最終話(第二十話):私たちのラブコメはこれから
季節は何度か巡り、俺は大学の最終学年を迎えていた。あの嵐のような夜を乗り越え、弥生さんと本当の意味で結ばれてから、俺たちの時間は、穏やかに、そして確かに積み重ねられてきた。
出版社から声をかけてもらったことをきっかけに、俺は、自分の作品と、そして「作家」という夢と、より真剣に向き合うようになった。編集者の方との打ち合わせを重ね、プロットを練り直し、何度も推敲を重ねる。それは、決して楽な道のりではなかったけれど、以前のような孤独感や焦燥感はなかった。なぜなら、俺には、最高のミューズであり、最高の理解者である弥生さんが、いつも隣にいてくれたからだ。
彼女は、俺がどんなに壁にぶつかっても、決して見放さずに、温かく、そして的確なアドバイスをくれた。時には、編集者としての厳しい視点で、容赦ないダメ出しをされることもあったけれど、それも全て、俺の成長を願ってのことだと分かっていた。そして、何よりも、彼女の「航の物語が、私は世界で一番好きだよ」という言葉が、俺に無限の勇気を与えてくれた。
大学卒業を目前にした頃、ついに俺の新しい小説――弥生さんとの関係からインスピレーションを得て書き上げた、少しビターで、でも温かいラブコメ――が、書籍化されることが決まったのだ。まだ、小さな出版社からの、ささやかなデビューではあるけれど。それでも、俺にとっては、夢への大きな、大きな一歩だった。
一番に、その報告をしたのは、もちろん弥生さんだった。
電話の向こうで、彼女が、声を詰まらせながら「おめでとう……! 本当に、おめでとう、航……!」と、自分のことのように喜んでくれた時、俺は、涙が止まらなかった。彼女がいなければ、絶対にここまで来られなかった。心からの感謝の気持ちで、胸がいっぱいになった。
俺たちの関係も、より深く、成熟したものになっていた。
年の差や、立場の違いに対する不安が、完全になくなったわけではない。でも、俺たちは、それを乗り越えるための、確かな絆を築き上げてきた。
彼女は、仕事でどんなに疲れていても、俺の前ではいつも笑顔でいてくれた。俺も、彼女の負担にならないように、自分のことは自分でするように心がけ、そして、彼女が弱音を吐ける、唯一の安らげる場所でありたいと願っていた。
二人きりで過ごす時間は、以前にも増して、甘く、そして親密なものになっていた。
ソファで寄り添って、互いの体温を感じながら、ただ静かに過ごす時間。
キッチンで、一緒に料理をしながら、ふざけ合って笑う時間。
そして、ベッドの中で、互いの名前を呼び合い、深く求め合う、情熱的な時間……。
初めて結ばれた、あの夜の、少しぎこちなかった触れ合いは、もうない。俺たちは、互いの体の隅々までを知り尽くし、どうすれば相手が喜ぶのか、どうすればもっと深く繋がれるのかを、自然と理解し合えるようになっていた。
彼女の、俺の腕の中で見せる、蕩けるような表情。甘い吐息。そして、俺の名前を呼ぶ、切ないほどの声……。その全てが、俺を狂おしいほどに満たし、そして、彼女への愛しさを、さらに深いものにしていく。
(……弥生さん……愛してる……)
言葉にするのは、まだ少し照れくさいけれど。その想いは、俺の中で、揺るぎないものとなっていた。
いつか、ちゃんと、言葉にして伝えなければならない。そして、その先の未来も……。
大学の卒業式の日。
式典の後、俺は、花束を持って、弥生さんが待つ場所へと急いだ。彼女は、少しだけフォーマルなワンピース姿で、穏やかな笑顔で俺を迎えてくれた。
「卒業、おめでとう、航」
「ありがとうございます、弥生さん」
「……これからは、航も、社会人……ううん、作家先生、だね」
彼女が、少しだけ感慨深そうに言う。
「いや、まだ先生なんて……。これからが、本当のスタートです」
俺は、照れながらも、きっぱりと言った。
そして、俺は、意を決して、彼女の手を取った。
「弥生さん」
「ん?」
「……卒業したら……その……一緒に、暮らしませんか?」
それは、俺なりに、ずっと考えていたことだった。
作家として、まだ駆け出しの俺には、彼女を十分に支えられるだけの経済力はないかもしれない。でも、それでも、彼女ともっと一緒にいたい。彼女の隣で、毎日目覚め、そして眠りにつきたい。そう、強く願っていたのだ。
俺の、突然の提案に、彼女は、一瞬だけ、驚いたように目を見開いた。
