第十六話:再会、そして正直な言葉
ドアを開けると、そこに立っていたのは、息を切らせ、雨に濡れた航だった。最後に会った時よりもずっと痩せて、顔色も悪い。目の下の隈が、彼がどれだけ苦しんでいたかを物語っていた。でも、その瞳には、以前の迷いや怯えではなく、何か強い決意のような光が宿っている。彼は、ただじっと、涙を浮かべる私を見つめていた。
「……弥生さん……」
彼が、掠れた声で私の名前を呼んだ。その声を聞いただけで、堪えていた涙がまた溢れ出してくる。会いたかった。ずっと、会いたかった。でも、同時に、彼を傷つけてしまった罪悪感で、胸が張り裂けそうだった。
「……航……ごめん……なさい……」
言葉になったのは、謝罪だけだった。あの夜、感情に任せて、彼を深く傷つける言葉をぶつけてしまったこと。彼の夢を、彼の想いを、ちゃんと理解しようとしなかったこと。全てが、後悔となって押し寄せてくる。
彼は、何も言わずに、ただ静かに私を見つめている。その視線が、痛い。どんな言葉で、私を責めるのだろうか。あるいは、もう、何も言う気力すらないのだろうか。別れを告げに来たのだとしたら……私は、それを受け入れるしかないのだろうか。
「……寒いでしょう? とりあえず、中に入って」
涙を拭い、私はなんとか声を絞り出した。彼を、雨に濡れたまま、玄関先に立たせておくわけにはいかない。
彼は、少しだけ躊躇うような素振りを見せたが、やがて、こくりと小さく頷き、部屋の中へと足を踏み入れた。
リビングに通し、タオルを渡す。彼は、黙ってそれを受け取り、濡れた髪や服を拭き始めた。その間も、私たちの間には重たい沈黙が流れていた。何を話せばいいのか、分からない。どんな言葉も、今のこの状況では、空々しく響いてしまうような気がした。
「……温かいものでも、淹れるね」
私がキッチンへ向かおうとすると、彼が、慌てたように私の腕を掴んだ。
「……いえ、いいです。……それより、話が……」
彼の指先が、冷たい。そして、微かに震えている。彼もまた、緊張しているのだ。
私たちは、ソファに向かい合って座った。ローテーブルを挟んで、微妙な距離。互いに、相手の顔を真っ直ぐに見ることができない。部屋の中には、時計の秒針の音と、窓の外で微かに聞こえる、雨上がりの街の音だけが響いていた。
先に口を開いたのは、彼だった。
「……あの……弥生さん……。……本当に、すみませんでした」
彼は、深々と頭を下げた。
「俺、弥生さんの気持ち、全然分かってなくて……。勝手に不安になって、弥生さんを疑うようなこと言って……。ひどい言葉で、傷つけて……。本当に……最低でした……」
その声は、後悔と、自己嫌悪に満ちていた。
「……ううん」
私は、静かに首を横に振った。
「謝るのは、私の方だよ。……航が、必死で夢に向かって頑張ってる時に、私は、自分の不安ばっかりで……。あなたのこと、ちゃんと支えてあげられなかった。それどころか、嫉妬して、あなたを責めて……。本当に、ごめんなさい……」
私も、心からの謝罪の言葉を口にした。涙が、また込み上げてくる。
「……俺、弥生さんが仕事で悩んでるなんて、全然気づかなくて……」
「……私も、航がコンテストのこと、あんなに真剣に考えてるなんて、ちゃんと分かってあげられてなかった……」
互いに、自分の至らなさを認め、相手を思いやる言葉を紡いでいく。それは、決して甘いものではなく、むしろ、自分たちの弱さや醜さと向き合う、痛みを伴う作業だった。
でも、そうやって、正直な気持ちをぶつけ合うことで、私たちの間にあった、見えない壁のようなものが、少しずつ溶けていくような気がした。
「……俺、怖かったんです」
彼が、ぽつりと呟いた。
「……弥生さんが、俺のこと、もうどうでもよくなっちゃったんじゃないかって……。もっと相応しい、大人の男の人が現れたら、俺のことなんて、すぐに忘れちゃうんじゃないかって……」
彼の、素直な不安。それは、私が抱いていた不安と、鏡合わせのようだった。
「……私も、怖かったよ」
私も、正直な気持ちを打ち明けた。
