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第四話:初めての雨降り、仲直りの温もり

大学生活にも少しずつ慣れ、文芸サークルでの活動も本格化してきた。新しい友人たちとの交流は刺激的だし、文学について深く語り合える時間は、俺の創作意欲を掻き立ててくれる。毎日が新鮮で、充実している、と言ってよかった。


だが、そんな日々の中で、一つだけ、俺の心を曇らせるものがあった。それは、弥生さんとの間に、ほんの少しだけ、距離ができてしまっているような感覚だった。


彼女は社会人として、新しい仕事に奮闘している。毎日遅くまで頑張っている彼女を見ると、尊敬すると同時に、俺はまだ学生で、何もしてあげられない自分がもどかしくなる。会える時間も以前より減り、メッセージや電話でのやり取りが、俺たちを繋ぐ主な手段になっていた。


(……弥生さん、疲れてるのかな……)

(俺なんかの相手してる暇、ないんじゃないかな……)


そんなネガティブな考えが、ふと頭をよぎる。彼女はいつも「大丈夫だよ」「気にしないで」と笑ってくれるけれど、その笑顔の裏に、無理をしているのではないか、と心配になってしまうのだ。


そんな、漠然とした不安を抱えていた、ある金曜日の夜。俺はサークルの合評会で、つい時間を忘れて議論に熱中してしまった。気づけば終電間際。弥生さんには「遅くなる」と伝えてはいたが、さすがに遅すぎただろう。慌ててスマホを見ると、彼女からの心配するメッセージと不在着信。


まずい、と思った。すぐに電話をかける。

「もしもし、弥生さん!? すみません、サークルが長引いちゃって……!」

『……航くん? ああ、よかった、無事だったんだね……』

電話の向こうの彼女の声は、やはり疲れているようで、そして、いつもより少しだけ、硬い気がした。

「はい、大丈夫です! 本当にすみません、連絡できなくて……!」

『ううん、いいよ。無事なら、それで……。でも、もう終電もないでしょ? どうするの?』

「あ、それが……サークルの先輩の家に、泊めてもらうことになったんで、大丈夫です!」

「先輩の家?」

『うん。男の先輩だから、心配ないですよ』

念のため付け加えたが、電話の向こうの弥生さんの反応は、予想とは違った。


『……そっか。……分かった。……じゃあ、気をつけてね。おやすみ』

まるで、感情を押し殺したかのような、平坦な声。そして、一方的に通話は切れてしまった。


(……え? なんだか、怒ってる……?)


釈然としない気持ちを抱えながらも、その夜は先輩の家に厄介になり、翌朝、始発電車でアパートに帰った。すぐに弥生さんに謝罪のメッセージを送ったが、返ってきたのは『ううん、大丈夫だよ。お疲れ様』という、やはりどこか素気ないものだった。


その週末、俺たちは少し高級なレストランでデートの約束をしていた。俺がバイト代を貯めて予約した、彼女への日頃の感謝と、労いの気持ちを込めたサプライズのつもりだった。

だが、待ち合わせ場所に現れた弥生さんの表情は、明らかに硬かった。笑顔も、どこかぎこちない。


「弥生さん、どうかしましたか? 元気ないみたいですけど……」

俺が尋ねると、彼女は「ううん、なんでもないよ。ちょっと、仕事で疲れてるだけ」と、力なく微笑んだ。でも、それが嘘であることは、俺にも分かった。


レストランでの食事中も、会話は弾まなかった。俺が大学の話をしても、彼女は上の空。彼女自身の話も、あまりしてくれない。重苦しい沈黙が、何度もテーブルを支配した。美味しいはずの料理も、味がしない。


(……やっぱり、俺、何か怒らせるようなことしたんだ……)


でも、何が原因なのか、分からない。電話のこと? それとも、俺が気づいていない、何か別のこと……?

このままじゃダメだ。ちゃんと、話を聞かなければ。


食事が終わる頃、俺は意を決して、もう一度尋ねた。

「……弥生さん、やっぱり何かありましたよね? 俺に、話してください。俺、弥生さんに心配かけたくないんです。ちゃんと、力になりたいんです」


   *


航くんの、真剣な眼差し。心配そうな声。

彼の優しさは、痛いほど伝わってくる。でも、素直に「ありがとう」と言えない自分がいる。金曜日の夜からずっと、私の心の中には、黒い靄のようなものが渦巻いていたのだから。


彼が、終電もなくなる時間まで、連絡もなしに帰ってこなかったこと。もちろん、心配もした。でも、それ以上に私の心を占めていたのは、彼が誰と、どんな時間を過ごしていたのか、という疑念と不安だった。

サークルの仲間と? そこには、女の子もいたんでしょ? もしかして、あの、航くんのファンだと名乗っていた、馴れ馴れしい後輩の子も……?


