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第七話:新しい世界の扉と、すれ違う時間

弥生さんが、俺のサークルの後輩女子の話に、少しだけヤキモチを妬いてくれた(ように見えた)あの電話の後。俺たちの関係は、ほんの少しだけ、ぎこちない空気が漂っていた。俺は、彼女を不安にさせてしまったことを反省し、できるだけ他の女の子の話はしないように気をつけたし、弥生さんも、努めて普段通りに接してくれようとしていた。


でも、どこか、互いに遠慮しているような、薄い壁のようなものが、できてしまった気がした。週末のデートは変わらず楽しかったけれど、以前のような、完全に無防備な甘い雰囲気とは、少しだけ違っていた。


そんな中、俺たちの環境は、さらに大きく変化していくことになる。

俺の大学生活は、二学期に入り、講義やサークル活動が本格化。レポートや課題に追われる日々が増え、以前のように、自由に執筆時間を確保するのが難しくなってきた。

そして、弥生さんの方も、社会人一年目の壁にぶつかっているようだった。


彼女が就職した出版社は、中堅とはいえ、かなり忙しい部署に配属されたらしく、連日、深夜までの残業が続いているようだった。メッセージの返信が翌朝になることも珍しくなくなり、電話をかけても、「ごめん、今ちょっと立て込んでて…」と、申し訳なさそうな声で断られることが増えた。


もちろん、彼女が仕事を頑張っていることは分かっているし、それを応援したい気持ちに嘘はない。でも……。


(……やっぱり、寂しいな……)


正直な気持ちだった。

彼女の声が聞きたい。彼女に会いたい。彼女の温もりに触れたい。

大学生になって、少しは大人になったつもりだったけれど、恋する気持ちは、どうしようもなく子供っぽく、わがままになってしまうのかもしれない。


『弥生さん、今日もお疲れ様です。あまり無理しないでくださいね』

俺は、毎日、そんな気遣うメッセージを送ることしかできなかった。本当は、「今から会いに行ってもいいですか?」とか、「声だけでも聞きたいです」とか、言いたい気持ちでいっぱいだったけれど。疲れている彼女に、さらに負担をかけるわけにはいかない。俺は、彼女の「年下の彼氏」なのだから。もっと、大人にならなければ。


そんな、すれ違いの日々が続いていた、ある週末。

久しぶりに、弥生さんとデートの約束ができた。彼女の仕事が、少しだけ早く終わるというのだ。俺は、その日を指折り数えて待っていた。


待ち合わせ場所の駅前。少しだけやつれたような、でも、俺の姿を見つけて、ぱっと花が咲くように微笑んでくれた弥生さん。その笑顔を見ただけで、俺の心は満たされた。

「ごめんね、航くん、待たせちゃった?」

「いえ! 全然! それより、弥生さん、大丈夫ですか? 無理してませんか?」

「ううん、大丈夫だよ。航くんに会えると思ったら、元気出てきちゃった」

そう言って、彼女は俺の腕にそっと寄り添ってきた。その、久しぶりに感じる柔らかな感触と温もりに、俺の心臓がドキリとする。


その日は、特別なことは何もしなかった。ただ、近くの公園をゆっくりと散歩して、ベンチに座って、他愛のない話をしただけ。でも、それが、今の俺たちにとっては、何よりも贅沢で、幸せな時間だった。

彼女が、仕事での愚痴や、大変だったことを、ぽつりぽつりと話してくれる。俺は、ただ、黙って相槌を打ちながら、彼女の話に耳を傾ける。アドバイスなんて、できやしない。でも、ただ、そばにいて、話を聞いてあげること。それが、今の俺にできる、精一杯のことだと思ったから。


