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第三十六話 人にあらざる冒険者


 ソレは最早、生物の形として形容しがたいものとなっていた。

 竜のような足がある。ただし生えては潰れてを繰り返している。鳥のような羽根がある。ただし奇妙に捩じくれていて飛ぶための形をしていない。蛇のような鱗がある。ただし剥き出しになった真皮の面積の方が大きい。


 ソレは蠢き、触手を伸ばし、伸ばした先で小さい分身を作った。緩慢な、しかし先ほどよりずっと早くなった動きを、さらに補うための行動であった。


 リリエリを抱えて走るヨシュアに向かって触手が伸ばされる。回避され地面を叩いた触手は水溜まりとなり、さらにそこから一回り小さな化物を形成する。その繰り返しで化物はこちらへと迫っている。


 想定よりもずっと早い。このままでは、転移結晶の起動に障りが生じてしまう。


「ヨシュアさん、聞いてください。転移結晶を使えるようにするまで、数分の時間を要します。それまで、あの化物を食い止めなければいけません」


 ヨシュアは何か言葉を発した。化物の蠢く湿った音に遮られ、リリエリの耳には届かなかった。でも聞き返せるような状況じゃない。ヨシュアの聴力を信じて、リリエリから一方的に伝えるしかない。


「時間を稼いでください。そして、私が合図したらすぐに転移の紋章魔術の中に飛び込んでください」


 ヨシュアの首が縦に動いた。こちらの意図は伝わったらしい。

 少し時間があるだけでいい。そうすればこの悪夢のようなシジエノから逃げ出すことができる。


 がんと扉を蹴破るような音がして、直後リリエリはボールを転がすように放られた。リリエリの目に逆さまに映った景色は、空ではなく汚れくすんだ天井であった。転移結晶を設置した建物に辿り着いたのだ。


「時間稼ぎは任せてくれ」


 ヨシュアは言った。閉鎖的な建物の中で、その声ははっきりとリリエリに耳に届いた。

 直後、ぐちゃりと重く濡れた音が響く。リリエリは振り返らず、真っすぐに奥の部屋へと向かった。やるべきことがあるから、そして、ヨシュアの事をこの上なく信頼しているからだ。


 奥の扉を開け放った先には、ステラと記した大規模な紋章魔術が広がっていた。何重にも重ねた幾何学模様と、その真ん中に鎮座している転移結晶。あの日のままの光景が、静かに役目が来るのを待ちわびている。


 リリエリは素早く中央に駆け寄って、ぽつんと置かれている転移結晶に手を触れた。途端に燐光が溢れ出して、周囲の紋章魔術へと波及していく。淡く弱い光だ。数分かけてこの光が強まった時、二人の転移が実行される。


 完成まで三分、いや二分ほどか。問題なく転移結晶の起動が始まったことを確認し、リリエリは部屋の外に、ヨシュアの様子が確認できるギリギリの範囲に移動した。


 ヨシュアから目を離していた時間は僅か十数秒であったが、既に魔物はこの建物まで迫り来ていた。さして長くもない廊下の中は戦闘に伴う破壊音で溢れかえっていたが、侵入を許している様子はない。建物の少し外側で、ヨシュアは不定形の魔物を相手取っている。


 ドアの向こう、それもヨシュアの背に隠れてリリエリからはほとんど状況が読めない。読めたとしても、リリエリにできることはないだろう。この状況下で棒立ちするほかない自分があまりにも歯がゆい。リリエリは噛み締めた唇に血を滲ませながら、四角く切り取られた外の様子をただただ見ていた。


 化物は愚直に目の前の獲物を狙い続けているようで、ヨシュアを抜けてまで室内に押し入ろうとする行動は見られなかった。迂回しリリエリや建物自体を狙うほどの知能は持っていないようだ。……あるいは、その必要がないからなのかもしれない。


 突如巨大な質量が濁流のように押し寄せ、玄関の壁ごとヨシュアを押しつぶした。剣で受けたヨシュアは無事だ。だが、古びて脆くなっている建物はその攻撃に耐えることができなかった。


