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第二話:甘い週末と、胸に灯る小さな火

弥生さんが俺の部屋に泊まりに来てくれた、あの週末。それは、俺の人生にとって、間違いなく最も幸福で、そして最も心臓に悪い(良い意味で)二日間だった。


二人きりの部屋で過ごす時間。一緒に作った(ほとんど弥生さんが作ってくれたけど)夕食。ソファで寄り添って見た映画。そして……初めて交わした、恋人としての、深いキス。思い出すだけで、今でも顔が熱くなり、心臓がドキドキと音を立てる。


あの夜、俺たちは一つのベッドで眠った。彼女の温もりを腕の中に感じながら、穏やかな寝息を聞いていると、言いようのない安心感と幸福感に包まれた。結局、それ以上のことは何もなかったけれど、それでよかったのだ。焦る必要はない。俺たちの時間は、まだ始まったばかりなのだから。ただ、彼女が隣にいてくれる、それだけで十分すぎるほど幸せだった。


翌朝、彼女が作ってくれた朝食を二人で食べた時間も、まるで夢のようだった。少し寝癖がついたまま、エプロン姿で「はい、あーん」なんて(冗談っぽくだけど)してくる彼女は、年上のお姉さんというより、むしろ、すごく可愛い同い年の女の子みたいに見えた。


そんな、甘すぎる週末を経て、俺たちの「恋人」としての日々は、本格的に始まった。

大学の講義やサークル活動は相変わらず忙しいけれど、どんなに疲れていても、弥生さんからの『今日もお疲れ様(^-^)』というメッセージを見ると、疲れなんて吹き飛んでしまう。電話で彼女の声を聞くだけで、明日も頑張ろうと思える。完全に、恋の力というやつだ。


週末は、ほぼ毎週のようにデートをした。

以前のように「取材」という名の口実を作る必要はもうない。「今度の休み、どこ行きたい?」と、ごく自然に、恋人らしい会話ができる。それが、なんだかくすぐったくて、嬉しい。


映画館で、ラブコメ映画を見て、二人でキュンとしたり、ツッコミを入れたり。

ショッピングモールで、弥生さんの服選びに付き合って(正直、女性の服はよく分からないけれど、彼女が「これ、どうかな?」と俺に意見を求めてくれるだけで嬉しい)、逆に俺の服を彼女に選んでもらったり(「航くんは、こういうシンプルなのが似合うと思うよ」なんて言われると、すぐに買ってしまう)。

公園でのんびり散歩したり、話題のカフェでお茶したり……。


そんな、ごく普通のデートの一つ一つが、俺にとっては新鮮で、特別で、そして、かけがえのない宝物のような時間だった。


特に、弥生さんの部屋で過ごす時間が増えたのは、大きな変化だった。

彼女の部屋は、いつも綺麗に片付いていて、落ち着いた雰囲気で、とても居心地がいい。そこで、手料理を振る舞ってもらったり(彼女は「失敗しちゃうかも」なんて言うけれど、俺にとっては世界一美味しい)、一緒にDVDを見たり、彼女が読んでいた本を隣で読ませてもらったり……。


そんなリラックスした空間で、彼女は、時々、俺の前でだけ、無防備な姿を見せてくれるようになった。

例えば、お風呂上がりの、少し湿った髪で、すっぴんに近い顔で、部屋着のスウェット姿で、「航、アイス食べる?」なんて聞いてきたり。その、普段の綺麗なお姉さんな姿とのギャップに、俺は毎回、心臓を鷲掴みにされるような衝撃を受ける。


(……やばい。可愛すぎる……!)


思わず見惚れていると、「な、なに? そんなに見ないでよ……」と、顔を赤くして俯いてしまう。その反応が、またたまらなく可愛いのだ。


あるいは、ソファでうたた寝してしまった彼女の、穏やかな寝顔。少しだけ開いた唇から、規則正しい寝息が聞こえる。長い睫毛が、白い頬に影を落としている。その、あまりにも無防備で、美しい姿に、俺は、言いようのない愛おしさと、そして、ほんの少しだけ、悪いことを考えてしまいそうな、男としての欲求を感じてしまう。


(……ダメだ、ダメだ! 彼女は、俺を信頼して、こんな姿を見せてくれてるんだから……!)


必死で、邪な考えを振り払う。でも、好きな人が、こんなにも無防備に隣にいるのだ。意識するなという方が無理な話だ。俺だって、健全な男子大学生なのだから。


そんな、甘くて、ドキドキするような日々。

俺は、本当に幸せだった。弥生さんという、最高の彼女ができて、毎日が輝いて見えた。


だが、そんな幸福感の中で、ほんの小さな、しかし無視できない棘のようなものが、時折、俺の胸をチクリと刺すことがあった。


それは、やはり「年の差」と「立場の違い」からくる、漠然とした不安感だった。


弥生さんは、出版社で働く立派な社会人だ。毎日、遅くまで仕事を頑張っていて、自分の力で生計を立てている。一方、俺はまだ大学生。親からの仕送りと、少しばかりのバイト代で生活している身だ。デート代だって、彼女に多く出してもらっているのが現状だ。「いいよ、気にしないで」と彼女は笑ってくれるけれど、やはり申し訳ない気持ちと、情けない気持ちは消えない。


彼女の、社会人としての話を聞くのも、少しだけ複雑な気持ちになることがあった。会社の同僚や上司の話、仕事での成功体験や悩み……それは、俺の知らない、大人の世界の話だ。彼女が、その世界でしっかりと自分の居場所を築いているのを感じると、誇らしく思うと同時に、自分がまだその世界に属していないことに、焦りや疎外感のようなものを感じてしまうのだ。


(……俺は、弥生さんに釣り合っているのだろうか……?)

