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第十四話:それぞれの痛み ~距離を置く時間~

バタン、と閉まったドアの音が、やけに大きく部屋に響いた。俺は、弥生さんの部屋を飛び出し、雨の中を当てもなく走っていた。冷たい雨が容赦なく体を打ち、涙なのか雨なのか分からない雫が頬を伝う。


(……なんで、あんなこと言っちまったんだ……)


彼女を傷つけるつもりなんて、なかった。ただ、俺の気持ちを分かってほしくて、彼女の気持ちを確かめたくて……それなのに、出てきたのは、彼女を責めるような、幼稚で、自分勝手な言葉ばかり。

『俺のことなんて、もうどうでもいいんですね』

『俺との未来より、自分のキャリアの方が大事だから……』

最低だ。俺は、なんて最低なことを言ってしまったんだろう。


彼女だって、悩んでいたはずだ。仕事のこと、将来のこと、そして、俺とのこと。それを、ちゃんと聞いてあげることもできずに、ただ自分の不安と嫉嫉心をぶつけてしまった。彼女の涙が、脳裏に焼き付いて離れない。あんなに悲しそうな顔をさせてしまった。俺の手で。


(……もう、終わりだ……)


彼女の部屋のドアが閉まった瞬間、俺たちの関係も、完全に終わってしまったような気がした。彼女の信頼を裏切り、彼女を深く傷つけてしまったのだ。もう、元には戻れないだろう。


アパートに帰り着き、濡れた服のまま、冷たい床に座り込む。部屋の中は、しんと静まり返っていて、それが余計に俺の孤独感を際立たせた。

ついこの間まで、この部屋には彼女がいて、彼女の笑顔と声と香りで満たされていたのに。今はもう、何もない。空っぽだ。


PCの電源を入れる気にもなれない。あんな状態で、ラブコメなんて書けるはずがない。物語の中の主人公は、今まさに、ヒロインに告白しようとしているというのに。現実の俺は、大切な人を傷つけ、失いかけている。なんて皮肉だ。


ベッドに潜り込み、目を閉じる。すると、否応なく、彼女との記憶が蘇ってくる。

初めて手を繋いだ時の、彼女の小さな手の感触。

遊園地で、俺の腕にしがみついてきた時の、柔らかな体の重み。

そして……あの夜、俺の腕の中で、愛おしそうに俺の名前を呼んだ、甘い声。乱れた呼吸。触れ合った肌の熱さ……。


(……弥生さん……)


胸が締め付けられるように痛む。失って初めて気づく、彼女の存在の大きさ。温もり。

もう一度、彼女に触れたい。彼女を抱きしめたい。そして、「ごめんなさい」と伝えたい。

でも、もう、その資格は俺にはないのかもしれない。


「……うっ……うぅ……」

情けない嗚咽が、暗い部屋に漏れた。涙が、止まらなかった。

大切なものを、自分の手で壊してしまった後悔と、どうしようもない喪失感。それが、冷たい雨のように、俺の心を打ち続けていた。



航が部屋を飛び出していった後、私は、しばらくの間、その場に立ち尽くしていた。床には、割れたティーカップの破片が散らばっている。まるで、粉々になった私の心のようだと思った。


(……なんで、あんなこと言っちゃったんだろう……)


『あなただって、最近、私のこと、全然かまってくれなかったじゃない!』

『サークルの女の子と、楽しそうにしてるくせに!』

彼が夢に向かって必死で頑張っているのを、誰よりも分かっていたはずなのに。彼の苦しみを、理解してあげたかったはずなのに。出てきたのは、自分の不安と嫉嫉心からくる、彼を責める言葉だけだった。


彼の、傷ついたような、悲しそうな瞳が忘れられない。

『弥生さんは、俺のこと、そんな風にしか見てなかったんですか……?』

違う。そうじゃないのに。私は、あなたのことを、誰よりも信じて、応援していたのに。


でも、私の言葉は、彼を深く傷つけ、そして、彼を絶望させてしまったのだ。

「もう、いいです」

「俺たち、やっぱり、ダメみたいですね」

そう言って、彼は去っていった。私の制止の声も、届かなかった。


(……終わっちゃった……。本当に、終わっちゃったんだ……)


彼との関係が、こんな形で、あまりにもあっけなく、壊れてしまうなんて。

涙が、また溢れてきた。でも、もう声を上げて泣く気力もなかった。ただ、静かに、頬を伝っていく涙を、拭うこともしなかった。


割れたカップの破片を、ぼんやりと見つめる。キラキラと光るガラスの欠片が、まるで、楽しかった彼との思い出の断片のように見えた。

手を伸ばせば、また元通りになるような気がしたけれど、そんなはずはない。一度壊れてしまったものは、もう二度と、元には戻らないのだ。


その夜、私はほとんど眠ることができなかった。

ベッドに入っても、彼のいない隣が、やけに広く、そして冷たく感じられる。目を閉じれば、彼の笑顔や、彼の声、彼の温もりが蘇ってきて、余計に胸が苦しくなる。

特に、あの夜の記憶……。初めて、本当の意味で結ばれた、あの夜。彼の不器用だけど優しい愛撫、私を求める熱っぽい眼差し、そして、一つになった時の、どうしようもないほどの幸福感……。