そして、次の瞬間、今まで見た中で、一番美しい、幸せに満ちた笑顔で、涙を浮かべながら、頷いたのだ。
「……うん……! 喜んで……!」
その返事を聞いて、俺は、彼女を強く、強く抱きしめた。
春の柔らかな日差しの中で、俺たちの新しい物語が、また一つ、始まろうとしていた。
*
航が、大学を卒業した。
そして、ついに、小説家としての一歩を踏み出した。
彼のデビュー作となった『ラブコメを書きたい』(タイトルは結局、これになったのだ)は、大きなベストセラーとはならなかったけれど、それでも、一部の読者からは熱狂的な支持を受け、「心に響く」「リアルで泣ける」といった感想がたくさん寄せられた。彼の紡ぐ言葉が、誰かの心を動かしている。その事実が、私には何よりも嬉しかった。
私も、編集者としての仕事に、やりがいを感じながら、忙しいながらも充実した日々を送っていた。あの時、上司に提示された海外異動の話は、結局、断ることにした。自分のキャリアも大切だけれど、それ以上に、航の隣で、彼を支えながら生きていきたい、という想いの方が強かったのだ。後悔は、全くなかった。
そして、彼が卒業した春、私たちは、一緒に暮らし始めた。
都心から少し離れた、静かな街にある、少しだけ広いアパート。二人で選んだ家具、二人で揃えた食器。まだ、ぎこちなさは残るけれど、そこには確かに、「私たちの家」と呼べる温かい空間があった。
一緒に暮らし始めて、私たちの関係は、さらに自然で、穏やかなものになった気がする。
朝、隣で眠る彼の寝顔を見て、「おはよう」のキスをする。二人で並んで歯を磨き、少しだけ慌ただしい朝食をとる。彼が執筆に集中している間、私はそっとコーヒーを淹れてあげたり、時には、煮詰まっている彼を、散歩に連れ出したり。
夜、仕事から疲れて帰ると、彼が「おかえりなさい」と、温かい笑顔で迎えてくれる。彼が作ってくれた(少しだけ味が濃いこともあるけれど)夕食を一緒に食べ、一日の出来事を語り合う。
そして、夜。
二人で同じベッドに入り、互いの温もりを感じながら眠りにつく。
時には、どちらからともなく、自然と唇を重ね、互いを求め合う夜もある。
もう、そこには、年の差も、立場も、何の壁もない。ただ、愛する人と深く結びつく、純粋な喜びと、深い安らぎがあるだけ。
彼の腕の中で、私は、いつも満たされた気持ちで、眠りにつくことができるのだ。
(……本当に、幸せだな……)
ふと、そんな風に思う。
数年前、将来への漠然とした不安と、満たされない気持ちを抱えていた自分が、嘘のようだ。
彼と出会って、恋をして、そして結ばれて……。私の人生は、こんなにも豊かで、輝かしいものになった。
もちろん、これからも、きっと色々なことがあるだろう。
彼が、作家として壁にぶつかることもあるかもしれない。私が、仕事で大きな失敗をしてしまうこともあるかもしれない。意見が食い違って、喧嘩をすることだって、きっとあるだろう。
でも、もう大丈夫。
私たちは、一人じゃないのだから。
どんな困難も、二人で手を取り合って、乗り越えていける。そう、確信している。
ある晴れた休日。
私たちは、あの思い出の公園のベンチに座って、穏やかな時間を過ごしていた。
木漏れ日が、きらきらと輝いている。
私は、彼の肩に頭を預け、目を閉じる。彼の匂いと、温もりが、心地よい。
「……ねえ、航」
「ん?」
「……私たちの物語も、ちゃんと、ハッピーエンドまで、書き上げてね?」
私は、少しだけ、甘えた声で言った。
彼は、私の髪に、優しくキスを落としながら、答えた。
「……もちろん。……最高の、ハッピーエンドを、約束します」
その、力強くて、温かい言葉。
それに、私は、心からの笑顔で、彼の胸に顔をうずめた。
ラブコメを書きたい、と願った不器用な少年と、
恋に戸惑い、それでも素直になることを選んだ、少しだけ年上の私。
私たちのラブコメは、決して、小説の中だけの話じゃない。
この、温かくて、愛おしくて、そして、かけがえのない日常の中に、確かに存在しているのだ。
これからも、ずっと、二人で一緒に。
新しいページを、紡いでいく。
きっと、たくさんの笑顔と、幸せに満ちた、最高の物語を。
そう信じて、私は、隣にいる愛しい人の温もりを、もう一度、強く、強く、感じ取るのだった。
私たちのラブコメは、まだ、終わらない。永遠に、続いていくのだから。




