第十三話:砕け散るガラス ~誤解と衝突の夜~
新人賞の締め切りが、刻一刻と迫っていた。俺は、完全に缶詰め状態となり、アパートの一室でひたすらキーボードを叩き続けていた。食事はコンビニの弁当かカップ麺、睡眠時間は平均三時間程度。風呂に入る時間すら惜しいと感じるほど、俺は執筆に没頭していた。
弥生さんからの連絡は、ほとんどなかった。いや、正確には、俺が意図的に避けていたのだ。「執筆に集中したい」という大義名分を盾に。本当は、彼女の声が聞きたくて、彼女に会いたくてたまらなかったけれど。今の俺には、その資格がないような気がしていた。中途半端な状態で彼女に会えば、きっとまた弱音を吐いて、彼女を困らせてしまうだろうから。
(……もう少しだ。もう少しで、この物語は完成する)
(そしたら、胸を張って、弥生さんに会いに行ける)
そう自分に言い聞かせ、俺は最後の力を振り絞っていた。物語は、クライマックスへと向かっている。主人公が、ついにヒロインに想いを告げる、あのシーンだ。以前はあれほど書けなかったのに、不思議と今は、言葉が溢れてくる。それはきっと、このコンテストに懸ける俺自身の覚悟と、そして、弥生さんへの想いが、主人公の感情と完全にシンクロしているからだろう。
『好きだ。……ずっと、言えなかったけど。あなたのことが、どうしようもなく、好きだ』
『俺じゃ、頼りないかもしれない。年下だし、まだ何も持っていないけど……。それでも、あなたの隣にいたい。あなたを、幸せにしたいんだ』
それは、俺自身の、心の叫びそのものだった。
書き上げた原稿を読み返し、推敲を重ねる。これでいいのだろうか? もっと良い表現はないだろうか? 締め切りが近づく焦りと、完璧なものを書き上げたいという欲求。アドレナリンが脳内を駆け巡り、疲労感すら感じなくなっていた。
そんな、極限状態とも言える日々が続いていた、ある夜のことだった。
執筆に一区切りつけ、凝り固まった体を伸ばそうと立ち上がった瞬間、スマホがメッセージの着信を告げた。弥生さんからだった。久しぶりの、彼女からの連絡。俺の心臓が、ドキリと跳ねた。
『航、今、少しだけ電話してもいいかな?』
珍しく、呼び捨てだった。そして、その文面からは、どこか切羽詰まったような、ただならぬ雰囲気が感じられた。何かあったのだろうか?
俺は、すぐに電話をかけ直した。
「もしもし、弥生さん? どうかしましたか?」
『……航……? ……ごめんね、忙しい時に……』
電話の向こうの彼女の声は、ひどくか細く、そして震えていた。明らかに、様子がおかしい。
「いえ、大丈夫です! それより、弥生さんこそ、何かあったんですか!? 声、震えてますよ!?」
心配で、思わず声が大きくなる。
『……ううん……なんでもないの……。ただ……ちょっと、航の声が聞きたくなって……』
彼女は、そう言って、無理に明るい声を出そうとしたが、その声は途中で途切れてしまい、小さな嗚咽に変わった。
「弥生さん!?」
彼女が、泣いている……!?
一体、何があったんだ? 仕事で、何か辛いことでもあったのだろうか? それとも……。
俺の頭の中に、嫌な予感がよぎる。
「今、どこにいるんですか!? 俺、すぐ行きますから!」
居ても立ってもいられず、俺は叫んでいた。
『……ううん、大丈夫だから……。本当に、気にしないで……』
彼女は、そう言いながらも、しゃくりあげている。大丈夫なはずがない。
「大丈夫じゃないです! 俺、行きます! 今すぐ!」
俺は、上着を掴むと、部屋を飛び出した。雨が降っていたが、傘を差すのももどかしく、夜の街を全力で疾走した。彼女のマンションまで、走れば十分もかからないはずだ。
(弥生さん、待ってて……!)
