第十話:焦りと迷い ~それぞれの夜~
公園での、どこかぎこちないデート。楽しかった記憶よりも、むしろ埋められなかった距離感が、重く心に残ったまま、数日が過ぎた。あの夜、「少し話したいことがある」と、彼――航にメッセージを送ろうとしたけれど、結局、送信ボタンを押すことはできなかった。なんて切り出せばいいのか、どんな言葉を選べばいいのか、分からなかったのだ。そして、その躊躇いが、私たちの間にさらなる溝を作ってしまうことになるなんて、その時の私は思ってもみなかった。
私から連絡をしなかったせいか、彼からの連絡も、目に見えて減っていった。毎日のように交わしていた「おはよう」「おやすみ」のメッセージも、どちらからともなく途絶えがちになり、電話で話すこともなくなった。たまにメッセージを送っても、返ってくるのは数時間後、時には翌日になってからで、その内容も「すみません、気づきませんでした」「今、ちょっと立て込んでて」といった、短い、どこか壁を感じさせるものばかり。
(……やっぱり、避けられてる……?)
その疑念は、日増しに確信へと変わっていった。彼が忙しいのは分かる。大学の講義やサークル、そして何よりも、彼の夢である小説の執筆。でも、以前はどんなに忙しくても、必ず時間を作って連絡をくれたはずだ。今のこの状況は、明らかに異常だった。
原因は、分かっている。私だ。
公園でのデートで、私が素直になれず、ぎこちない態度をとってしまったから。そして、彼が抱えているであろう悩みや不安に、ちゃんと寄り添ってあげられなかったから。彼を、一人で苦しませてしまっているのかもしれない。
あるいは……あの書店での一件。佐伯先輩に言われた、年の差についての心ない言葉。あれが、彼の心に深い傷を残してしまったのかもしれない。「俺なんかじゃ、弥生さんに釣り合わない」と、彼をさらに追い詰めてしまったのかもしれない。
(……どうしよう……。私が、何とかしなきゃ……)
そう思うのに、行動に移せない。
どんな顔をして、彼に連絡すればいい? なんて声をかければいい?
また、彼を傷つけてしまったら? あるいは、もう手遅れで、彼に「そっとしておいてほしい」と言われてしまったら……?
そう考えると、怖くて、指が動かないのだ。
社会人になってからの忙しさも、私の心を蝕んでいた。新しい仕事はやりがいがあるけれど、覚えることも多く、プレッシャーも大きい。連日の残業で、心身ともに疲れ果てていた。家に帰ると、もう何もする気力が起きず、ただベッドに倒れ込むだけの日々。彼を支えてあげたいのに、その余裕すらない自分が、情けなかった。
『無理しないでくださいね』
以前、彼が送ってくれたメッセージ。その優しい言葉が、今は胸に痛い。
彼だって、きっと今、苦しんでいるはずなのに。私は、彼に何もしてあげられていない。
一人きりの、冷たいベッドに横たわる。隣には、もう彼の温もりはない。
目を閉じると、あの夜の記憶が蘇る。私の部屋で、初めて二人きりで過ごした夜。一つのベッドで、彼の腕の中で眠った、あの満たされた感覚。彼の少しだけ速い心臓の音、規則正しい寝息、そして、私を包み込む、確かな温もり……。
あの確かな繋がりは、幻だったのだろうか?
(……航……会いたい……)
切ないほどの渇望が、胸を締め付ける。
彼に触れたい。彼の匂いを嗅ぎたい。彼の声を聞きたい。そして、ただ、彼の隣で、安心して眠りたい。
満たされない想いが、体の奥底で、鈍く疼く。こんな気持ちになるなんて、思ってもみなかった。年上の余裕なんて、もうどこにもない。ただ、彼を求める、一人の女がいるだけだ。
スマホを手に取り、彼の連絡先を開く。電話をかける? メッセージを送る?
