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第一話:大学生と社会人(それぞれの道へ)

桜の花びらが風に舞い、新しい季節の訪れを告げていた。俺、日野航ひの わたるは、この春から大学生になった。弥生さんと同じ大学の、文学部。高校生の頃から憧れていたキャンパスライフが、ついに始まったのだ。


正直、まだ少し現実感がない。数ヶ月前まで、受験勉強と、そして弥生さんへの叶わぬ(と思っていた)想いに悩み苦しんでいた自分が嘘のようだ。あの雨上がりの公園での告白が成功し、俺たちは正式に恋人同士になった。年上で、綺麗で、優しくて、ずっと手の届かない存在だと思っていた弥生さんが、俺の彼女になってくれたのだ。それは、今でも時々、夢なんじゃないかと思うくらいの奇跡だった。


大学生活は、想像していたよりもずっと自由で、刺激的だった。高校とは違う、多様な価値観を持つ人々との出会い。専門的な文学の講義。そして、念願の文芸サークルへの入部。小説家になるという夢に向かって、ようやく本格的な一歩を踏み出せたような気がして、毎日が充実していた。


だが、そんな新しい生活の中で、俺の心には常に一つの、大きな存在があった。

桜井弥生さん――俺の、自慢の年上カノジョ。


彼女は、大学を卒業し、都内の中堅出版社に就職が決まり、社会人としての一歩を踏み出していた。新しい環境で、慣れない仕事に奮闘する彼女の姿は、尊敬すると同時に、少しだけ心配でもあった。俺はまだ学生で、彼女を支えてあげられるような力はない。それが、もどかしかった。


環境の変化は、必然的に、俺たちの会える時間を減らした。俺は大学の講義やサークル活動、彼女は仕事と、互いに忙しい日々。メッセージや電話での連絡は毎日欠かさなかったけれど、直接会って、彼女の笑顔を見たり、声を聞いたりする時間は、以前よりも確実に少なくなっていた。


(……寂しいな)


素直に、そう思う。もっと弥生さんと一緒にいたい。彼女の温もりに触れていたい。大学生になって、少しは大人に近づいたつもりだったけれど、恋愛に関しては、まだまだ子供なのかもしれない。


そんなことを考えていた、ある金曜日の夜。俺は、一つの決意を固めた。

週末、弥生さんを、俺の部屋に誘ってみよう、と。

一人暮らしを始めてから、彼女を部屋に招いたのは、引っ越しの手伝いの時だけだった。今度は、恋人として、もっと長い時間、二人きりで過ごしたい。そして……願わくば、お泊りしてくれたら、なんて。


(……いや、でも、そんなこと、俺から誘っていいんだろうか……?)


彼女は社会人で、俺はまだ大学生になったばかり。なんだか、がっついているみたいに思われないだろうか。引かれてしまわないだろうか。不安がよぎる。

でも……このまま、すれ違いが続くのは嫌だ。もっと、彼女との関係を深めたい。


俺は、震える指で、スマホのメッセージ画面を開いた。


『弥生さん、今週末、もしお時間あったら……なんですけど……』

『……うち、来ませんか?』


送信。

……送ってしまった。

心臓が、ドクドクと音を立てている。どんな返事が来るだろうか。断られたら、どうしよう……。


数分後。スマホが震えた。弥生さんからの返信だ。

恐る恐る、画面を開く。


『……うん。行く』

『嬉しい。……楽しみにしてるね』


……やった! 来てくれる!

しかも、「嬉しい」「楽しみにしてる」って!

俺は、思わずガッツポーズをして、ベッドの上で飛び跳ねてしまった。最高だ!


こうして、俺たちの、初めてのお泊りデート(という認識でいいのだろうか?)が決まったのだった。


   *


社会人としての日々は、想像していた以上に目まぐるしく、そして刺激的だった。覚えることばかりの仕事、新しい人間関係、そして、学生時代とは違う「責任」という重み。毎日が、あっという間に過ぎていく。

充実感がないわけではない。むしろ、新しい世界に飛び込んだ高揚感と、少しずつ仕事に慣れていく達成感は、私を前向きな気持ちにさせてくれた。


けれど、忙しい日々の中で、ふと、寂しさを感じる瞬間があった。

それは、やはり、航くんと会える時間が減ってしまったことだ。


彼は、大学生になり、新しい生活を謳歌しているようだった。文学部で楽しそうに講義を受け、文芸サークルにも入って、仲間たちと創作活動に励んでいるらしい。彼の世界が広がっていくのは、とても喜ばしいことだ。彼の夢を、心から応援している。

