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第六話:キャンパスの風と、ざわつく心

弥生さんの誕生日を二人きりで祝い、俺たちの関係はまた一段と深まったように感じられた。彼女の部屋で過ごす時間も、俺の部屋で過ごす時間も、どちらも温かくて、満たされていて、まるで夢の中にいるような心地よさだった。もちろん、キスより先に進むことへの焦りや期待が全くないわけではないけれど、彼女を大切にしたいという気持ちの方が今は強い。それに、ただ隣にいて、彼女の笑顔を見ているだけで、十分に幸せだったのだ。


大学生活も、本格的に軌道に乗ってきた。文学部の講義は興味深いものばかりで、特に創作論や近代文学史は、自分の執筆活動にも直結する内容が多く、毎回食い入るように聞いていた。文芸サークルでは、個性的な仲間たちと出会い、互いの作品を読み合っては、夜遅くまで熱い議論を交わすこともあった。それは、高校時代には経験できなかった、刺激的で充実した時間だった。


サークルの仲間の中には、もちろん女子もいた。みんな、文学や創作が好きという共通点があるからか、すぐに打ち解けて話せるようになった。特に、同じ学年で、ミステリー小説を書いているという、少しクールで知的な雰囲気の女子、相沢さんとは、好きな作家が同じだったこともあり、よく話をするようになった。彼女の作品は、構成が巧みで、文章も洗練されており、俺は素直に感心していたし、彼女も俺の書くラブコメ(まだ断片しか見せていないが)に興味を持ってくれているようだった。


また、サークルの新入生歓迎会で知り合った、一つ下の後輩で、少女漫画のようなキラキラした恋愛小説を書く、明るく元気なタイプの女の子、加藤さんにも、なぜか妙に懐かれていた。「航先輩の書くラブコメ、すごく好きです! 特にヒロインの弥生さんが最高で!」と、目を輝かせながら熱弁してくる彼女の勢いには、少しだけタジタジになることもあったが、自分の作品をそこまで好きだと言ってもらえるのは、やはり嬉しいことだった。


もちろん、彼女たちに対して、恋愛感情のようなものは一切なかった。俺の心の中には、弥生さんしかいないのだから。彼女たちは、あくまで創作活動を共にする、大切な「仲間」であり、「後輩」だ。


だから、弥生さんとの電話やメッセージの中で、俺は特に隠すこともなく、サークルでの出来事や、相沢さんや加藤さんとの会話について、話していた。弥生さんも、「へえ、楽しそうだね」「すごいね、航くんの周りには才能ある子が多いんだね」と、いつもと変わらない様子で、にこやかに聞いてくれていた……はずだった。


その日も、俺は弥生さんと電話で話していた。週末のデートの約束を取り付け、上機嫌だった俺は、つい、その日のサークルでの出来事を話し始めてしまったのだ。

「今日、サークルで加藤さんが、俺の小説の感想をすごい熱心に語ってくれて……。なんか、弥生さん(仮)の、『普段しっかりしてるのに、たまに見せるドジなところがたまらない』って力説してましたよ(笑)」

俺としては、弥生さん(本人)が褒められているような気がして、少し得意げな気持ちで話したつもりだった。


だが、電話の向こうの弥生さんの反応は、予想とは少し違った。

『……へえ……。加藤さん、だっけ? ……詳しいんだね、航くんの小説のこと』

その声は、いつもより明らかに低く、そして平坦だった。笑顔の気配が、全く感じられない。

「え? あ、はい……。なんか、俺の投稿サイトの作品、全部読んでくれてるみたいで……」

まずい、何か気に障ることでも言ってしまっただろうか? 俺は少しだけ焦りながら答えた。


『……そうなんだ。……熱心なファンがいて、良かったね』

その言葉には、どこか棘があるように聞こえた。気のせいだろうか?

