20 風邪
そして、洞窟の中で急流に流されてしまった私は、ものの見事に風邪をひいてしまった。
体調が悪くなってしまえば、皆で楽しい夏休み合宿なんて、一緒に何も出来ないんだから楽しめるはずもない。
その後は三日ほど、合宿所で大人しく寝ていたし、そこから動けるようになるまでに回復すると、生徒会顧問のエッセル先生に付き添われて、四人を残し一人だけ帰寮する事になった。
あれだけ芯から身体が冷え切って気を失い、凍死寸前だったのだから、体調を崩してしまうのも無理はなかった。
けど、エルネストが渋々だとは思うけど、私を助けてくれて……本当に良かった。面倒な女だし、あのまま居なくなったら良いわと、思うような人でなくて、本当に……良かった。
寮に帰っても私は一人部屋だし、ずっと伏せっていて、病気だからということで、寮母さんが病人食を部屋にまで持って来てくれる。
わりと至れり尽くせりだし、好きな本を読んでいて、特に不満はなかった。
ただ、合宿所に四人を残して、こうして一人だけ帰ってきてしまって、なんだか寂しくなってしまうという想いはあった。
彼らは生徒会としてのカリキュラムをこなして、もう既に学園へ帰って来ていると思うけど……私だって、せっかくだし、合宿最後まで居たかった気持ちはある。来年もあるけど、私は最高学年だから、行けないかもしれないし……。
結局のところ、完全に回復するまで十日ほどベッドに居て、部屋の中には読む本もなくなり、すっかり暇になってしまった私は、何気なく窓を開けた。
そして……とてもとても驚いた。
「イエルクくん……? そこで、何してるの?」
「あ。先輩……びっくりしました」
信じられない場所で落ち着いた様子のイエルクは、私が窓を開けても動揺した気配は無い。
それは、こっちの台詞だよ! なんて、すぐに言えなかった。あまりにも、驚き過ぎて。
私は自分の目に映る彼が信じられなかった。何故かと言うと、私の部屋は寮の五階。普通ならばそんな高さで、急角度とも言えるくらい斜めになっている屋根に座ろうなんて、思ったりしない。
そう……高所にある窓の外側、すぐそこに、イエルクが平然として、屋根の上に座っていたのだ。
「え。何……どうして、ここに居るの? ……怒られるよ?」
こんな風に、屋根から女子寮に侵入した人……居るのかしら。ううん。屋根から侵入するなんて、本当に信じられない……怒られるどころでは済まなくない!?
え。待って。
けど、これだとイエルクは寮の部屋へ、侵入はしていない……? うん。身体は、窓の外に居るもんね。
だから、私が住んでいる女子寮の番人三頭の犬も、彼の存在には気が付いていないのかしら。
「すみません。先輩……合宿の時にひいた風邪が、なかなか治らないと聞いていて、心配になってしまって……」
素直に理由を話したイエルクの理由を聞いて、私は頭を抱えたくなってしまった。
そうよね。
イエルク……貴方があまり人慣れしていなくて、そういう人だって、それはわかっているけど、普通は心配しても、こんな風には屋根から訪ねたりなんてしないんだよ!
それに、私の住んでいる女子寮は男子禁制。
もし、女の子への悪戯目的で入ろうとした人が居れば、比喩でもなく、三つの頭を持つ番犬三頭の犬に、かみ殺されてしまう。
恐ろしいけど、そういう事件が、遠い昔に、実際にあったらしい。
心配性の中年女性のように、いつも口うるさい三頭の犬だけど、そんな高位魔物として、獰猛な一面も持っているのだ。
高位魔物の三頭の犬は初代校長の使い魔だったらしいけど、今は彼が亡き後も自ら買って出て、女子寮の番人をしてくれているんだよね。
口うるさいけど女子生徒のことを、それだけ心配してくれていると思えば、文句は何も言えない。
「イエルク……それは、ありがたいけど……あ。そういえば、なんで、私の部屋を知っているの?」
屋根に居ることは、とりあえずは、良いことにする。けど、どうして私の部屋の窓がこの位置だとわかったの?
「ここまで送りに来た時に、女子寮を見ていたら、ディリンジャー先輩が帰ってすぐあとに、この窓に灯りがついたので」
……そういえば、勉強を教わった帰りに、イエルクに何度も送ってくれたから、その時に彼は私の部屋の位置を確認していたのかもしれない。
本当に……頭が良い子がすることは、私には理解不能。
「イエルク……これ、私だから良いけど、他の女の子とにはしない方が良いよ」
「……どうしてですか?」
純粋なイエルクは本当にっ……何もわかっていないようだ。
それも、そうか……イエルクはいろいろあって、ドワーフの養い親の常識を常識だと思っているし……あの付き合っているという青田買いの幼なじみの女の子以外には、あまり話したことがないんだよね。
イエルクは悪くない。彼が今まで過ごして来た、環境が悪いだけで。
「あのね……こんな事をされたら、普通は誤解してしまうの」
「誤解?」
キョトンとした顔は、私が言いたいことを全くわかっていない。
「普通はこんなことをされてしまうと、イエルクが、私のことを好きになったのかと思うの。けど……私は大丈夫だよ? 貴方に幼なじみで付き合っている人が居るのは知っているし、それは別に構わないの。けど、こういうことを他の人にはしない方が良いよ。面倒なことになるのは、貴方だって、嫌でしょう」
好きでもない人に好かれて、とても迷惑をしていたエルネストに良く聞いて欲しい。あれをした当事者の私だって、今考えると恥ずかしくて穴に入りたくなるのだ。
それを向けられていたエルネストは、どれだけ迷惑だったんだろう……本当に悪いことをした。
「……すみません。ご迷惑でしたね」
悲しそうな表情になってしまったイエルクに、私は慌てて言った。
「えっ……待って! 別にこうして心配してくれることは、迷惑ではないわよ。けど、こういう事をすると誤解するの。付き合っている女の子を悲しませてしまうから、それはしてはいけないの。わかった?」
私は人としての常識を教えるつもりで、イエルクにそう言った。
「はい。わかりました。付き合っている女の子が居たら、こういうことはしてはいけないんですね……もうしません」
「ええ。わかってくれたのね」
イエルクは、本当に素直で良い子だ。
「ロゼッタ先輩って、優しいですね」
「そんなことないわよ。もしかしたら、イエルクにだけかもしれないけど」
……なんてね。まあ、絶対にないとわかっている私たちだから、成立する会話だよね。
「先輩は会長のことが、お好きだったとお聞きしましたけど」
唐突にイエルクに言われて、私ははあっと大きくため息をついた。そんな過ぎ去った黒歴史、誰が教えたのかしら。
「過去の事よ。私も会長に対しては、ご迷惑をおかけしたと思っているの。それに、目立つ王子様と結婚なんかしたら、大変だってようやく気がついたのよ。平凡な幸せの方が向いているのではないかとね」
私が言い訳がましくそう言うと、イエルクは顔を見せずに笑ったようだった。
「……お元気そうで、本当によかったです。僕はこれで失礼しますね」
そうすると、彼自身の影に溶けるように居なくなってしまったので、私はなんだか名残惜しくて、空に浮かぶ夕日を長い間見つめていた。