でも、その一方で、彼の隣にいられる時間が減っていくことに、ほんの少しだけ、焦りや不安を感じてしまう自分もいた。彼が、私がいなくても、充実した日々を送れている。その事実に、安堵すると同時に、取り残されたような、寂しさを感じてしまうのだ。


(……私、ちゃんと、彼の彼女でいられてるのかな……)

(年の差とか、立場の違いとか……やっぱり、負担になってるんじゃないかな……)


そんなネガティブな考えが、疲れた夜には、ふと頭をよぎってしまう。彼に、そんな弱音を吐くわけにはいかない。「頼れる年上カノジョ」でいたい、という見栄もある。


そんな、少しだけ心が揺れていた金曜日の夜。

仕事の疲れでソファにぐったりと倒れ込んでいると、スマホに航くんからメッセージが届いた。


『弥生さん、今週末、もしお時間あったら……なんですけど……』

『……うち、来ませんか?』


……うち? 彼の、一人暮らしの部屋に? 週末に?

それは、つまり……。


(……お、お泊り……!?)


瞬間、心臓が大きく跳ね上がり、疲れなんてどこかへ吹き飛んでしまった。顔が、カッと熱くなるのが分かる。

彼から、そんな風に誘われるなんて、思ってもみなかった。いつも、どちらかというと私の方がリードすることが多かったから。彼が、私ともっと一緒にいたい、と思ってくれている。その事実が、たまらなく嬉しかった。


もちろん、戸惑いもある。お泊りということは、そういうことも……意識しているのだろうか? 私たちはもう恋人同士なのだから、自然なことなのかもしれないけれど、彼はまだ若いし、私は……。ぐるぐると、色々な考えが巡る。

でも、そんな戸惑いよりも、彼と一緒に過ごせる時間への期待の方が、ずっと大きかった。


『……うん。行く』

私は、高鳴る心臓を抑えながら、そう返信した。

『嬉しい。……楽しみにしてるね』

その、素直な言葉が、私の心をさらに温かくした。



土曜日の午後。

私は、小さな旅行バッグを手に、航くんのアパートへと向かっていた。心臓は、朝からずっと、落ち着きなくドキドキと鳴り続けている。服装は、悩んだ末に、リラックスできるけれど、少しだけ女性らしさも意識した、柔らかな素材のニットワンピースを選んだ。メイクも、いつもより少しだけ念入りに。


彼の部屋のインターホンを押すと、すぐに「はい!」という、少しだけ上擦った声が聞こえ、ドアが開いた。

「……いらっしゃい、弥生さん」

そこには、緊張した面持ちの航くんが立っていた。部屋着だろうか、シンプルなTシャツとスウェットパンツ姿だ。それがなんだか新鮮で、またドキッとしてしまう。

「……お邪魔します」

私も、緊張しながら、部屋の中へと足を踏み入れた。


彼の部屋は、ワンルームで、それほど広くはないけれど、きちんと整理整頓されていて、彼らしい真面目さが表れていた。窓からは明るい日差しが差し込み、心地よい空間だ。ただ、やはり男の子の一人暮らし。少しだけ、生活感が漂っている。


「……どうぞ、座ってください。お茶、淹れますね」

彼は、ぎこちない動きで、私を小さなローテーブルの前のクッションへと促し、キッチンへと向かった。その後ろ姿が、なんだか頼もしくて、でもやっぱり可愛くて、私の頬が緩む。


淹れてくれたお茶を飲みながら、私たちは、最初は少しだけぎこちない会話を交わした。大学のこと、仕事のこと、最近読んだ本のこと……。でも、二人きりの空間で、隣に座って話しているうちに、次第に緊張も解け、いつものような、穏やかで温かい空気が流れ始めた。


彼が、私のために、一生懸命考えてくれたであろう夕食(今回は、ちゃんとレシピ通りに作ったらしい、美味しいカレーだった)を一緒に食べ、食後は、ソファで寄り添いながら、レンタルしてきた映画を見た。ラブコメではなく、少しだけシリアスなヒューマンドラマ。隣に座る彼の肩に、そっと頭を預けると、彼は驚いたように少しだけ体を硬くしたが、すぐに、優しく私の肩を抱き寄せてくれた。その温もりに、私は安心して、目を閉じる。映画の内容よりも、この瞬間の幸福感の方が、ずっと強く心に残った。


