第三十七話 非人間性の証明
薄暗い部屋であった。
カーテンの隙間から辛うじて入る光が、床や壁に所狭しと敷き詰められた幾何学模様を照らしている。そのため一切の家具がないのにも関わらず、狭く息苦しい空間となっていた。
リリエリはずっと昔にここに来たことがあるような気がして、いくつも錠がかかったみたいに重い頭を動かした。
なんてことはない。ここはヨシュアの家だ。二階にあった、寝室らしき部屋。
少し狭い部屋の様子も、壁や床の黒ずみも、リリエリには見覚えのあるものだった。この部屋に初めて入ってから一月と経っていないはずなのに、随分と昔の出来事のように思えた。
帰ってきたのだ、エルナトに。
ヨシュアを置いて、たった一人で。
未だに夢の中にいるような心地であった。胸元に抱えていた杖と重たい一振りの剣だけが、つい先ほどの出来事が現実であることをリリエリに知らしめていた。
家屋の砕ける轟音が急に途絶えたせいで、まるで聴覚を失ったような気分だ。目に入る景色の全てが頭の中を上滑りしていて、何もかもがリリエリの中に入ってこない。リリエリはただ呆然と、時間の過ぎるに任せてその床に座り込んでいた。
やがて小さい軋みと共に、目の前にあったドアが開いた。逆光の先に、背の高い女性のシルエットが見えた。
「お帰りなさい、リリエリ様」
ステラの声だ。諦観と空虚を優しさで包んだ、揺蕩う水底に似た声であった。
彼女はぺたりと座ったままのリリエリに近づき、目線を合わせた。右手がそっとリリエリの頬を翳す。とたんに左頬にあった焼けるような痛みが消え去って、それでリリエリは自分が怪我をしていたことを思い出した。
「今は休んでください」
休息を促すステラの声に、エルナトに戻ってきた安堵感にリリエリの意識が薄れていく。休んでいる暇はないはずなのに、頭も体もちっとも言うことを聞いてくれなくて、どうしようもない思いを抱えたままリリエリは意識を手放した。
■ □ ■
次にリリエリが目を覚ましたのは、柔らかいベッドの上であった。周囲の様子から、ここがヨシュアの家の一階リビングであることが窺えた。
目覚めてすぐにステラがやってきて、リリエリに水と行動食を手渡した。そうした休息もそこそこに、彼女はリリエリにシジエノで起きた全ての説明を求めた。
奇妙な特性を持つ魔物に襲われたこと。倒せないと判断し、エルナトへの帰還を試みたこと。その際ヨシュアが一人シジエノに取り残されたこと。
リリエリは話した。包み隠したり情報を取捨選択できる余裕はなかった。文字通り全ての出来事を、思い出せた端からステラに語り伝えた。
混乱し、焦り、纏まりのないリリエリの話を、ステラは辛抱強く聞いていた。
「事の次第は分かりました」
「……戻らないと。シジエノに。ヨシュアさんを迎えに行かないと」
「落ち着いてください。いずれにせよ、私たちが転移結晶を使えるのは三日後なのですから」
ベッドから這い出そうとするリリエリを、ステラは穏やかに制止した。一度使った転移結晶をもう一度使えるようにするには魔力の再充填が必要だ。今リリエリが二階に向かったところで、そこにあるのはただの石ころ同然の欠片である。
そのことを思い出し、リリエリは殊更に暴れた。可能か不可能かなんて関係がなかった。今すぐ、何としてでもシジエノに向かわないといけない。そんな強迫観念じみた思いがリリエリの体を支配していた。
だってヨシュアは何と言った? リリエリは彼に、何を言ってしまった?
「リリエリ様、冷静になって」
「離してください。転移結晶なんて要らないです、直接シジエノに……ッ!」
ぱんと乾いた音が響いた。ステラがリリエリの頬を張った音であった。
「落ち着いてください、リリエリ様。ヨシュアが貴方に求めたものは、自暴自棄な行動ではないでしょう」
一拍遅れて痛みだした頬に、リリエリの頭に渦巻いていた思考の奔流が止まる。ステラの言っていることを半分も理解できたかは怪しかったが、それでも体の力を抜けるほどの冷静さは戻ってきてくれた。
でも感情は止まらない。両肩を掴み、しっかりと顔を覗き込んでくるステラと目が合った。それが契機となって、リリエリの口から言葉が零れた。
「私はずっと、ヨシュアさんのことを人間だと思っていたんです」
「…………はい」
「龍に呪われたという話は聞いています。それでもあの人を人間だと思って、扱って、そのように伝えてきました」
「はい」
「ヨシュアさんに、貴方は人間だって何回も言ったんです。気休めでなく、心から。根拠も無いことを何回も、ただ自分がそう思うからって」
「…………」
「なのに、本当はわかってたってあの人は言ったんです。どういうことですか。ねぇ、自分は人間じゃないって、ヨシュアさんはとっくに受け入れてたんですか」
「リリエリ、様」
「そんな人に私は、無邪気に、考えなしに、貴方は人間だと伝えていたんですか? 私はずっとヨシュアさんを傷つけていたんですか!?」
自分に伸ばされている両の手を、リリエリは強く掴み返した。加減なんて出来なかった。
ステラの顔が微かに歪む。痛みによるものではなかった。誰かの救いを祈る信徒のような、ひたむきで悲痛な表情であった。
「……ステラさんは、知っていたんですか。ヨシュアさんが転移結晶を使えないということを」
ちゃりと小さな金属音を立てて、ステラの胸元のタリスマンが揺れた。転移結晶という奇跡を信奉する、テレジア教徒の証だ。
きちりと祭服を身に纏った聖祭司ステラは、目の前で懺悔するリリエリの言葉を全て受け止め、……ほんの少しだけ、微笑んでみせた。
「はい。知っていました」




