第十九話:穏やかな日々の、確かな幸せ
あの嵐のような夜と、雨上がりの朝を経て、俺と弥生さんの関係は、まるで嵐の後の凪のように、穏やかで、そして以前よりもずっと深く、確かなものになっていた。互いの弱さや不安をさらけ出し、それでも相手を受け入れ、共に未来を歩むことを誓い合った俺たちは、もう以前のように些細なことで揺らぐことはなかった。
出版社からの思いがけない連絡は、俺に新たな希望と目標を与えてくれた。編集者の方との打ち合わせは緊張したが、自分の作品に対する真摯な評価と、的確なアドバイスは、俺の創作意欲をさらに掻き立てた。「すぐにデビューとはいかないが、君の才能に期待している。一緒に面白いものを作っていこう」と言ってもらえた言葉は、何よりも力になった。俺は、プロの作家への道を、ようやく歩み始めたのだ。
大学の講義、サークル活動、そして執筆。忙しい日々であることに変わりはなかったけれど、以前のような焦燥感や孤独感はなかった。隣には、いつも弥生さんがいてくれる。彼女の存在が、俺の全てを支えてくれていた。
週末は、できるだけ二人で過ごす時間を作った。時には話題の映画を見に行ったり、少し遠出して紅葉を見に行ったり。でも、一番好きだったのは、どちらかの部屋で、ただのんびりと過ごす時間だったかもしれない。
弥生さんの部屋は、相変わらず綺麗で、落ち着く空間だ。彼女が淹れてくれる美味しいコーヒーを飲みながら、ソファで寄り添って、それぞれ好きな本を読む。時折、視線が合っては、どちらからともなく微笑み合う。言葉なんてなくても、ただ隣にいるだけで、心が満たされていく。
彼女が仕事で疲れている時は、俺が簡単な料理を作ってあげることもあった。(もちろん、彼女に教えてもらいながらだけど)。「航の作るご飯、美味しいよ」と、彼女が嬉しそうに言ってくれるだけで、俺は天にも昇る気持ちだった。
俺のアパートに彼女が泊まりに来てくれる夜は、さらに特別だった。
狭いベッドで、ぎゅうっと抱き合って眠る。彼女の柔らかな体の感触、甘い香り、穏やかな寝息……。その全てが、俺を深い安心感で包み込んでくれる。
目を覚ますと、腕の中に彼女がいる。その事実だけで、一日が幸せに始まるのだ。
朝、寝ぼけ眼の彼女に「おはよう」のキスをするのは、すっかり俺たちの習慣になっていた。最初は恥ずかしがっていた彼女も、最近では「ん……おはよう、航……」と、可愛らしく応えてくれるようになった。その瞬間が、たまらなく愛おしい。
もちろん、キスだけじゃない。
二人きりの部屋では、俺たちはもっと自然に、互いに触れ合うようになっていた。
ソファで映画を見ている時、そっと彼女の肩を抱き寄せたり、キッチンで料理をしている彼女の後ろから、不意に抱きしめたり。彼女も、驚きながらも、嬉しそうに俺の胸に顔をうずめてきたり、俺の手に自分の手を重ねてきたりする。
その度に、俺の心臓はドキドキと高鳴り、彼女への愛しさが込み上げてくる。
あの夜、初めて結ばれた時の、激しい情熱とは少し違う。もっと穏やかで、慈しむような、深い愛情に基づいた触れ合い。それが、今の俺たちには、何よりも心地よかった。
もちろん、男としての欲求が全くないわけではない。彼女の無防備な姿や、甘えた声には、正直、クラクラさせられっぱなしだ。でも、焦る必要はない。俺たちの時間は、まだたくさんあるのだから。彼女を大切にしたい、という気持ちの方が、今は遥かに強いのだ。
(……本当に、幸せだな……)
彼女の髪を優しく撫でながら、俺は何度もそう思った。
この穏やかで、温かい日々が、ずっと続いていくように。俺は、もっと頑張らなければならない。作家としても、彼女の隣に立つ男としても。
*
航との関係が、嵐を乗り越えて、穏やかで安定したものになってから、私の心にも、本当の意味での平穏が訪れていた。仕事の忙しさは相変わらずだったけれど、以前のような、漠然とした不安や焦燥感は、もう感じなくなっていた。それはきっと、私の隣に、彼という確かな存在がいてくれるからだろう。