「……ごめんね、航くん。なんだか、愚痴ばっかり聞かせちゃって」

話し終えた彼女が、申し訳なさそうに言った。

「いえ、全然です。俺でよければ、いつでも聞きますから。……少しは、楽になりましたか?」

「……うん。すごく。……ありがとう、航くん」

彼女は、そう言うと、俺の肩に、こてん、と頭を預けてきた。夕暮れの光の中で、彼女の髪が、綺麗に輝いている。甘い香りが、ふわりと漂ってくる。


俺は、動けなかった。ただ、彼女の重みと温もりを感じながら、ゆっくりと過ぎていく時間を、大切に味わっていた。

このまま、時間が止まってしまえばいいのに。そう、本気で思った。


やがて、日が完全に暮れて、別れの時間が近づいてきた。

「……そろそろ、帰らないとね」

彼女が、名残惜しそうに体を離す。

「はい……」

俺も、寂しさを隠せずに頷いた。


駅までの帰り道。私たちは、どちらからともなく、そっと手を繋いでいた。触れ合う手のひらから伝わる温もりが、言葉以上に、互いの気持ちを伝えているような気がした。


ホームで電車を待つ間、彼女が不意に言った。

「……ねえ、航くん。今度のお休み……もしよかったら、私の部屋に、泊まりに来ない?」


……え?

泊まりに……? 俺が? 彼女の部屋に?


突然の、そしてあまりにも大胆な誘いに、俺は完全に思考が停止した。

「ほ、本当ですか!?」

「うん。……最近、全然ゆっくり会えてなかったから……。たまには、ね?」

彼女は、少しだけ顔を赤らめながら、でも、真っ直ぐな瞳で俺を見つめてくる。

その瞳には、「あなたともっと一緒にいたい」という、明確なメッセージが込められているように見えた。


「……い、行きます! 絶対行きます!」

俺は、喜びと興奮で、声が上擦るのを抑えきれなかった。

彼女の部屋で、二人きりで、夜を明かす……? 想像しただけで、頭がどうにかなりそうだ。


「ふふ、良かった。じゃあ、楽しみにしてるね」

彼女は、嬉しそうに微笑んだ。その笑顔が、最高に可愛くて、俺はまた、彼女への想いを強くするのだった。


電車がホームに滑り込んできて、別れの時が来た。

「じゃあ、また連絡するね。……おやすみ、航くん」

「はい! おやすみなさい、弥生さん!」

ドアが閉まる直前、彼女が、もう一度、こちらを振り返って、小さく手を振ってくれた。その姿が、愛おしくてたまらない。


一人になったホームで、俺は、まだドキドキと鳴りやまない心臓を押さえながら、深い幸福感に包まれていた。

すれ違いや、不安もあったけれど。やっぱり、俺たちは、ちゃんと繋がっているのだ。そして、これから、もっと深く、繋がっていくのだ。そんな確信が、胸の中にあった。


次の週末が、待ち遠しくてたまらない。

彼女の部屋で過ごす、初めての夜。そこで、何が起こるのだろうか……?

期待と、少しだけ不純な妄想(?)を胸に、俺は、夜空に浮かぶ月を見上げるのだった。


   *


新しい仕事には、少しずつ慣れてきた。編集者という仕事は、想像していた以上に大変で、毎日が目まぐるしく過ぎていく。締め切りに追われ、作家さんとの打ち合わせに奔走し、膨大な量の原稿を読む。正直、体力的にも精神的にも、かなりきつい。家に帰る頃には、くたくたになっていることも珍しくない。


そんな忙しい日々の中で、私の心を支えてくれていたのは、やはり航くんの存在だった。

彼からの、毎日の「お疲れ様です」というメッセージ。疲れた心に染み渡る、電話での彼の優しい声。そして、週末に会える、わずかな時間。それが、私の原動力になっていた。


でも、同時に、彼に対して申し訳ない気持ちも、日増しに強くなっていた。

仕事が忙しくて、なかなか彼との時間を作ってあげられない。メッセージの返信も遅れがちだし、電話に出られないこともある。疲れているせいで、彼に素っ気ない態度をとってしまったり、八つ当たりに近いようなことを言ってしまったりすることも……。


(……私、ちゃんと、彼女らしいこと、してあげられてるのかな……)


彼は、まだ大学生で、これからたくさんの経験をして、世界を広げていく時期だ。そんな大切な時期に、社会人の私の都合に振り回してしまっているのではないか? 彼に、寂しい思いをさせているのではないか?

