第三十八話 融解の向日葵
テレジア教は人類平等を第一の理念として掲げる、この世界で最も規模の大きい宗教団体である。
子供でも大人でも、凡人でも偉人でも、聖人でも悪人でも。神の前に人間の魂の重さは同等であり、皆等しく手を差し伸べられるべき存在であると謳っている。
この理念は転移結晶の性質を根拠とする。
転移結晶を使用できるのは人間のみ。人間以外の生命体は、馬も、牛も、犬も、当然魔物だって転移することはできない。転移結晶は神が人間にもたらした奇跡であり、人間でないものを排斥する神秘だ。
つまり。
転移結晶を使えないという事実は、ヨシュアがもはや人間でないことを示すこの上ない証明なのだ。
リリエリは見知らぬ生物を見るような心地でステラを眺めた。彼女の首元で、信徒の証が揺れに合わせて光を返していた。
転移結晶の神話は、テレジア教徒でない人々にも広く受け入れられている考えである。例えば診療所の方針、冒険者ギルドの信条、子供の手遊び歌の中にだって。転移結晶が担保する人間性、ひいては人類平等の理念は、日常の中に当たり前のように浸透している。
入信していないリリエリですら、強く意識する機会こそなかったが、転移結晶は人間だけが使える物だと当然のように受け入れている。テレジア教聖祭司の地位に立つステラであればなおのことだろう。
それなのに、目の前で静かに微笑むこの女性は――聖祭司ステラは、知っていたと言う。
「あなたは、ずっと、ヨシュアさんが転移結晶を使えないって知っていたんですか。このことを知った上で、テレジア教の祭司としてあり続けたんですか」
「……結果としては、そうなりますね」
人類平等。裏を返せば、人ではないものに対する明確な差別だ。
リリエリは力なく両手を下ろした。ベッドの上に落ちた自分の腕が立てた柔らかな音が、なんだかとても馬鹿馬鹿しかった。
完全に力が抜けた姿を見て、ステラもまたリリエリの肩に添えていた手を離した。そうしてリリエリに背を向けるような形で、ベッドの淵に腰を下ろした。
迂闊な行動だ、とリリエリは思った。逆上したリリエリがステラに強行を働かないとも限らないのに。……今のリリエリにはそんなことができる元気も気力もないのだが。
「先ほどの貴方の質問に一つだけお答えすることができます。貴方はヨシュアを傷つけていない。……比較の話になりますが」
「……どういう、意味ですか」
「もっと昔に、もっと手酷く彼を傷つけた人間がいるからです」
お話させてはくださいませんか、とステラは言った。彼女は無表情から一歩踏み出した程度の微笑みを浮かべて、何もない空間を見つめていた。あえてリリエリから視線を逸らしているような、そんな空気だった。
リリエリは何も応えなかった。ステラはそれを正しく肯定と受け取った。
「ヨシュアをパーティに受け入れた頃の話です。あの時の彼は様々なものを欠いていて、私とレダは必死になって色々なことを教えてきました。……良き教師であれたかは、今でもわからないのですが」
リリエリからすればそこに疑いの余地はないのだが、口を挟む気分にもなれず、押し黙ったままでいることにした。ステラは一言二言、迷うような曖昧な声を出してから、言葉の続きを口にした。
「そうやって様々なことを知っていく過程で、彼は自分の気持ちを言葉にする術を、……過去の行いを正しく認識する術を得ました。それで、あの日、……」
言葉が途切れ、代わりに細く息を吐く音が聞こえた。それを口にするのには十分な覚悟が必要だとでも言うような、そんな仕草であった。
「俺に生きていく権利はない、と。そう言ったんですよ、彼は。物事だってまだ理解しきれていない子供の身で、生きる権利だなんて、突然。いいえ、言葉にできなかっただけで、もしかしたら、」
ステラの言葉はどんどん不明瞭になっていき、最後には聞き取れないほどのものになっていた。掠れて薄くなった言葉がとうとう切れて、しんと静まり返った部屋の空気が酷く重い。
なんとなくであったが、リリエリはステラの言葉の続きを察した。そうしてもう一つ、ヨシュアの嘘を見つけることになった。
「私は教えたんです。生きるのに権利なんていりません。だって、人間はみな等しく幸せになるべきだとテレジア様が、転移結晶が示しているのですから」
ヨシュアはかつて言っていた。テレジア教について"知ってはいるが、信徒じゃない"と。
きっとあれは嘘だ。儀礼を経た正式な信徒というわけではないのかもしれない。だがステラの話を真とするならば、在りし日のヨシュアは明らかに、
「人類は平等。過去に何があろうとも、ヨシュアだって愛されるべき一人の人間なのだ、と」
――テレジア教の理念によって救われている。
「皮肉だと思いませんか。あの日ヨシュアに歩む力を与えたはずのテレジア様が、今ではヨシュアの人間性を何よりも強く否定する」
背中を向けられているリリエリからは、ステラの表情は全く見えない。それなのに、ステラは自らの両手で顔を覆い隠した。誰にも、神様にすら自分の顔を見せたくないと切望しているかのようだった。
「ヨシュアが邪龍ヒュドラを切ったあの日から、転移結晶は彼を拒むようになりました。信じられますか。昨日は人間で、今はそうでないだなんて。受け入れられますか。長く人生と共にあったテレジア教が、大切な人を否定し始めたことを!」
しばらくの間、ステラは何も言わずに肩を震わせた。隠された手の内側から、ほんの少しだけすすり泣く様な音が聞こえる。だがそれも一時のことであった。
振り返ったステラはうっそりと笑っていた。もう笑っていることしかできないみたいな、振り切れたような笑顔であった。
「ヨシュアにテレジア教を布教したのは私です。私が彼に教えさえしなければ、彼があんなにも傷つくことはなかった。なにもかも諦めることはなかった。私のせいです。私のせいなんです」
「……違い、ますよ」
リリエリは知っている。あの日ヨシュアは女神テレジアの絵画を見ていた。ただ静かに、ともすれば熱心に。そこに恨みや怒りの感情なんて一欠けらも乗っていなかったことを知っている。
リリエリは知っている。ステラとレダに教わったことを、今も大事に持ち続けているヨシュアのことを。守られてばかりだったから守る側になりたいのだと、今は自分の望みを叶えているのだと語るヨシュアの横顔を知っている。
「ヨシュアさんはもう諦めていません。貴方が教えたことは、今でもヨシュアさんの支えになっているんです」
その言葉に、ステラは一瞬きょとんと真顔になり、……今まで見てきたものとは趣が異なる、柔らかい笑顔を浮かべた。向日葵のように暖かく明るい、心からの笑みであった。