(彼女を、ちゃんと幸せにしてあげられるのだろうか……?)


そんな不安が、ふとした瞬間に、胸をよぎる。

年下の、まだ何者でもない自分が、彼女の隣にいる資格があるのだろうか、と。


弥生さんは、そんな俺の不安を察してか、「航くんは、そのままでいいんだよ」「私は、夢に向かって頑張ってる航くんが好きなんだから」と、いつも優しく励ましてくれる。その言葉に、俺は何度も救われた。


でも、心のどこかで、早く大人になりたい、早く彼女に追いつきたい、という焦りが、常にくすぶっていた。

そのためにも、俺は、小説家になるという夢を、絶対に叶えなければならない。彼女に、胸を張って「俺が幸せにする」と言えるように。


そんな、甘い幸福感と、小さな不安感を抱えながら、俺たちの新しい日常は、ゆっくりと、しかし確実に、進んでいくのだった。


   *


社会人としての日々は、想像していた以上に目まぐるしく、そして刺激的だった。覚えることばかりの仕事、新しい人間関係、そして、学生時代とは違う「責任」という重み。毎日が、あっという間に過ぎていく。

充実感がないわけではない。むしろ、新しい世界に飛び込んだ高揚感と、少しずつ仕事に慣れていく達成感は、私を前向きな気持ちにさせてくれた。


けれど、忙しい日々の中で、ふと、寂しさを感じる瞬間があった。

それは、やはり、航くんと会える時間が減ってしまったことだ。


彼は、大学生になり、新しい生活を謳歌しているようだった。文学部で楽しそうに講義を受け、文芸サークルにも入って、仲間たちと創作活動に励んでいるらしい。彼の世界が広がっていくのは、とても喜ばしいことだ。彼の夢を、心から応援している。

でも、その一方で、彼の隣にいられる時間が減っていくことに、ほんの少しだけ、焦りや不安を感じてしまう自分もいた。彼が、私がいなくても、充実した日々を送れている。その事実に、安堵すると同時に、取り残されたような、寂しさを感じてしまうのだ。


(……私、ちゃんと、彼の彼女でいられてるのかな……)

(年の差とか、立場の違いとか……やっぱり、負担になってるんじゃないかな……)


そんなネガティブな考えが、疲れた夜には、ふと頭をよぎってしまう。彼に、そんな弱音を吐くわけにはいかない。「頼れる年上カノジョ」でいたい、という見栄もある。


そんな、少しだけ心が揺れていた週末。航くんが私の部屋に遊びに来てくれた。彼が淹れてくれたコーヒーを飲みながら、ソファで寄り添って、他愛のない話をする。この時間が、今の私にとって、何よりの癒しだった。


「そういえば、弥生さん。最近、大学のサークルで、面白い子がいて」

彼が、ふと、そんな話を始めた。

「へえ、どんな子?」

「俺と同じで、小説書くのが好きみたいで。俺の投稿サイトの作品も、読んでくれてるらしくて……」

「そうなんだ。良かったね、話が合う子がいて」

私は、笑顔で相槌を打つ。彼の交友関係が広がるのは、良いことだ。そう、頭では分かっている。


「それで、その子が、今度、自分の書いた小説、読んでほしいって言うんですけど……どう思いますか?」

「え? それは、読んであげたらいいじゃない。感想とか、言ってあげたら喜ぶんじゃないかな?」

「そうですかね……? でも、なんか、その子……」

彼は、少しだけ言い淀んだ。

「……時々、すごく距離感が近いというか……。友達、にしては、馴れ馴れしいような気もして……」


……距離感が近い? 馴れ馴れしい?

その言葉に、私の心臓が、チクリと、小さく痛んだ。

それは、女の子だろうか? もしかして、航くんに気がある子……?


「……女の子なの? その子」

私は、努めて平静を装い、何気ない口調で尋ねた。

「あ、はい。そうですけど……」

「へえ……。可愛い子?」

「えっ!? か、可愛いとか、そういうのは……! 分からないですけど……! まあ、元気で、明るい子、ですかね……」

彼は、顔を赤くして、しどろもどろになっている。その反応が、逆に私の不安を煽る。


(……やっぱり、女の子なんだ……。しかも、航くんに気があるかもしれない……)


胸の奥で、黒い靄のようなものが、もくもくと広がっていくのを感じる。

嫉妬だ。分かっている。醜くて、馬鹿らしい感情だってことも。

でも、止められない。彼の周りにいる、私以外の女の子の存在が、気になって仕方がないのだ。


「……そっか。楽しそうだね、大学」

私は、精一杯の笑顔を作って、そう言った。声が、少しだけ震えていたかもしれない。

「え? あ、はい……まあ……」

彼は、私の変化に気づいたのか、少しだけ戸惑ったような顔をしている。


まずい。こんな態度をとってはダメだ。彼を困らせてしまうだけだ。

私は、慌てて話題を変えた。

「あ、そうだ、航くん。この前話してた、新しいケーキ屋さん、今度一緒に行ってみない?」

「え? あ、はい! 行きたいです!」

彼は、ほっとしたように、すぐに笑顔に戻った。


(……危なかった……)


私は、内心で安堵のため息をついた。

でも、一度灯ってしまった嫉妬の火は、そう簡単には消えてくれそうになかった。

彼の大学生活。彼の新しい友人たち。そして、彼に近づくかもしれない、他の女の子たち……。

それらが、これから、私たちの関係に、どんな影響を与えていくのだろうか。


甘い幸福感の中に、確かに存在する、小さな不安の種。

それを、私は、まだ彼に打ち明けることができずにいた。

ただ、彼の隣で、笑顔を浮かべながら、胸の中に灯った小さな火が、これ以上大きくならないようにと、祈るばかりだった。

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