(……航……会いたい……。触れたい……)


体が、心が、彼を求めて疼く。でも、もう彼はいない。私が、彼を追い出してしまったのだから。

自己嫌悪と、後悔と、そして、彼への消えない想い。それらが、私の中で渦巻いて、眠りを妨げる。


翌日、私は腫れぼったい目で会社へ向かった。仕事に集中しようとしても、どうしても昨夜の出来事が頭から離れない。ミスを連発し、上司からは「桜井さん、大丈夫か? 今日はもう早退した方がいいんじゃないか?」と心配されてしまう始末だった。


昼休み、私は、たまらず美咲に電話をかけた。

「……もしもし、美咲……? ……私……航くんと、喧嘩しちゃった……。もう、ダメかもしれない……」

電話口で、また涙が溢れてくる。

『……はあ!? あんたたち、一体何があったのよ!?』

美咲は、驚きながらも、私の話を辛抱強く聞いてくれた。そして、一通り聞き終えると、深いため息をついた。

『……馬鹿ねぇ、弥生も、航くんも。どっちもどっちよ、それ』

「……うん……」

『でもさ、まだ終わりって決まったわけじゃないでしょ? ちゃんと、もう一度話してみなさいよ。お互い、冷静になってから』

「……話せるかな……。私、ひどいこと言っちゃったし……。もう、嫌われてるかも……」

『大丈夫だって! あんなにラブラブだったあんたたちが、そんなことで簡単に壊れるわけないでしょ! ……多分だけど』

最後の「多分」が少し気になったが、それでも、美咲の力強い言葉は、少しだけ私の心を軽くしてくれた。


『とにかく、今は少し距離を置いて、頭を冷やすことね。それで、落ち着いたら、ちゃんと連絡して、会いなさい。自分の気持ち、正直に伝えるのよ。いいわね?』

「……うん。……分かった。……ありがとう、美咲」


電話を切った後も、私の心は重かった。

美咲の言う通り、もう一度話すべきだとは思う。でも、怖いのだ。彼に会うのが。そして、彼から、本当に「終わり」を告げられるのが。



あの日以来、俺は完全に抜け殻のようになっていた。大学の講義もサボりがちになり、サークルにも顔を出さず、ただアパートの部屋に引きこもる日々。もちろん、執筆なんてできるはずもなかった。PCの電源を入れることすらなかった。


ただ、ベッドの上で、ぼんやりと天井を見つめているだけ。時間が、ただただ、無意味に過ぎていく。

食事も喉を通らず、体重は確実に減っていた。鏡に映る自分の顔は、生気がなく、まるで幽霊のようだった。


そんな俺を見かねてか、健太が何度かアパートを訪ねてきてくれた。

「おい航、大丈夫かよ!? 全然大学来ないし、連絡もつかねえし! 一体どうしたんだよ!?」

彼は、本気で心配してくれているようだった。

「……別に……」

俺は、力なく答えることしかできない。

「別に、じゃねえだろ! 明らかにおかしいぞ、お前! ……もしかして、弥生さんと何かあったのか?」

健太の鋭い指摘に、俺は顔を伏せるしかなかった。


健太は、それ以上は何も聞かずに、ただ黙って、コンビニで買ってきたらしい弁当や飲み物をテーブルの上に置いてくれた。

「……ちゃんと食えよ。……何かあったら、いつでも聞くからな」

そう言って、彼は帰っていった。友達の優しさが、今はただ、痛かった。


俺は、弥生さんを失ってしまったのかもしれない。

自分の手で、かけがえのない宝物を、壊してしまったのかもしれない。

その事実は、あまりにも重く、俺の心を押し潰していた。


それでも……。

心のどこかで、まだ諦めきれない自分がいた。

もう一度、彼女に会いたい。謝りたい。そして、もし許されるなら……もう一度、やり直したい、と。


でも、どうすればいい?

彼女は、もう俺のことなんて、見たくもないかもしれない。

連絡する勇気も、会いに行く勇気も、今の俺にはなかった。


ただ、無力感と後悔の中で、時間だけが過ぎていく。

それぞれの痛み。それぞれの孤独。

冷却期間という名の、暗く、長いトンネル。

その出口は、まだ、全く見えなかった。

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