そう思うと、胸が苦しくなる。


彼は、いつも「大丈夫ですよ」「気にしないでください」と、笑顔で言ってくれるけれど。その笑顔の裏で、本当は我慢しているのではないか? 私との関係に、疲れてしまっているのではないか?

そんな不安が、頭から離れない。


週末、久しぶりに彼とデートをした。公園を散歩して、ベンチで話す。ただそれだけの、穏やかな時間。でも、それが今の私には、何よりも贅沢で、幸せだった。

仕事の愚痴を、彼に聞いてもらう。彼は、ただ黙って、優しく相槌を打ちながら聞いてくれる。それだけで、心が軽くなっていくのを感じた。


「……ごめんね、航くん。なんだか、愚痴ばっかり聞かせちゃって」

「いえ、全然です。俺でよければ、いつでも聞きますから。……少しは、楽になりましたか?」

彼の、その真っ直ぐな優しさが、胸に沁みる。

「……うん。すごく。……ありがとう、航くん」

思わず、彼の肩に頭を預けてしまう。彼の体温が、温かい。このまま、時間が止まってしまえばいいのに、と思う。


でも、楽しい時間はあっという間に過ぎて、別れの時間が近づいてくる。

駅までの帰り道。どちらからともなく、手を繋いで歩く。触れ合う手のひらの温もりが、愛おしい。

この手を、離したくない。もっと、彼と一緒にいたい。


その想いが、衝動的に、言葉になって口をついて出た。

「……ねえ、航くん。今度のお休み……もしよかったら、私の部屋に、泊まりに来ない?」


言ってしまってから、はっとした。

なんて大胆なことを言ってしまったのだろう! 彼、どう思うだろうか? 引かれたりしないだろうか?

顔が、カッと熱くなる。


彼は、一瞬、驚いたように目を見開いた。そして、次の瞬間、ぱあっと顔を輝かせたのだ。

「ほ、本当ですか!?」

「うん。……最近、全然ゆっくり会えてなかったから……。たまには、ね?」

私は、照れながらも、真っ直ぐに彼の目を見つめ返した。「あなたともっと一緒にいたい」という、私の本当の気持ちが、彼に伝わればいい、と願いながら。


「……い、行きます! 絶対行きます!」

彼は、喜びと興奮で、声が上擦るのを抑えきれない様子だった。その反応が、たまらなく嬉しくて、愛おしい。


「ふふ、良かった。じゃあ、楽しみにしてるね」

私は、心からの笑顔で、彼に微笑みかけた。


電車がホームに入ってきて、別れの時が来た。

「じゃあ、また連絡するね。……おやすみ、航くん」

「はい! おやすみなさい、弥生さん!」

ドアが閉まる直前、彼が、なんだか決意を秘めたような、熱っぽい視線を私に向けているのに気づいた。その視線に、私の心臓が、またドキリとする。


一人になった帰り道、私の胸は、期待と、少しの緊張と、そして大きな幸福感で満たされていた。

彼が、私の部屋に泊まりに来る。

二人きりで、夜を明かす……。

想像しただけで、顔が熱くなる。


(……大丈夫かな、私。ちゃんと、おもてなしできるかな……)

(……それに……もしかしたら……)


それ以上のことを考えてしまい、さらに顔が赤くなる。

私たちは、もう恋人同士なのだ。そういうことがあっても、おかしくはないのかもしれない。でも……。


(……焦らなくて、いいよね……?)


まだ、少しだけ怖い、という気持ちもある。

でも、それ以上に、彼との関係が、また新しい一歩を踏み出すことへの、期待感が大きい。


すれ違いや、不安もあったけれど。

私たちは、ちゃんと、前に進んでいるのだ。

そう信じたい。


次の週末が、待ち遠しい。

彼と過ごす、初めての夜。それはきっと、忘れられない、特別な夜になるだろう。

そんな予感を胸に、私の足取りは、自然と軽くなっていた。

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