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第十二話:弥生の岐路 ~未来への選択~

新人賞への応募を決意してから、俺の生活は一変した。大学の講義以外の時間は、ほぼ全てを執筆に捧げる日々。食事も睡眠も最小限に削り、アパートに籠ってひたすらキーボードを叩き続ける。まるで、何かに憑かれたかのように。


弥生さんには、「執筆に集中したいので、しばらく連絡できません」と、一方的なメッセージを送ってしまった。本当は、毎日でも声が聞きたいし、会いたい気持ちでいっぱいだったけれど。中途半端な覚悟では、この挑戦は乗り越えられないと思ったのだ。そして、今の俺には、彼女を不安にさせてしまう自信しかなかったから。


彼女からの返信は、「分かった。頑張ってね。応援してる」という、短いけれど温かいものだった。その言葉を胸に、俺は孤独な戦いに身を投じた。


弥生さんのことを考えない日はなかった。

執筆に行き詰まると、彼女の笑顔が頭に浮かぶ。彼女がくれたアドバイスを思い出す。彼女と一緒に過ごした、甘く幸せな記憶……。特に、あの夜、俺の腕の中で眠った彼女の無防備な寝顔や、朝日に照らされた柔らかな肌の感触は、鮮明に脳裏に焼き付いていて、思い出すたびに胸が締め付けられるような、切ない気持ちになった。


(……早く、終わらせて、弥生さんに会いたい……)


その想いが、俺を突き動かす原動力だった。彼女に、胸を張って「頑張ったよ」と報告したい。そして、また、あの温かい腕の中に、包まれたい。


締め切りが近づくにつれ、プレッシャーは増していく。書けば書くほど、自分の未熟さや才能のなさを痛感させられる。本当に、これでいいのだろうか? こんな物語で、人の心を動かすことなんてできるのだろうか? 不安に押しつぶされそうになる夜もあった。


それでも、俺は書くことをやめなかった。

これは、俺の夢への挑戦であると同時に、弥生さんへの想いを証明するための戦いでもあるのだから。

俺は、ただひたすらに、言葉を紡ぎ続けた。いつか、この物語が、彼女のもとへ届くことを信じて。


   *


航からの連絡が途絶えて、もうどれくらい経つだろうか。最初は、「執筆に集中したい」という彼の言葉を信じ、健気に応援しようと思っていた。彼の夢を、一番に応援できる彼女でありたい、と。


でも、日が経つにつれて、寂しさは確実に募っていった。メッセージを送っても、返ってくるのは数日に一度、スタンプ一つだけ、ということも珍しくない。電話をしても、繋がらない。彼が、今、どこで、何をしているのか、どんな気持ちでいるのか……何も分からない。それが、たまらなく不安だった。


(……私、本当に、彼の邪魔になってないかな……)

(彼にとって、私はもう、必要のない存在なんじゃないかな……)


そんなネガティブな考えが、また頭をもたげてくる。仕事で疲れている夜は、特にそうだ。一人きりの部屋で、彼のことを考えていると、涙が止まらなくなることもあった。


ベッドに横たわり、目を閉じる。すると、あの夜の記憶が蘇ってくる。彼が私の部屋に泊まりに来てくれた夜。初めて、本当の意味で結ばれた夜。彼の力強い腕、熱いキス、そして、私を求める真剣な眼差し……。思い出すだけで、体が熱くなる。そして、同時に、切なさで胸が締め付けられる。


(……航……触れたい……)


彼の温もりを、もう一度感じたい。彼の腕の中で、安心して眠りたい。

満たされない想いが、体の奥底で疼く。こんなにも、誰かを強く求めたのは、初めてかもしれない。


そんな、心も体も、彼への渇望でいっぱいになっていた、ある日のこと。

職場で、私にとって大きな転機となる出来事が起こった。


「桜井さん、ちょっといいかな?」

上司に呼ばれ、会議室へと向かう。少し緊張しながら席に着くと、上司は、予想外の話を切り出してきた。

「君に、新しいプロジェクトのリーダーを任せたいと思っているんだ」


……リーダー? 私が?

