった。
二人で、少しだけぎこちないけれど、温かい朝食をとる。彼が淹れてくれたコーヒーは、少しだけ濃すぎたけれど、彼の愛情がたっぷり詰まっている味がした。
特別なことは何も話さなかったけれど、視線が合うたびに、どちらともなく照れてしまったり、ふとした瞬間に触れた指先に、ドキッとしたり……。部屋の中には、昨日までとは違う、甘くて、少しだけ気怠いような、それでいて確かな幸福感に満ちた空気が流れていた。
(……これが、本当に結ばれた、ということなのかな……)
満たされた気持ちと同時に、ほんの少しだけ、不安もよぎる。
私たちは、一線を越えてしまった。もう、後戻りはできない。
これから、私たちの関係は、どう変わっていくのだろうか?
年の差や、立場の違いは、より一層、重くのしかかってくるのではないだろうか?
でも、今は、そんな先のことを考えるのはやめよう。
ただ、この幸せな瞬間を、大切にしたい。隣にいる、彼の温もりを、信じたい。
「……航くん」
「はい?」
「……ありがとうね。……昨日は」
私が、顔を赤らめながら言うと、彼も、さらに顔を赤くして、でも、力強く頷いた。
「……俺の方こそ……ありがとうございます。……すごく、幸せでした」
その真っ直ぐな言葉に、私の心は、また温かいもので満たされていく。
*
あの、弥生さんの部屋で過ごした特別な週末から、数日が過ぎた。俺たちの関係は、明らかに新しい段階に入っていた。言葉にしなくても、視線や、触れ合う指先だけで、互いの深い愛情を確認できるような、そんな親密さが生まれていた。
だが、その一方で、俺の心の中には、以前にも増して、「彼女に釣り合う男になりたい」という想いが強くなっていた。あの夜、彼女の全てを受け止めた(つもりだ)ことで、彼女を守りたい、幸せにしたい、という責任感が、より一層強く芽生えたのだ。そのためにも、俺は、もっと成長しなければならない。小説家としても、一人の男としても。
そんな決意を新たにしていた、ある日曜日の午後。
俺たちは、都心にある少し大きな書店に来ていた。弥生さんが仕事で使う資料を探すのと、俺が新しい小説の参考資料を探すのを兼ねて。
広い店内を並んで歩く。以前よりも、自然と距離が近くなっているのを感じる。時折、彼女の柔らかな腕が、俺の腕にそっと触れる。その度に、あの夜の記憶が蘇り、心臓がドキリとする。彼女も、少しだけ恥ずかしそうに視線を逸らす。そんな、初々しいやり取りが、なんだかむず痒くて、でも嬉しい。
弥生さんが、デザイン関係の専門書コーナーで熱心に本を選び始めた。俺は邪魔しないように、少し離れた場所で新刊の棚を眺める。
と、その時だった。
「あら、桜井さんじゃない? 奇遇ね!」
聞き覚えのある、少し甲高い女性の声。振り返ると、そこには、以前にも書店で遭遇した、弥生さんの会社の先輩だという、佐伯さんという女性が立っていた。相変わらず、鋭い視線でこちらを見ている。
「あ、佐伯先輩! ご無沙汰してます!」
弥生さんは、一瞬だけ表情を硬くしたが、すぐに笑顔を作って挨拶をした。
「本当に偶然! 佐伯先輩も、何か探し物ですか?」
「ええ、ちょっとね。……あら? また一緒なのね、その……『大切な人』と?」
佐伯先輩の視線が、俺に向けられる。その言葉には、明らかに揶揄の色が含まれていた。
「……はい。私の彼氏です」
弥生さんは、今度は少しも怯むことなく、きっぱりと言い切った。そして、俺の腕に、誇らしげに自分の腕を絡ませてきたのだ。その、堂々とした態度と、腕に伝わる確かな温もりに、俺の心臓が、また大きく跳ねた。
佐伯先輩は、一瞬だけ、驚いたような顔をしたが、すぐに、また意地の悪い笑みを浮かべた。
「へえー、彼氏ねぇ。……まだ、続いてたんだ? 学生さんとのお付き合い」
その言葉には、明確な侮蔑の色が滲んでいた。俺は、カッと頭に血が上るのを感じた。この人は、なんて失礼なことを言うんだ!
