第十五話:雨上がりの決意 ~もう一度、君の元へ~
弥生さんと喧嘩し、連絡を絶ってから、どれくらいの時間が経っただろうか。季節は、もうすっかり冬の気配を漂わせ始めていた。冷たい風が吹きすさぶアパートの部屋で、俺は相変わらず、抜け殻のような日々を送っていた。
大学には、なんとか顔を出すようにはなったけれど、講義の内容は全く頭に入ってこない。サークルにも顔を出せず、健太をはじめとする友人たちにも、心配をかけてばかりだった。
そして、何よりも、執筆は完全に止まったままだった。PCの電源を入れることさえ、億劫だった。あの夜、弥生さんを傷つけてしまったという罪悪感と、彼女を失ったかもしれないという喪失感が、俺から全ての意欲を奪い去っていたのだ。
新人賞の締め切りは、もうとうに過ぎていた。もちろん、応募なんてできるはずもなかった。あれほど強く決意したはずの挑戦は、あまりにも呆気なく、失敗に終わった。
(……結局、俺は、何もかも中途半端なんだ……)
夢も、恋も、掴みかけることはできても、最後までやり遂げることができない。自分の弱さと不甲斐なさに、吐き気すら覚える。弥生さんにふさわしい男になるなんて、おこがましいにも程があったのだ。
そんな自己嫌悪に沈む俺の元に、一通の封筒が届いた。それは、応募すらできなかったはずの、あの新人賞の主催出版社からだった。不審に思いながら封を開けると、中には一枚の便箋が入っていた。
『日野航様。この度は、弊社の新人賞にご興味をお持ちいただき、ありがとうございます。誠に残念ながら、今回はご応募が確認できませんでしたが……』
そこまでは、予想通りの文面だった。だが、その後に続く言葉に、俺は目を見開いた。
『……以前、貴殿がウェブサイトにて公開されていた作品『ラブコメを書きたい』を、編集部内で拝読いたしました。粗削りながらも、登場人物への深い愛情と、読者の心を掴む瑞々しい感性に、編集部員一同、強く惹かれるものがありました。もし、よろしければ、一度、詳しいお話を伺えませんか?』
……え?
『ラブコメを書きたい』を? 編集部の人が? 読んでくれた?
しかも、「強く惹かれるものがあった」だって……?
信じられなかった。あの、誰にも読まれないと思っていた、拙い物語が、プロの編集者の目に留まったというのか?
手が、震える。心臓が、ドクドクと音を立てて高鳴る。
もちろん、これがすぐにデビューに繋がるわけではないだろう。ただ、話を聞きたい、というだけかもしれない。それでも……。
それでも、俺にとっては、暗闇の中に差し込んだ、一筋の光のように思えた。
(……まだ、終わってないのかもしれない……)
俺の夢も。そして……。
(……弥生さんとの関係も……)
そうだ。俺は、まだ何も諦めていないじゃないか。
弥生さんのことが、今もどうしようもなく好きなんだ。彼女を失いたくない。もう一度、彼女の笑顔が見たい。彼女の温もりに触れたい。
あの夜、俺は彼女を深く傷つけてしまった。でも、彼女もまた、俺を想ってくれていたはずだ。その気持ちが、簡単に消えてしまうはずがない。そう信じたい。
俺が、変わらなければ。
自分の弱さから目を背けず、ちゃんと彼女と向き合わなければ。
そして、今度こそ、俺の本当の気持ちを、誠実に伝えなければ。
(……会いに行こう。弥生さんに)
今すぐにでも。
謝って、そして、もう一度……。
俺は、ベッドから跳ね起きた。クローゼットから、少しだけましな服を引っ張り出す。鏡を見ると、やつれて、目の下に隈ができた、酷い顔の自分が映っていた。でも、その瞳には、ほんの少しだけ、力が戻っていた。
部屋を飛び出す。外は、数日降り続いた冷たい雨が、ようやく上がったところだった。空には、雲の切れ間から、弱々しいけれど、確かな月明かりが差し込んでいる。濡れたアスファルトが、街灯の光を反射して、きらきらと輝いていた。
雨上がりの、澄んだ空気。それが、今の俺の決意を、後押ししてくれているような気がした。
俺は、彼女の住むマンションへと、全力で走り出した。
届けたい想いがある。伝えたい言葉がある。
もう、迷わない。もう、逃げない。
息を切らせて、彼女のマンションの前にたどり着く。見慣れた建物を見上げ、インターホンを押す指が、震える。
応答がなかったら、どうしよう? もう、会ってもらえなかったら……?
不安がよぎる。でも、もう引き返せない。
ピンポーン……。
数秒の、永遠のように長い沈黙。
そして……。
『……はい』
インターホンから聞こえてきたのは、紛れもなく、彼女の声だった。少しだけ掠れた、でも、紛れもなく、俺の愛しい人の声。
「……弥生さん……俺です……航です……!」
俺は、マイクに向かって叫んでいた。
『……航……?』
彼女の声に、驚きと、戸惑いの色が混じる。
「……話が、あります……! どうしても、伝えたいことが……! お願いします、会ってください……!」
さらに続く、沈黙。
断られるかもしれない、という恐怖。
『……分かった。……上がってきて』
……!