まだ入社して一年も経っていない、新人の私が?


驚きで言葉が出ない私に、上司は続けた。

「もちろん、簡単な仕事じゃない。うちとしても、かなり力を入れている大きな企画だ。それに……成功すれば、将来的に、海外の支社への異動、なんていうキャリアパスも開けてくる」


海外……支社……?

それは、私にとって、全く考えてもいなかった未来だった。編集者として、もっと成長したい、という気持ちはあったけれど、まさか海外で働くなんて……。


「……期待しているよ、桜井さん。君なら、きっとやり遂げられるはずだ」

上司は、そう言って、私の肩をポンと叩いた。


会議室を出ても、私の頭の中は混乱していた。

大きなチャンスだ。それは間違いない。このプロジェクトを成功させれば、私のキャリアは大きく開けるだろう。ずっと憧れていた、世界を舞台に働く、という夢に、一歩近づけるかもしれない。


でも……。

その選択は、同時に、航との未来に、大きな影響を与えることも意味していた。

もし、私がこのプロジェクトに全身全霊で打ち込むことになったら? さらに彼との時間は減ってしまうだろう。

もし、将来的に、海外へ行くことになったら……? 彼との関係は、どうなってしまうのだろうか?


(……どうしよう……)


自分の夢と、彼との未来。

その二つを、天秤にかけることになるなんて。


私は、一人で悩み始めた。

航に、相談すべきだろうか?

でも、彼は今、自分の夢に向かって、必死で頑張っているのだ。そんな彼に、私の個人的な悩みで、さらに負担をかけるわけにはいかない。それに、もし相談して、彼が「弥生さんの夢を応援します」と言ってくれたとしても……それは、本心なのだろうか? 私たちの関係よりも、自分の夢を選んだ、と彼を傷つけてしまうのではないだろうか?


かといって、このチャンスを諦める?

自分の夢を、彼のために犠牲にする?

それは、本当に、私が望むことなのだろうか? そして、そんな私を、彼は本当に望んでくれるのだろうか?


答えが出ないまま、時間だけが過ぎていく。

航からの連絡は、相変わらずない。

私は、一人きりで、重たい決断を迫られていた。


仕事帰り、ふと、あの書店に立ち寄ってみた。

あの日、佐伯先輩に嫌味を言われ、そして、航が「俺が弥生さんを守ります」と言ってくれた、思い出の場所。

専門書のコーナーを歩きながら、あの日のことを思い出す。彼の力強い言葉、繋いだ手の温もり……。


(……航……私は、どうしたらいいのかな……?)


心の中で、彼に問いかける。もちろん、答えが返ってくるはずはない。

でも、彼のことを考えていると、少しだけ、心が温かくなるような気がした。


そうだ。私は、一人じゃないのだ。

たとえ今、彼と離れていても、私たちの心は繋がっているはずだ。

だから、私は、私自身の力で、この選択に向き合わなければならない。

そして、どんな道を選んだとしても、彼になら、きっと理解してもらえるはずだ。そう、信じたい。


私は、一冊の本を手に取った。それは、以前、航が「面白い」と言っていた作家の新刊だった。

レジへと向かいながら、私は、少しだけ、心が軽くなっているのを感じていた。


まだ、答えは出ていない。

でも、一人で悩み続けるのはやめよう。

ちゃんと、自分の気持ちと向き合って、そして、いつか、航にも話そう。

それが、私たちらしいやり方のはずだから。


外に出ると、冷たい夜風が頬を撫でた。

空には、細い月が浮かんでいる。

私は、その月を見上げながら、そっと呟いた。


「……待っててね、航」


私たちの未来のために、私は、ちゃんと前を向かなければならないのだ。

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