 劈くような轟音の中、自身を押しつぶす腕を強引に押しのけながら一歩二歩とヨシュアが後退する。酷く見晴らしの良くなった外の世界で、四、五匹に分裂していた化物が再び一つに集まるのを見た。この期に及んで翼竜のような形をとろうとしている様が、いっそ滑稽なものに思えた。


 ……無理だ。ヨシュアであっても、これ以上は戦えない。

 あの巨体を倒すだけでリリエリも、ヨシュアも、建物も、何もかもが破壊されてしまう。


 とても目を逸らせる状況ではなかった。それでもリリエリが背後の様子を確認できたのは、潜在意識レベルでヨシュアの強さを信じているために他ならない。

 転移結晶から溢れる光は先ほどよりもずっと強くなっている。だが足りない。光は紋章魔術の七割を満たす程度に過ぎず、もう少し時間が必要だ。


 岩壁が派手に崩れる音がして、リリエリは視線をヨシュアに戻した。あったはずの廊下の壁は、もはや膝下に一部を残すのみとなっている。ヨシュアの剣が止めていなければ紋章魔術の一部が削れていただろう。もう後退の余地はない。


 リリエリは杖に仕込んだ火の紋章魔術に手をかけた。焼け石に水どころか、油を注ぐ結果をもたらすかもしれない。それでも何もしないではいられなかったのだ。


「起動まであと二十秒、私も戦います、私だって……!」

「その必要はない」


 とんとリリエリの胸に衝撃が走った。そこには真っ赤に汚れたアダマンチアの剣が押し付けられていた。後ろに倒れてしまうほどの強さだったのに、不思議と痛みはない。リリエリはヨシュアの愛刀を抱えながら、部屋の中――紋章魔術の上にへたり込んだ。


「なんで、剣……」


 力無いリリエリの呟きであってもヨシュアの耳には問題なく届いただろうに、彼は何も言わなかった。後ろから迫っていた棘の一本を素手で叩き伏せ、一本を踏み潰し、残る触手をその身で止める。

 

 うちの一つ、とりわけ太い棘がヨシュアの胸部を貫いていた。どれだけ希望的な見方をしても覆せない、確実な致命傷。蠢く化物のそれとは違う鮮やかな赤色が、羽のような速度で舞い散るのをリリエリは見ていた。


「謝らないといけないことがある」


 血液と共に、ヨシュアの傷口から黒い霧が滲んでいる。その霧は貫いた棘に纏わりついて、あっという間にそれをぼろぼろに腐らせた。ヨシュアの手が握りしめていた触手も、周囲の壁や床だって黒ずみ、腐り、朽ち果てつつある。

 リリエリの頬に小さな痛みが走った。跳ね飛んだヨシュアの血の一滴が、リリエリの皮膚に焼けつくような痛みを与えていた。


「俺は転移結晶を使えない」

「な、にを言っているんですか。もう、もう逃げられるんですよ。だって、こんなに光っているのに」


 背後にあってもなお分かるほどに、転移結晶が輝きを増している。もう十秒もいらない。ヨシュアがあと数歩こちらに歩み寄ればいい、それだけでいいのに、ヨシュアがどうして動かないのか、ヨシュアが何を言っているのかがリリエリには理解ができなかった。


「本当はもうわかっていたんだ。自分がとっくに人間じゃなくなっていることを」


 足元の紋章魔術に光が満ちる。音もなく溢れ出した眩い光彩がリリエリを包み込んでいく。目の前のヨシュアがリリエリを見ていて、でも表情はわからなかった。

 リリエリはヨシュアの名を叫んだ。それに応えるようにヨシュアの口が動いたのが見えた。聞こえない。伸ばした手だって届かない。


 視界の全てが白に染まる。黒い靄に覆われゆくヨシュアの背中を最後に、リリエリの意識はふつりと途切れた。


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