でも、指が動かない。拒絶されるのが怖い。この、かろうじて繋がっている細い糸が、完全に切れてしまうのが怖いのだ。
結局、私は、また何もできずに、スマホを枕元に置いた。
窓の外では、冷たい秋の雨が、静かに降り始めている。その音が、まるで私の心の中で泣いている声のように聞こえた。
焦りと、迷い。後悔と、罪悪感。そして、募るばかりの、彼への想い。
この、出口の見えないトンネルから、抜け出すことはできるのだろうか。
*
弥生さんとの関係が、おかしくなってしまった。
公園でのデート以来、彼女からの連絡はめっきり減り、俺からメッセージを送っても、返ってくるのは短い、どこか壁を感じさせる言葉ばかり。電話をかけても、留守電になることが増えた。
(……やっぱり、俺のせいだ……)
あのデートで、俺は彼女を全然楽しませられなかった。それどころか、気を遣わせて、疲れさせてしまった。そして、あの書店での一件。佐伯先輩に言われた言葉で、俺が落ち込んでいるのを、彼女はきっと気づいていたはずだ。そんな俺の隣にいるのが、彼女にとって負担になっているのかもしれない。
(……弥生さんを、不幸にしてるんじゃないか、俺……)
そう思うと、胸が張り裂けそうになる。
彼女を幸せにしたい、支えたいと思っていたのに。現実は、真逆だ。年下の、未熟な俺が、彼女の重荷になっているだけなのかもしれない。
そんな自己嫌悪が、執筆活動にも暗い影を落としていた。
スランプは、さらに深刻化していた。PCの前に座っても、全く言葉が浮かんできません。白い画面が、ただただ俺の無能さを突きつけてくる。コンテストの締め切りは近づいているのに、一行も書けない。焦りばかりが募っていく。
(……もう、ダメかもしれない……)
小説家になるという夢も、弥生さんとの未来も、全てが遠く霞んでいくような気がした。
俺には、どちらも手に入れる資格なんてないのかもしれない。
そんな絶望的な気持ちで、一人、アパートの部屋で膝を抱えていた夜。
ふと、あの、彼女の部屋で過ごした夜のことを思い出した。
初めて、恋人として結ばれた、あの甘く、満たされた時間。彼女の柔らかな肌、甘い声、俺を受け入れてくれた時の、潤んだ瞳……。
あの温もりは、確かに本物だったはずだ。あれが、幻なんかであるはずがない。
(……弥生さんに、会いたい……)
今すぐ、彼女の元へ飛んで行って、抱きしめたい。そして、謝りたい。「ごめんなさい」と。そして、伝えたい。「やっぱり、あなたがいないとダメだ」と。
でも、連絡する勇気が出ない。
もし、彼女がもう、俺に会いたくないと思っていたら?
もし、「もう終わりにしたい」と言われたら……?
そう思うと、怖くて、動けないのだ。
結局、俺は、また何もできずに、ただ時間だけを浪費していく。
スマホを握りしめ、彼女からの連絡を、ただひたすら待つ。でも、スマホが鳴ることはない。
それぞれの部屋で、それぞれの夜を過ごす。
同じ街にいるはずなのに、心は、まるで遠く離れた星のように、すれ違っている。
会えない時間の中で、募っていくのは、愛情よりもむしろ、不安と、疑念と、そして孤独感。
窓の外では、冷たい秋の雨が、いつまでも降り続いていた。
それは、まるで、俺たちの関係の、冷え切ってしまった現状を表しているかのようだった。
焦りと、迷い。
後悔と、孤独。
そして、それでも消えない、彼女への想い。
この、出口の見えない、暗くて長い夜は、いつになったら明けるのだろうか。
俺たちのラブコメは、このまま、バッドエンドを迎えてしまうのだろうか。
答えが見つからないまま、ただ、時間だけが、静かに、そして残酷に、過ぎていく。