彼女が、一人で泣いている。その事実だけで、俺の胸は張り裂けそうだった。早く、彼女のそばへ行かなければ。彼女を、抱きしめてあげなければ。
息を切らせて、彼女のマンションの前にたどり着く。オートロックのインターホンを鳴らすと、すぐにドアが開いた。エレベーターで彼女の階へと上がり、息を整える間もなく、彼女の部屋のドアをノックする。
ガチャリ、とドアが開いた。
そこには、目を真っ赤に腫らし、涙でぐしゃぐしゃになった顔の弥生さんが立っていた。部屋着のスウェット姿で、髪も少し乱れている。いつも完璧な彼女からは想像もつかない、ひどく弱々しい姿だった。
「……航……? どうして……?」
彼女は、驚きと、戸惑いの表情で、俺を見上げた。
「……心配で、来ちゃいました」
俺は、息を切らせながら、それだけを言うのが精一杯だった。
彼女の瞳から、また、ぽろぽろと涙が零れ落ちる。
「……ごめん……ごめんね……航……」
彼女は、そう言うと、俺の胸に、すがりつくように顔をうずめてきた。
俺は、何も言わずに、彼女の華奢な体を、強く、強く抱きしめた。震える背中を、優しく撫でる。彼女の涙が、俺のTシャツを濡らしていく。甘い香りと、涙のしょっぱい匂いが混じり合う。
(……一体、何があったんだ……?)
俺は、彼女が落ち着くのを待ちながら、ただ、ひたすらに、彼女を抱きしめ続けた。
*
航が、私の部屋に来てくれた。
電話で、泣きじゃくる私を心配して、雨の中を走ってきてくれたのだ。
ドアを開けた瞬間、息を切らせて、心配そうな顔で私を見つめる彼の姿を見て、堪えていた涙が、また一気に溢れ出してしまった。
「……ごめん……ごめんね……航……」
私は、彼の胸に顔をうずめて、子供のように泣きじゃくった。彼の腕の中で、彼の温もりを感じていると、張り詰めていたものが、ぷつりと切れてしまったのだ。
何があったのか――それは、今日、会社であった出来事がきっかけだった。
上司から、正式に、あの新しいプロジェクトのリーダー就任と、それに伴う、数年後の海外支社への異動の内示を受けたのだ。それは、私にとって、大きなキャリアアップのチャンスであると同時に、航との未来を、根本から揺るがしかねない、重大な選択だった。
断るべきか、受けるべきか。
受ければ、私の夢には近づけるかもしれないけれど、彼との時間は、確実に失われるだろう。最悪の場合、別れることになるかもしれない。
断れば、彼との時間は守れるかもしれないけれど、私は、自分の夢を諦めることになる。そして、そのことを、いつか後悔するかもしれない。彼を、恨んでしまうかもしれない。
どちらを選んでも、苦しい。
答えが出せずに、一人で悩み、苦しんでいた。誰にも相談できずに。航には、特に言えなかった。彼に、負担をかけたくなかったし、彼に、選択を迫るようなことをしたくなかったからだ。
でも、一人で抱え込むには、あまりにも重すぎた。
寂しさと、不安と、将来への恐れ。それらが、一気に押し寄せてきて、私は、完全に潰れてしまいそうだったのだ。
それで、思わず、彼に電話をかけてしまった。声が聞きたい、ただそれだけで。でも、彼の優しい声を聞いたら、堪えきれずに、泣き出してしまったのだ。
彼は、何も聞かずに、ただ、強く私を抱きしめてくれた。その腕の中で、私は、ようやく少しだけ、落ち着きを取り戻すことができた。
「……落ち着きましたか?」
彼が、優しい声で尋ねてくる。
私は、彼の胸から顔を上げ、涙で濡れた顔を見られないように、俯いたまま、こくりと頷いた。
「……ごめんね。……びっくりさせちゃったよね」
「いえ……。それより、何かあったんですよね? 俺でよければ、話してください」
彼の、真剣な眼差し。その瞳には、心配と、そして私を支えたいという強い意志が宿っていた。
(……話しても、いいのかな……?)
迷った。でも、もう隠し通せることではない。それに、彼になら、話せるかもしれない。彼は、きっと、私の気持ちを、ちゃんと受け止めてくれるはずだから。
私は、ぽつりぽつりと、今日あった出来事……プロジェクトリーダーへの抜擢と、海外異動の内示について、そして、それに対する自分の迷いや不安について、正直に打ち明け始めた。
私の話を、彼は、黙って、真剣な表情で聞いていた。
そして、私が話し終えると、彼は、しばらくの間、何も言わずに、ただじっと、私の目を見つめていた。その瞳の奥の色は、読み取ることができない。彼は、一体、どう思っているのだろうか……?