考え始めると、キリがない。くだらない妄想だと分かっている。彼を信じていないわけじゃない。でも、どうしても、不安になってしまうのだ。会えない時間が増え、彼の知らない世界が広がっていく中で、私だけが取り残されていくような気がして。彼にとって、私はもう、それほど大切な存在ではないのかもしれない、と。


そんな、醜い嫉妬心と自己嫌悪を抱えたまま、今日のデートに来てしまった。彼が、私のために、一生懸命予約してくれた、素敵なレストランなのに。笑顔で楽しまなければいけないのに。どうしても、心が晴れない。


「……航くんはさ」

彼の問いかけに、私は俯いていた顔を上げた。もう、誤魔化しきれない。

「……私が、どれだけ心配したか、分かってる?」

声が、震える。涙が滲んできそうだ。

「……終電もなくなる時間まで、連絡の一つもなくて……。何か事故にでもあったんじゃないかって、気が気じゃなかったんだよ?」

本当は、事故の心配よりも、別の心配の方が大きかったなんて、言えないけれど。


「す、すみません……! でも、ちゃんと、男の先輩の家に泊まるって……」

彼は、まだ私の怒りの本当の理由に気づいていない。その鈍感さが、今は少しだけ、憎らしい。

「そういう問題じゃないの!」

思わず、声が大きくなる。周りの視線が痛い。でも、もう止められない。

「……連絡の一つくらい、できたでしょ? たった一言、『大丈夫だよ』って送るだけで、私がどれだけ安心できたか、考えてくれた?」

「……はい……。すみません……。本当に、配慮が足りませんでした」

彼は、素直に謝ってくれる。でも、私の心の靄は、まだ晴れない。


「……それに……」

私は、一番聞きたかった、でも聞くのが怖かったことを、口にした。声が、震える。

「……サークルの仲間って……女の子も、いるんでしょ……?」

「え? あ、はい……いますけど……」

「……その日は……その子たちも、一緒だったの……? 遅くまで……」

彼の顔を、じっと見つめる。彼の答え次第で、私の心は、天国にも地獄にも落ちるだろう。


彼は、一瞬、きょとんとした顔をした。そして、すぐに、私の問いの意図を理解したのだろう。驚きと、戸惑いと、そして、ほんの少しだけ、安堵のような色が、彼の瞳に浮かんだように見えた。


「……はい、女子のメンバーもいました。でも、俺は別に、その……誰かと二人きりだったとか、そういうことは全くなくて……! ただ、合評が白熱して、みんなで残ってただけで……!」

彼は、必死で弁解するように、早口で言った。

「……すみません。弥生さん、もしかして……ヤキモチ、妬いてくれてたんですか……?」

彼は、恐る恐る、というように尋ねてきた。顔が、少しだけ赤い。


……ヤキモチ。

そう、私は、ヤキモチを妬いていたのだ。

それを、彼に気づかれてしまった。恥ずかしい。でも……。


「……そうだよ」

私は、小さく、しかしはっきりと認めた。もう、隠すのはやめようと思ったからだ。美咲の言う通り、素直にならなければ。

「……航くんが、他の女の子と仲良くしてるの、嫌だったの……。不安だったの……」

涙が、ぽろりと零れ落ちた。


彼の目が、大きく見開かれる。そして、次の瞬間、彼は、とても優しい、愛おしそうな表情になった。

「……弥生さん……」

彼は、テーブル越しに、私の手をそっと握った。温かくて、少しだけ大きな手。

「……ごめんなさい……。俺、全然気づかなくて……。弥生さんを、そんな風に不安にさせてたなんて……」

その声は、心からの後悔と、そして、深い愛情に満ちていた。


「俺には、弥生さんしかいませんから。絶対に。他の女の子なんて、目に入りません。信じてください」

真っ直ぐな瞳で、彼は言った。

「俺、弥生さんを不安にさせるようなこと、もう絶対にしません。ちゃんと、連絡もします。約束します」


彼の、その真摯な言葉と、握られた手の温もりに、私の心の中の黒い靄は、すうっと消えていくのを感じた。

ああ、私は、なんて馬鹿だったのだろう。一人で勝手に不安になって、彼を疑って……。彼は、こんなにも、私のことを想ってくれているのに。


「……ううん……私も、ごめんね……。素直に言えなくて……。航くんのこと、信じてるのに……」

私も、涙を拭いながら、彼の手をそっと握り返した。


その時、窓の外で、ぽつり、ぽつりと雨が降り始めた。あっという間に、それはザーザーという本降りになっていく。まるで、私たちの心のわだかまりを、全て洗い流してくれるかのように。