彼女は、会ってくれると言ってくれたのだ!
オートロックが解除される音。俺は、震える足でマンションの中へと入った。エレベーターを待つ時間すらもどかしく、階段を駆け上がる。
彼女の部屋のドアの前で、大きく深呼吸をする。心臓が、張り裂けそうだ。
ドアを、ノックする。
数秒後、ガチャリ、とドアが開いた。
そこには、部屋着姿の弥生さんが立っていた。少しだけやつれたように見えるけれど、その瞳は、真っ直ぐに俺を見つめていた。驚きと、不安と、そして、ほんの少しだけ、何かを期待するような光を宿して。
「……弥生さん……」
俺は、彼女の名前を呼ぶのが精一杯だった。
*
航からの連絡が途絶えて、もう二週間近くが経とうとしていた。私の心は、完全に枯れ果ててしまっていた。仕事はなんとかこなしていたけれど、家に帰れば、ただ彼のことを想い、涙を流すだけの日々。美咲が心配して、何度も連絡をくれたけれど、まともに話をする気力もなかった。
(……もう、本当に終わりなのかな……)
彼を傷つけてしまった後悔と、彼を失うかもしれない恐怖。そして、彼に会いたい、触れたいという、どうしようもないほどの渇望。それらが、私の中で渦巻いて、心をすり減らしていく。
ベッドに横たわり、目を閉じると、あの夜の記憶が鮮明に蘇る。彼の腕の中で感じた、確かな熱と、深い愛情。一つになった瞬間の、あのどうしようもないほどの幸福感と、切なさ……。
体が、疼くように、彼を求めている。でも、もう、あの温もりに触れることはできないのかもしれない。そう思うと、絶望的な気持ちになる。
そんな時、会社で大きな決断を迫られた。あの、海外異動の可能性もある、新しいプロジェクトのリーダー就任の話。上司からは、「返事を、そろそろ聞かせてほしい」と、最終的な意思確認を求められていたのだ。
以前なら、迷わず飛びついていたかもしれない、大きなチャンス。でも、今の私には、その決断を下すことができなかった。航との未来が、あまりにも不透明な今、自分のキャリアだけを考えて突き進むことなんて、できなかったのだ。
(……私にとって、本当に大切なものは、何なんだろう……?)
仕事の成功? キャリアアップ? それとも……航との、未来?
答えは、もう、分かっているはずなのに。彼を失うかもしれないという恐怖が、私を臆病にさせ、決断を鈍らせる。
その夜も、私は一人、部屋で悶々と悩み続けていた。窓の外では、数日降り続いた雨が、ようやく上がったようだった。雲の切れ間から、月明かりが差し込んでいる。
(……雨、上がったんだ……)
なんだか、それは、ほんの少しだけ、希望の光のように思えた。
私も、この長い雨のような気持ちから、抜け出せるのだろうか?
(……ちゃんと、決めなきゃ。自分の未来を。そして、彼との関係も……)
たとえ、どんなに辛い答えが待っていようとも。私は、ちゃんと向き合わなければならないのだ。
その時だった。
ピンポーン……。
静かな部屋に、不意にインターホンの音が響き渡った。
こんな時間に、誰だろう? 美咲かな?
モニターを確認すると……そこに映し出されていたのは、信じられない人物だった。
息を切らせ、雨に濡れた髪を額に貼りつかせ、そして、真剣な、切実な表情で、カメラを見つめている……航だった。
「……弥生さん……俺です……航です……!」
インターホンから、彼の、必死な声が聞こえてくる。
『……航……?』
驚きと、戸惑いで、声が震える。どうして、彼がここに?
「……話が、あります……! どうしても、伝えたいことが……! お願いします、会ってください……!」
彼の、悲痛なほどの叫び。その声に、私の心は、激しく揺さぶられた。
もう、迷っている場合じゃない。私は、彼と向き合わなければならないのだ。
『……分かった。……上がってきて』
震える指で、オートロックの解除ボタンを押す。
心臓が、早鐘のように鳴っている。
怖い。彼が、何を言いに来たのか。もしかしたら、別れを告げに来たのかもしれない。
でも、同時に、ほんの少しだけ、期待もしていた。もう一度、やり直せるかもしれない、という、淡い希望。
玄関のドアの前で、深呼吸を一つする。
そして、ゆっくりと、ドアを開けた。
そこには、息を切らせ、雨に濡れそぼった彼が立っていた。やつれて、目の下には隈ができている。でも、その瞳には、以前よりもずっと強い、決意の光が宿っていた。
彼は、ただ、じっと、私を見つめている。
「……弥生さん……」
彼が、掠れた声で、私の名前を呼んだ。
その声を聞いただけで、私の目からは、また涙が溢れ出してきてしまった。
雨上がりの、静かな夜。
それぞれの痛みを抱えながら、私たちは、再び、向き合おうとしていた。
ここから、何が始まるのだろうか。
それとも、本当に、何かが終わってしまうのだろうか。
答えはまだ、誰にも分からない。