やがて、彼は、ゆっくりと口を開いた。
「……すごいじゃないですか、弥生さん」
その声は、静かだったけれど、どこか、硬質な響きを帯びていた。
「え……?」
「海外……ですか。……弥生さんの、夢だったんですか?」
「……ううん、そこまで具体的に考えてたわけじゃ……。でも、編集者として、もっと成長したい、色々な経験をしたいっていう気持ちは、ずっとあったから……。だから、大きなチャンスだとは、思うんだけど……」
「……そうですか」
彼は、それだけ言うと、また黙り込んでしまった。
その、あまりにも冷静な反応に、私は、不安を覚えた。彼は、怒っているのだろうか? それとも、呆れているのだろうか? あるいは……もう、私との未来なんて、どうでもよくなってしまったのだろうか?
「……航……?」
恐る恐る、彼の名前を呼ぶ。
彼は、ゆっくりと顔を上げた。その表情は……見たことのないほど、冷たく、そして傷ついたような色を浮かべていた。
「……俺のことなんて、もうどうでもいいんですね」
「え……?」
「……弥生さんは、自分の夢が叶うなら、俺とのことなんて、簡単に捨てられるんですね」
彼の声は、低く、震えていた。
「ち、違う! そんなことない!」
私は、必死で否定した。
「どうして、そんなこと言うの!? 私が、どれだけ航のこと、大切に思ってるか……!」
「……嘘だ」
彼は、私の言葉を遮った。
「嘘だ! だって、弥生さん、俺に相談もしなかったじゃないですか! 俺との未来より、自分のキャリアの方が大事だから……俺のことなんて、もう、どうでもよくなったから……!」
彼の言葉が、鋭い刃物のように、私の胸に突き刺さる。
違う。そうじゃない。彼に負担をかけたくなかっただけなのに。彼を、傷つけたくなかっただけなのに。
でも、私の行動は、結果的に、彼を深く傷つけ、そして、彼に絶望的な誤解を与えてしまっていたのだ。
「……ひどい……」
彼の瞳から、一筋の涙が零れ落ちた。
「……俺、弥生さんのこと、信じてたのに……!」
その涙を見て、私の頭は、完全に真っ白になった。
違う。誤解なんだ。でも、どう説明すればいい? どうすれば、私の本当の気持ちを、彼に信じてもらえる?
パニックになった私は、思わず、叫んでいた。
「……航だって、同じじゃない!」
「え……?」
「……あなただって、最近、私のこと、全然かまってくれなかったじゃない! 執筆に集中したいって言って、連絡もくれなくて……! サークルの女の子と、楽しそうにしてるくせに!」
言ってはいけない言葉だった。彼が夢に向かって必死で頑張っていることを、誰よりも理解していたはずなのに。嫉妬心と、傷つけられたことへの反動で、私は、彼を責める言葉をぶつけてしまっていたのだ。
彼の顔から、さっと血の気が引いた。
「……弥生さん……本気で、言ってるんですか……?」
その声は、震えていた。怒りではなく、深い、深い悲しみに。
「……俺が、どれだけ弥生さんのことを想って、この小説を書いてるか……弥生さんなら、分かってくれてると思ってた……」
「……サークルの子なんて、ただの友達なのに……。弥生さんは、俺のこと、そんな風にしか見てなかったんですか……?」
違う。違うのに。
言葉が出てこない。ただ、涙が溢れてくるだけ。
「……もう、いいです」
彼は、力なく、そう呟いた。
「……俺たち、やっぱり、ダメみたいですね。……年の差とか、立場とか……そういうの、乗り越えられないのかもしれない……」
彼は、ゆっくりと立ち上がった。そして、一度もこちらを振り返ることなく、部屋のドアへと向かう。
「……待って……! 航……!」
私は、必死で呼び止めた。でも、彼は、足を止めなかった。
ガチャリ、とドアノブが回る音。
そして、バタン、とドアが閉まる、冷たい音。
部屋の中に、私一人だけが取り残された。
静寂。
ただ、窓の外の雨音だけが、やけに大きく聞こえる。
床に置かれていた、ティーカップが、私の震える手から滑り落ちた。
パリン!
甲高い音を立てて、それは粉々に砕け散った。
まるで、私たちの、関係そのもののように。
涙が、止まらなかった。
後悔と、絶望と、そして、どうしようもないほどの、彼への想い。
その全てが、私の中で渦巻いて、心をめちゃくちゃにかき乱していく。
(……どうして、こんなことに……)
ただ、愛しているだけなのに。
ただ、一緒にいたいだけなのに。
どうして、こんなにも、傷つけ合ってしまうのだろう。
砕け散ったガラスの破片のように、私の心も、バラバラになってしまいそうだった。
雨は、まだ、降り続いていた。
それは、まるで、終わりのない、悲しみの涙のように。