彼が、出版社から声をかけられ、本格的に作家への道を歩み始めたことも、私にとっては大きな喜びだった。彼の才能を、私だけじゃなく、他の誰かも認めてくれたのだ。それが、自分のことのように嬉しくて、誇らしかった。もちろん、これから彼がプロとしてやっていくには、たくさんの困難があるだろう。でも、彼ならきっと大丈夫。私が見込んだ人なのだから。私は、彼の「最初の読者」であり、「最高のファン」であり、そして「一番の理解者」として、これからもずっと、彼の夢を支え続けていこうと、改めて心に誓った。
週末に彼と過ごす時間は、私にとって、何よりも大切な癒しの時間だった。
彼の部屋で、少しだけ散らかった本棚を眺めたり、彼が淹れてくれる、ちょっと濃いめのコーヒーを飲んだりするのも好きだった。彼が執筆に集中している間、私は隣で静かに読書をする。時折、彼が「うーん……」と唸る声や、キーボードを叩く音が聞こえてくる。そんな、穏やかで、でも彼の情熱を感じられる空間が、とても心地よかった。
私の部屋で過ごす時は、さらにリラックスできた。彼が隣にいるだけで、仕事の疲れも、日々のストレスも、すうっと消えていくような気がするのだ。
ソファで寄り添って、くだらないテレビ番組を見て笑ったり、彼が買ってきたお気に入りの音楽を一緒に聴いたり。時には、私が少しだけ甘えて、彼の膝枕でうたた寝してしまうこともあった。彼が、優しく私の髪を撫でてくれる感触が、たまらなく気持ちよくて、幸せな夢を見た。
身体的な触れ合いも、以前よりずっと自然になった。
手を繋いで歩くのは、もう当たり前のこと。人前でも、周りの目を気にすることなく、彼の腕にそっと寄り添ったり、彼の肩に頭を預けたりできるようになった。
二人きりの部屋では、もっと大胆になることもあった。彼がソファで本を読んでいると、わざと隣にぴったりとくっついて座ってみたり、彼の膝の上に、ちょこんと座ってみたり。彼は、その度に顔を真っ赤にして、「や、弥生さん……!?」と慌てるけれど、決して拒絶したりはしない。むしろ、少しだけ嬉しそうな顔をするのが、たまらなく可愛いのだ。
キスも、日常の挨拶のように、自然なものになった。
「いってきます」のキス。「おかえり」のキス。「おやすみ」のキス。そして、ただ、愛おしくて、触れたくてする、理由のないキス。
彼の唇は、いつも少しだけ不器用で、でも温かくて、優しくて……触れるたびに、私の心は、とろけるように甘い気持ちで満たされる。
あの夜、初めて結ばれた時の、激しい情熱。それを思い出すと、今でも体が熱くなる。
彼が、私を求めてくれる時の、真剣な眼差し。力強い腕。そして、私の中で一つになる、あの感覚……。
もちろん、毎晩のようにそういう関係になるわけではない。お互いに疲れている時もあるし、ただ寄り添って眠るだけで満たされる夜もある。
でも、二人でベッドに入り、肌と肌が触れ合うと、自然と体が熱を帯びてくるのを感じる。彼の、少しだけ荒くなった呼吸音。私を見つめる、熱っぽい瞳……。
(……航……)
彼の名前を呼ぶと、彼は、私を強く抱きしめ、深いキスを落としてくる。もう、言葉はいらない。ただ、互いの存在を確かめ合うように、求め合うだけ。それは、言葉以上に雄弁な、愛の交歓。この上ない幸福感と、一体感。
こんなにも、誰かを愛おしいと思い、求め、そして満たされることがあるなんて。数ヶ月前の私には、想像もできなかったことだ。
航と出会って、恋をして、そして結ばれて……。私の世界は、本当に、色鮮やかに変わったのだ。
もちろん、未来への不安が完全になくなったわけではない。
彼が作家として成功できるかどうかも分からないし、私たちの「年の差」という現実が、これからどんな影響を及ぼすかも分からない。もしかしたら、また、大きな壁にぶつかることもあるかもしれない。
でも、もう大丈夫。
私たちは、一人じゃないのだから。
どんな困難があっても、二人で手を取り合って、乗り越えていける。
そう、強く信じられる。
穏やかで、温かくて、そして、確かな愛情に満ちた日々。
それは、決して派手ではないけれど、何よりも尊い、私たちの宝物。
この幸せが、ずっと、ずっと続いていくように。
私は、隣で穏やかな寝息を立てている、愛しい年下の恋人の髪をそっと撫でながら、心の中で、そう願うのだった。
私たちのラブコメは、これからも、きっと、たくさんの幸せなページで彩られていくはずだから。