映画を見終える頃には、外はもうすっかり暗くなっていた。部屋の中も、間接照明の柔らかな光だけが灯っている。

静かな空間に、二人分の呼吸音だけが聞こえる。

ふと、彼が、私の名前を呼んだ。

「……弥生」

いつもの「弥生さん」ではなく、呼び捨て。その響きに、心臓が大きく跳ねる。

顔を上げると、すぐ近くに、彼の真剣な眼差しがあった。その瞳の奥に、熱っぽい光が宿っているのが分かる。


「……好きだよ、弥生」

囁くような声。

「……私も……好き……航……」

私も、初めて、彼の名前を呼び捨てにした。声が、震えた。


次の瞬間、彼の顔が近づいてきて、唇が、そっと重ねられた。



最初は、触れるだけの、優しいキス。

でも、すぐに、それは、お互いの想いを確かめ合うような、少しだけ深く、熱を帯びたものへと変わっていく。

俺の腕が、弥生さんの華奢な背中に回り、強く抱き寄せる。彼女の柔らかな体の感触と、甘い香りに、頭がどうにかなりそうだ。彼女の心臓の鼓動が、俺の胸にも伝わってくる。それが、俺自身の鼓動と重なり合って、一つの激しいリズムを刻んでいく。


(……ああ……弥生さん……好きだ……)


思考が、溶けていく。

ただ、彼女の温もりと、唇の感触と、そして、込み上げてくる、どうしようもないほどの愛おしさだけが、俺の全てを満たしていく。

年の差なんて、立場の違いなんて、もうどうでもいい。ただ、この瞬間が、永遠に続けばいい、と。そう、願わずにはいられなかった。


どれくらいの時間、そうしていただろうか。

名残惜しくも唇が離れた時、俺たちは、どちらともなく、顔を真っ赤にして、はにかみ合った。

彼女の瞳は潤んでいて、頬は上気している。その、いつもよりずっと無防備で、色っぽい表情に、俺の心臓は、またしても激しく高鳴った。


言葉はいらなかった。ただ、見つめ合うだけで、互いの深い愛情と、そして、これから始まるであろう、新しい関係への確かな予感が、伝わってくるようだった。


その夜、俺たちは、一つのベッドで、寄り添って眠りについた。

もちろん、それ以上のことは、まだなかった。俺には、まだ彼女を求める勇気がなかったし、彼女も、まだ心の準備ができていないように感じたからだ。でも、それでよかった。焦る必要はない。俺たちの時間は、まだ始まったばかりなのだから。

ただ、彼女の温もりを腕の中に感じながら、穏やかな寝息を聞いているだけで、俺は、今まで感じたことのないような、深い安心感と幸福感に包まれていた。


(……本当に、恋人になったんだな、俺たち……)


翌朝、隣で眠る彼女の、無防備な寝顔を見つめながら、俺は改めて、その事実を噛みしめていた。少しだけ幼さの残る寝顔。穏やかな寝息。時折、幸せそうに、小さく動く唇。その全てが、愛おしくてたまらない。

朝日が、彼女の柔らかな髪を照らし、天使の輪のように輝かせている。


そっと、彼女を起こさないようにベッドを抜け出し、キッチンへ向かう。

昨日のカレーの残りを温め、簡単なサラダを作る。コーヒーも淹れよう。彼女は、ブラックよりも、少しミルクを入れた方が好きだったはずだ。

慣れない手つきでの朝食準備。これも、なんだか新婚さんみたいで、少しだけ照れくさいけれど、嬉しい。


やがて、リビングから、彼女が起きてきた気配がした。

「……おはよう、航」

少しだけ掠れた、甘い声。それがまた、妙に俺の心をくすぐる。

「おはようございます、弥生さん。よく眠れましたか?」

振り返ると、そこには、少しだけ寝癖のついた、でも、幸せそうな笑顔の彼女が立っていた。

「うん……。航くんが隣にいてくれたから……今までで、一番ぐっすり眠れたかも」

彼女は、照れたように笑いながら、そう言った。その言葉に、俺の胸も温かくなる。


二人で、少しだけぎこちないけれど、温かい朝食を囲む。

特別なことは何もない、ただの日常の風景。

でも、その全てが、昨日までとは違って、輝いて見える。


これが、恋人同士になるということなのか。

これが、誰かと未来を共に歩むということの、始まりなのか。


まだ、始まったばかりの、俺たちの新しい日常。

環境の変化や、年の差がもたらすであろう、様々な困難や、すれ違いも、きっとこれからたくさんあるだろう。

でも、今の俺には、それを乗り越えていけるという、確かな自信があった。


だって、俺の隣には、こんなにも愛おしくて、頼りになる(と、思わせてくれる)彼女がいるのだから。

そして、彼女の隣には、俺がいるのだから。


俺たちは、きっと大丈夫。

そう信じて、俺は、目の前で少し照れながらトーストをかじる、俺の大切な年上の恋人に、とびっきりの笑顔を向けるのだった。

俺たちのラブコメは、これから、もっともっと、甘く、そして深くなっていくのだ。そんな確信とともに。

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