第十一話:航、夢への挑戦 ~ペンに込める想い~
弥生さんとの間に流れる、重く、冷たい空気。連絡は途絶えがちになり、会えない日々が続く。俺は、自分の不甲斐なさと、彼女を不安にさせているかもしれないという罪悪感に苛まれ、完全に自信を失っていた。執筆活動も、完全に停止状態。PCの前に座ることすら、億劫になっていた。
(……このままじゃダメだ……)
分かっている。このまま、うじうじと悩み続けていても、何も変わらない。弥生さんとの関係も、俺自身の夢も、全てを失ってしまうかもしれない。
何かを変えなければ。何か、行動を起こさなければ。
でも、何をすればいい?
弥生さんに、どう接すればいい?
そして、書けなくなったこのスランプを、どうすれば抜け出せる?
答えが見つからないまま、焦りだけが募っていく。そんな時、ふと、大学の掲示板に貼られていた一枚のポスターが、俺の目に留まった。
それは、とある出版社が主催する、新人賞の募集要項だった。ジャンルは、ライトノベル。大賞受賞者には、書籍化デビューの確約と、賞金が贈られる、という。
(……新人賞……)
以前なら、「俺なんかが応募しても、どうせ無理だ」と、最初から諦めていたかもしれない。
でも、今の俺には、なぜか、そのポスターが、まるで一条の光のように見えたのだ。
(……これだ……!)
これしかない、と思った。
今の、この停滞した状況を打破するには。自信を失いかけている自分自身を奮い立たせるには。そして、何よりも……弥生さんに、俺の想いを、俺の覚悟を示すためには。
このコンテストに、全てを懸けてみるしかない、と。
もし、このコンテストで結果を出せれば……。
たとえ大賞は無理でも、最終選考に残ったり、少しでも評価されたりすれば……。
俺は、少しだけ、自分に自信を持てるかもしれない。
そして、弥生さんに対しても、胸を張って、「俺は、ちゃんと夢を追いかけてるんだ」と、言えるかもしれない。
それは、彼女を不安にさせてしまったことへの、俺なりの償いにもなるのではないか?
もちろん、簡単なことではない。むしろ、無謀な挑戦かもしれない。
でも、今の俺には、これしか道がないような気がしたのだ。
(……やるしかない)
決意は固まった。
俺は、その日から、人が変わったように、執筆に没頭し始めた。
応募する作品は、もちろん、今書いている、弥生さんとのリアルな恋愛経験を元にした、あのラブコメだ。まだ完成には程遠いが、締め切りまでは、まだ時間がある。寝る間も惜しんで書けば、なんとかなるかもしれない。
不思議なことに、明確な目標ができたことで、あれほど頑なに動かなかった指が、再びキーボードの上を走り始めたのだ。もちろん、すぐにスランプを完全に脱したわけではない。相変わらず、表現に悩んだり、展開に詰まったりすることはある。
でも、以前のような、絶望的な閉塞感はなかった。
(……弥生さんに、読んでもらいたい)
(弥生さんに、俺の想いを、届けたい)
その一心だった。
この物語を完成させることが、今の俺にできる、唯一の、彼女へのメッセージのような気がしたのだ。
俺は、大学の講義以外の時間のほとんどを、執筆に費やした。サークルの活動も休みがちになり、友人からの誘いも断ることが増えた。食事も、睡眠も、最低限。部屋に籠り、ただひたすらに、PCの画面と向き合い続けた。
それは、苦しいけれど、同時に、どこか充実した時間でもあった。
物語の世界に没頭している間だけは、現実の不安や悩みを、少しだけ忘れることができたからだ。そして、書けば書くほど、主人公とヒロインの絆が深まっていくように、俺自身の、弥生さんへの想いもまた、より強く、確かなものになっていくのを感じていた。
特に、二人が身体的に結ばれるシーンを書いている時は、自分でも驚くほど、筆が乗った。
あの夜の、弥生さんの部屋での記憶。彼女の柔らかな肌の感触、甘い吐息、潤んだ瞳、そして、俺を受け入れてくれた時の、あの表情……。それらを、できるだけ繊細に、そして、読者の想像力を掻き立てるように、言葉を選びながら描写していく。
『触れ合った肌から伝わる熱が、部屋の温度をさらに上げていくようだった。彼女の白い首筋に顔をうずめると、甘い香りが鼻腔をくすぐり、理性が溶けていく。求め合う視線、重なる吐息、そして、一つになる瞬間の、どうしようもないほどの幸福感と、切なさ……。』
書いているうちに、俺自身の体まで熱くなってくるのを感じる。
弥生さんに触れたい。彼女を抱きしめたい。あの夜のように、深く繋がりたい。
そんな、抑えきれないほどの渇望が、胸の奥から込み上げてくる。
(……弥生さん……)
彼女の名前を、心の中で何度も呟く。
会えない時間が、想いをさらに募らせる。
でも、今は、我慢しなければならない。
この物語を完成させるまでは。
そして、このコンテストで、少しでも結果を出すまでは。
彼女に、胸を張って会えるようになるまでは。
俺は、込み上げてくる感情を、全てペン(キーボード)にぶつけるように、さらに執筆に没頭していく。
それは、まるで、自分自身への試練のようでもあった。
夢への挑戦。そして、彼女への想いを証明するための、孤独な戦い。
窓の外で、季節が移り変わっていくことにも気づかずに、俺はただ、書き続けた。
彼女の笑顔を、思い浮かべながら。
*
航からの連絡は、ほとんど途絶えた。
たまにメッセージを送っても、返ってくるのは「執筆に集中したいので、しばらく連絡できません。すみません」という、短い、事務的なものだけ。電話をかけても、留守電になるか、あるいは「ごめん、今、手が離せない」と、すぐに切られてしまう。
最初は、戸惑った。そして、不安になった。
やはり、あの公園でのデートや、その後の私の態度が、彼を遠ざけてしまったのだろうか? もう、私のことなんて、どうでもよくなってしまったのだろうか?