「……航の世界が、どんどん広がっていくのが……。私だけが、取り残されていくような気がして……。年の差とか、立場とか……そういうのが、やっぱり、私たちを引き離しちゃうんじゃないかって……」
互いの、心の奥底にあった、恐怖と不安。
それを、ようやく、言葉にして共有することができた。
それは、決して簡単なことではなかったけれど、必要なことだったのだ。
「……でも」
彼が、顔を上げた。その瞳には、もう迷いはなかった。
「……俺、やっぱり、弥生さんが好きです。……ううん、好き、なんて言葉じゃ足りないくらい、大切です」
「……たとえ、これからどんなことがあっても。俺は、絶対に、弥生さんから離れたくない。……弥生さんの隣に、ずっといたいです」
彼の、真っ直ぐな、そして力強い言葉。
それは、私の心の、一番深いところに、温かく、そして確かに響いた。
涙が、また溢れてくる。でも、それはもう、悲しみや不安の涙ではない。ただ、愛おしさだけで、胸がいっぱいになる。
「……航……」
私は、彼の名前を呼ぶのが精一杯だった。
彼は、ゆっくりと立ち上がり、私の隣に座り直した。そして、震える手で、私の頬にそっと触れた。涙を、優しい指先で拭ってくれる。その感触に、体が微かに震える。
「……弥生さん……。俺、もう一度、チャンスをもらえませんか……?」
彼の瞳が、すぐ近くにある。真剣な、切実な光を宿して、私を見つめている。
(……チャンス、なんて……)
私の方こそ、彼に許してもらいたいのだ。彼を傷つけ、不安にさせたことを。
そして、何よりも……。
「……私も……」
私は、彼の手に、自分の手を重ねた。
「……私も、航のそばにいたい。……ずっと、一緒にいたい……」
涙で、声がうまく出ない。それでも、精一杯の気持ちを込めて、伝えた。
彼は、私の言葉を聞いて、まるで子供のように、顔をくしゃくしゃにして、微笑んだ。その笑顔は、雨上がりの空にかかる虹のように、私の心を明るく照らしてくれた。
次の瞬間、彼は、私を、強く、強く抱きしめた。
彼の腕の中。久しぶりに感じる、彼の匂いと、体温。そして、力強い心臓の鼓動。
ああ、これだ。私が、ずっと求めていたものは。
私は、彼の背中に腕を回し、彼の温もりを、確かめるように、強く抱きしめ返した。
「……ごめんなさい……」
「……俺こそ……」
互いの耳元で、囁くように謝罪の言葉を繰り返す。
そして、どちらからともなく、顔を近づけ……唇を重ねた。
それは、仲直りのキス。
でも、ただの仲直りではない。
離れていた時間によって募った、互いへの渇望。失うかもしれないという恐怖を乗り越えた、深い安堵感。そして、再確認された、揺るぎない愛情。
その全てが込められた、切なくて、そして情熱的なキスだった。
彼の舌が、私の唇をこじ開け、熱く絡みついてくる。息が苦しい。でも、離れたくない。もっと、深く、彼を感じたい。私も、彼の舌を迎え入れ、応えるように、絡ませる。
彼の大きな手が、私の背中を、腰を、そして髪を、優しく、しかし力強く撫でていく。その感触に、体が熱く疼く。忘れかけていた、あの夜の記憶が、鮮やかに蘇ってくる。
(……航……好き……)
心の中で、何度も彼の名前を呼ぶ。
もう、言葉はいらない。ただ、この温もりと、熱だけが、私たちの真実だった。
どれくらいの間、そうしていただろうか。
ようやく唇が離れた時、私たちは、互いに荒い息をつきながら、見つめ合った。彼の瞳の中には、もう迷いはなく、ただ、私への強い愛情と、そして……抑えきれないほどの、雄としての欲求の色が、濃く浮かんでいた。
その、真っ直ぐな視線に、私の体温が、さらに上昇していくのを感じる。
「……弥生……」
彼が、掠れた声で、私の名前を呼ぶ。
「……うん……」
私は、彼の首に腕を回したまま、小さく頷いた。
もう、何も怖くない。
何も、迷わない。
私たちは、もう一度、一つになるのだ。
この、雨上がりの夜に。
新しい始まりを、確かめ合うために。
彼が、私を抱き上げ、寝室へと向かう。その腕の力強さに、私は、全ての不安を手放し、ただ、身を委ねる。
窓の外では、月が、優しい光を投げかけていた。
それは、まるで、不器用な二人の再出発を、静かに祝福してくれているかのようだった。