「先輩には、関係ないことです」
弥生さんが、冷たく言い放った。
「あら、そう? でもねぇ、桜井さん。悪いことは言わないわ。そんな若い子と付き合ってても、将来性なんてないんじゃない? もっと、身の丈に合った、ちゃんとした大人とお付き合いした方が、あなたのためよ?」
佐伯先輩は、まるで親切心から言っているかのように装いながら、鋭い言葉を投げつけてくる。
将来性がない……。身の丈に合っていない……。
その言葉が、俺の胸に突き刺さる。図星だったからだ。俺自身が、一番気にしていることだったから。
俺は、何も言い返せない。ただ、唇を噛み締め、拳を握りしめることしかできなかった。情けない。本当に、情けない。
「……大きなお世話です」
弥生さんの声が、静かに、しかし、強い怒りを込めて響いた。
「彼の価値は、先輩が決めることじゃありません。そして、私たちの将来も、私たちが決めます」
「彼は、確かにまだ若いかもしれない。でも、私にとっては、誰よりも大切で、誰よりも尊敬できる、最高のパートナーです。彼の将来性を疑うなんて、心外です」
弥生さんは、俺の腕をさらに強く掴み、佐伯先輩を真っ直ぐに見据えて言い放った。その瞳には、一切の迷いも、揺らぎもなかった。
その、凛とした姿。俺を、全力で守ろうとしてくれる、その強い想い。
それに、俺は、心を激しく揺さぶられた。
ああ、俺は、なんて素晴らしい人を、好きになったのだろうか。
佐伯先輩は、弥生さんの気迫に押されたのか、あるいは、これ以上言っても無駄だと悟ったのか、「……ふん。まあ、せいぜい頑張ることね」と、捨て台詞を残して、今度こそ本当に去っていった。
後に残されたのは、少しだけ張り詰めた空気と、そして、俺の胸の中に込み上げてくる、熱い感情だけだった。
「……弥生さん……」
俺が、声をかけると、彼女は、ふっと息をついて、俺に向き直った。その顔には、まだ少しだけ怒りの色が残っていたが、すぐに、いつもの優しい笑顔に戻った。
「……ごめんね、航くん。嫌な思いさせちゃったね」
「い、いえ! 俺の方こそ、何も言い返せなくて……すみません……!」
「ううん、いいの。航くんは、気にしないで」
彼女は、そう言うと、俺の頬に、そっと手を添えた。その手の温かさが、心地よい。
「……でも、ありがとう」
「え?」
「……私のために、怒ってくれて。……すごく、嬉しかった」
彼女は、少しだけ照れたように、でも、心からの笑顔で言った。
「……俺、もっと頑張ります」
俺は、彼女の手を握り締めながら、誓うように言った。
「もっと強くなって、もっと頼りになる男になって……弥生さんのことを、ちゃんと守れるようになります。絶対に」
俺の言葉に、彼女は、一瞬だけ驚いたように目を見開いた。そして、次の瞬間、愛おしそうに、目を細めて、微笑んだ。
「……うん。……信じてるよ、航」
初めて、彼女が、俺の名前を呼び捨てにしてくれた。
その響きが、まるで祝福のように、俺の心に深く、温かく、染み渡っていく。
招かれざる現実。年の差という名の壁。
それは、確かに存在するのかもしれない。
でも、俺たちは、もう、それに怯えたりしない。
今日の出来事を経て、俺たちの絆は、さらに強く、そして揺るぎないものになったのだから。
この温かい手を、離さない限り。
二人で、しっかりと未来を見据えて歩いていく限り。
俺たちは、きっと、どんな壁だって乗り越えていけるはずだ。
そんな確かな確信を胸に、俺は、隣にいる、俺の大切な年上の恋人の手を、さらに強く握りしめるのだった。
夕暮れの書店の中で、俺たちの新しい物語が、また一つ、動き始めたような気がした。