『……ねえ、航くん。その加藤さんって子……可愛い子なの?』

「えっ!?」

突然の、そしてあまりにも直接的な質問に、俺は完全に不意を突かれた。

「か、可愛いとか、そういうのは……! 俺には分かりませんけど……! まあ、元気で、明るい子、ですけど……」

以前、似たような質問をされた時と同じように、しどろもどろになってしまう。なぜ、弥生さんはそんなことを聞くのだろう?


『……ふーん……。元気で、明るい子……ねぇ……』

弥生さんは、それだけ言うと、また少し黙り込んでしまった。電話の向こうで、彼女がどんな表情をしているのか、分からない。それが、余計に俺を不安にさせる。


『……ごめんね、航くん。私、ちょっと疲れてるみたい。……今日は、もう寝るね』

やがて、彼女は、そう言って一方的に電話を切ろうとした。

「あ、弥生さん! まだ……!」

俺が何か言いかける前に、通話は切れてしまった。


ツー、ツー、という無機質な音が、耳に残る。

……なんだ? 今のは……?

明らかに、弥生さんの様子がおかしかった。俺が、加藤さんの話をしたから? でも、なぜ?

ただのサークルの後輩の話をしただけなのに……。


(……もしかして……弥生さん……ヤキモチ、妬いてる……?)


初めて、その可能性が、明確な形で俺の頭をよぎった。

以前、レストランでの喧嘩の時にも、彼女は涙ながらに「不安だ」と言っていた。俺が他の女の子と一緒にいることに対して。

あの時は、俺の配慮不足が原因だった。でも、今回は……?


もし、そうだとしたら……。

俺は、彼女を、また不安にさせてしまったのだろうか? 彼女の気持ちに、全く気づかずに、無神経なことを言ってしまったのだろうか?


(……だとしたら、俺は……なんて馬鹿なんだ……!)


罪悪感と、そして、ほんの少しだけ、彼女の嫉妬心が嬉しいと感じてしまう、不謹慎な気持ち。その二つが、俺の中で渦巻いていた。

すぐにでも、もう一度電話して、謝って、誤解を解きたかった。でも、今の彼女に、どんな言葉をかければいいのか、分からなかった。下手に言い訳すれば、余計に拗らせてしまうかもしれない。


結局、その夜、俺は弥生さんに連絡することができずに、悶々とした気持ちで夜を明かすことになった。

幸せなはずの恋人としての日常に、初めて差し込んだ、明確な翳り。それは、これから始まる波乱の、ほんの序章に過ぎなかったのかもしれない。


   *


航くんからの電話。週末のデートの約束を取り付けて、私の心は浮き足立っていた。早く土曜日にならないかな、なんて、子供みたいにはしゃいでいたのだ。

彼が、大学のサークルの話を楽しそうにしてくれるのも、嬉しかった。彼の世界が広がっている証拠だから。文学少女の相沢さん、元気な後輩の加藤さん……。彼が、新しい仲間たちと充実した日々を送っている。それは、本当に喜ばしいことだ、と頭では分かっている。


……分かって、いるはずなのに。


「今日、サークルで加藤さんが、俺の小説の感想をすごい熱心に語ってくれて……。なんか、弥生さん(仮)の、『普段しっかりしてるのに、たまに見せるドジなところがたまらない』って力説してましたよ(笑)」


彼の、その無邪気な言葉を聞いた瞬間、私の心臓は、嫌な音を立てて軋んだ。

加藤さん……。また、その子の名前。

しかも、私のこと(正確には、私をモデルにしたヒロインのこと)を、そんな風に分析して……。


(……なんなの、あの子……。馴れ馴れしい……)