そんなネガティブな考えに囚われそうになった時、共通の友人である健太くん(航くんから紹介してもらっていた)に、偶然大学の近くで会った。
「あ、弥生さん! ちわーっす!」
彼は、相変わらず軽いノリで話しかけてきた。
「健太くん、こんにちは」
「最近、航のやつ、見かけないんすけど、元気してます? あいつ、弥生さんと喧嘩でもしたんすか?」
図星を突かれて、ドキリとする。でも、ここで本当のことを言うわけにもいかない。
「ううん、喧嘩はしてないよ。ただ、彼、今、すごく大事な小説を書いてて……。新人賞に応募するんだって。だから、ちょっと、集中してるみたい」
私がそう言うと、健太くんは「へえー! 新人賞!?」と目を丸くした。
「マジすか!? あいつ、本気なんすね! ……なるほど、それで最近、サークルも休みがちで、付き合い悪かったんすね……」
彼は、納得したように頷いた。そして、少しだけ、心配そうな顔になった。
「でも、あいつ、大丈夫なんすかね? なんか、最近、顔色も悪かったし……。弥生さん、ちゃんと見ててあげてくださいよ?」
「……うん。分かってる」
健太くんとの会話で、私はようやく、航が連絡を絶っている理由を知った。彼は、私を避けているのではなく、ただ、自分の夢に、全身全霊で打ち込んでいるだけなのだ、と。
それを知って、ほっとした。と同時に、彼に何も言われずに、勝手に不安になっていた自分が、少しだけ恥ずかしくなった。
(……そっか。頑張ってるんだね、航……)
彼の、夢に向かう真剣な姿を想像すると、胸が熱くなる。応援したい。心から、そう思う。
でも……。
やはり、寂しい気持ちは、消えないのだ。
彼が執筆に没頭している間、私は、一人で過ごす時間が増えた。仕事が終わって、家に帰っても、彼からの連絡はない。週末も、会う約束はない。
ぽっかりと空いてしまった時間を、どう埋めればいいのか分からない。
本を読んだり、映画を見たりしても、どこか集中できない。美味しいものを食べても、なんだか味がしない。
(……私、航がいないと、ダメなのかな……)
そんな弱気な自分が、嫌になる。
私は、彼の「年上カノジョ」なのだから。もっと、しっかりしなければ。彼が安心して夢を追えるように、どっしりと構えて、待っていなければ。
頭では分かっている。でも、心が、どうしても寂しさを訴えてくるのだ。
特に、一人でベッドに入る夜は、辛かった。
隣に、彼の温もりがない。彼の寝息が聞こえない。
目を閉じると、あの夜の記憶が、鮮やかに蘇ってくる。
彼の力強い腕、熱いキス、そして、一つになった瞬間の、あの感覚……。
(……航……会いたい……)
彼の名前を、小さく呟く。
涙が、枕を濡らす。
満たされない想いが、体の奥底で、疼くように痛む。
彼に触れたい。彼の温もりを感じたい。彼に、愛されたい。
そんな、どうしようもないほどの渇望が、私を襲う。
(……ダメだ、私。しっかりしなきゃ……!)
私は、涙を拭い、ぎゅっと目を瞑った。
彼を信じよう。彼の夢を、応援しよう。
そして、彼が戻ってくる場所を、私がちゃんと守っていよう。
それが、今の私にできる、唯一のことなのだから。
私は、彼からの連絡を、ただひたすらに待ち続けた。
寂しさを、仕事への情熱に変えるように。
彼の成功を、心から祈りながら。
季節は、秋から冬へと、静かに移り変わろうとしていた。
窓の外では、冷たい木枯らしが吹き始めている。
それぞれの場所で、それぞれの想いを抱えながら、私たちの時間は、ゆっくりと、そして確実に、流れていく。
次に会えるのは、いつになるのだろうか。
その時、私たちは、どんな顔で、互いを迎え入れるのだろうか。
焦りと、迷い。
寂しさと、期待。
そして、それでも消えない、互いへの深い想い。
そんな、複雑な感情を抱えたまま、それぞれの夜は、深く、そして静かに、更けていくのだった。