「……雨……」

私が呟くと、彼は「傘、持ってきましたか?」と尋ねた。

「ううん、持ってない……。天気予報、見てなかったから……」

「じゃあ、俺の傘、使ってください」

彼が差し出す折り畳み傘。

「だめだよ! 風邪ひいちゃう!」

「俺は大丈夫です! 走れば!」

「だめ!」


頑なな私に、彼は少し困った顔をして、そして、悪戯っぽく笑った。

「……じゃあ……一緒に、入っていきませんか? 俺の傘。……この前の、お返し、です」


その言葉に、私の顔がカッと熱くなる。あの雨の日、私が彼を傘に招き入れた時のことだ。

「……うん」

私は、顔を赤くしながら、こくりと頷いた。


   *


レストランを出て、俺は傘を開いた。そして、弥生さんの肩をそっと抱き寄せ、傘の中へと招き入れる。彼女の体が、ぴたりと俺に密着する。柔らかな感触、温もり、そして甘い香りが、雨の匂いと混じり合って、俺の理性を揺さぶる。


狭い傘の中。肩が触れ合い、腕が絡み合うほどの距離。雨音が、傘を激しく叩く。

でも、もう、ぎこちなさはない。そこには、深い安堵感と、確かな愛情だけがあった。


雨の中、一つの傘に寄り添いながら、ゆっくりと駅までの道を歩く。

言葉は少なかったけれど、繋いだ手の温もりと、時折交わす視線だけで、十分に気持ちは通じ合っている気がした。喧嘩をして、本音をぶつけ合って、だからこそ、より深く理解し合えたのだ。


駅に着き、彼女が乗る電車のホームまで見送る。

「……じゃあ、また連絡するね」

「はい。待ってます」

「……航くんも、ちゃんと連絡してよね? 心配するから」

「はい! 絶対します!」


別れが、名残惜しい。もっと一緒にいたい。

ドアが閉まる直前、俺は、衝動的に、彼女の顔を引き寄せた。そして、驚く彼女の唇に、自分の唇を重ねた。周りの視線なんて、もう気にならなかった。ただ、彼女への愛しさが、溢れて止まらなかったのだ。


触れるだけの、優しいキス。でも、そこには、俺たちの仲直りと、そして、これからへの誓いが込められていた。

唇を離すと、彼女は顔を真っ赤にして、でも、とても幸せそうな顔で、俺を見つめ返してきた。


「……仲直りの、しるし、です」

俺が照れながら言うと、彼女は「……うん」と、小さく頷いて、微笑んだ。


ドアが閉まり、電車はゆっくりと動き出す。

窓越しに、彼女が小さく手を振っているのが見えた。俺も、見えなくなるまで、手を振り返した。


一人になったホームで、俺は、まだ熱い唇を押さえながら、深い溜息をついた。

……やってしまった。人前でキスなんて。

でも、後悔はなかった。むしろ、清々しい気持ちだった。


雨は、いつの間にか上がっていた。

雲の切れ間からは、濡れた街を照らす月明かりが差し込んでいる。

雨降って、地固まる。

俺たちの関係も、この雨と、そして初めての喧嘩を乗り越えて、また一つ、強く、そして深くなった。そう、確信できた。


もちろん、これからも、きっと、すれ違いや、喧嘩はあるだろう。

でも、大丈夫。

俺たちは、ちゃんと向き合って、互いを理解して、そして、またこうして、仲直りできるはずだから。


俺は、まだドキドキと鳴りやまない心臓と、彼女の唇の柔らかい感触を意識しながら、家路についた。

早く、この気持ちを、物語にしたい。

雨の中の、仲直りのキス。それはきっと、読者の心を鷲掴みにする、最高のラブコメシーンになるはずだから。

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