湧き上がってきたのは、明らかに、黒い感情だった。嫉妬だ。

航くんの小説を、私以外の女の子が、そんなにも熱心に読み込み、感想を語っている。しかも、私の知らないところで。その事実が、たまらなく不愉快だった。

彼の小説の、一番の理解者は、私でありたいのに。彼の物語のヒロインは、私なのに。


『……へえ……。加藤さん、だっけ? ……詳しいんだね、航くんの小説のこと』

声が、自分でも分かるほど、冷たくなっている。笑顔なんて、作れるはずもない。

「え? あ、はい……。なんか、俺の投稿サイトの作品、全部読んでくれてるみたいで……」

彼は、私の変化に気づいていないのか、それとも気づかないフリをしているのか、無邪気に続ける。


『……そうなんだ。……熱心なファンがいて、良かったね』

皮肉が、声に滲んでしまうのを抑えられない。

『……ねえ、航くん。その加藤さんって子……可愛い子なの?』

聞きたくない。聞きたくないけれど、聞かずにはいられない。どんな子なの? 私と比べて、どうなの? そんな、醜い比較の気持ちが、頭をもたげる。


「えっ!?」

彼は、明らかに動揺している。

「か、可愛いとか、そういうのは……! 俺には分かりませんけど……! まあ、元気で、明るい子、ですけど……」

しどろもどろになりながら答える彼。その反応が、さらに私の心をざわつかせる。可愛い、とは思っているんじゃないの? だから、正直に言えないだけなんじゃないの?


『……ふーん……。元気で、明るい子……ねぇ……』

私の声は、もう完全に温度を失っていた。

ああ、ダメだ。こんなんじゃ、ただの嫌な女だ。彼に、嫌われてしまう。

でも、どうしても、この黒い感情をコントロールできない。


『……ごめんね、航くん。私、ちょっと疲れてるみたい。……今日は、もう寝るね』

これ以上話していると、もっと酷いことを言ってしまいそうだ。私は、一方的に会話を打ち切るように、そう告げた。

「あ、弥生さん! まだ……!」

彼の、何かを言いかけたような声が聞こえたけれど、私は、そのまま通話を終了させた。


ツー、ツー、という無機質な音が響く。

私は、スマホをベッドに放り投げ、そのまま倒れ込んだ。

じわり、と涙が滲んでくる。


(……最低だ、私……)


なんて、小さい人間なんだろう。

彼の活躍を素直に喜べず、彼の周りの女の子に嫉妬して、彼に冷たい態度をとってしまうなんて。

彼は、何も悪くないのに。ただ、純粋に、日々の出来事を報告してくれただけなのに。


分かってる。こんなことを続けていたら、彼に愛想を尽かされてしまう。

もっと、大人にならなければ。もっと、彼を信じて、どっしりと構えていなければ。

私は、彼の「年上カノジョ」なのだから。


でも……。

どうしても、不安なのだ。

彼が、私よりも若くて、可愛くて、彼ともっと多くの時間を共有できる女の子に、心惹かれてしまうのではないか、と。

年の差なんて関係ない、と美咲は言ってくれたけれど。やはり、それは綺麗事なのかもしれない、と。


(……航くん……ごめんね……)


心の中で、彼に謝る。

でも、この醜い嫉妬心を、どうすればいいのか分からない。

素直になれ、と言われても、どうすれば素直になれるのか、分からない。


ただ、一つだけ確かなことは、このままではいけない、ということだ。

この黒い感情に飲み込まれて、彼との大切な関係を、自ら壊してしまうわけにはいかない。


私は、涙を拭い、ゆっくりと体を起こした。

そして、窓の外を見つめる。夜空には、綺麗な月が浮かんでいた。

あの月のように、穏やかで、静かな心を取り戻したい。


(……大丈夫。私は、航くんを信じてる。そして、航くんも、私を信じてくれているはず……)


そう、自分に言い聞かせる。

週末のデートでは、ちゃんと笑顔で彼に会おう。そして、今日のことは、謝ろう。

少しずつでもいい。ちゃんと、自分の気持ちと向き合って、彼との関係を、大切に育んでいこう。


そう決意しながらも、私の心の中に灯ってしまった嫉妬の小さな火は、まだ燻り続けているのを、感じずにはいられなかった。

それは、これから始まる、少しだけビターな恋の季節の、始まりを告げているのかもしれない。

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