第三十五話 血沼の龍
化物の動きは緩慢で、とてもヨシュアの敵になるようには見えなかった。大きく二つに分かれた一方、首の存在する上部に狙いをつけたヨシュアは、リリエリが一度呼吸をする間にその肉塊をバラバラにしていた。
元が群体である龍の身体は見た目以上に脆い。二、三回薙いだだけで形を保てなくなり、崩壊していく。しかしそうして崩れた肉片の一つ一つは、せいぜい人の頭ほどの大きさだ。再生を止めるには、さらに細かく寸断する必要があった。
大振りばかりでは倒せない。崩れた端から一つずつ破壊しなければいけない。
ヨシュアの剣の刃は潰れている。刻むという動作は不得手だ。ヨシュアはその不利を、人智を超えた膂力によって補っていた。――すなわち、ただひたすらに速く剣を振り抜く。
リリエリでは軌跡すら追えない。ヨシュアの周辺で深紅が破裂してようやく、その場所を剣が通ったのだと認識することできた。
丹念に、執拗に、いっそ几帳面なほど丁寧に、ヨシュアは赤と乳白色で出来た龍を砕いた。足元は見る見るうちに血の沼と化していき、彼らの動きに合わせて真っ赤な飛沫を上げていた。
戦いは誰の目から見ても分かるほどに一方的だった。そのくせ、終わる気配は一向に見られなかった。
僅かでも形を保った肉片は、何度だって蠢き集まり龍の身体を再構成する。その体積は少しずつ減少してはいるが、このペースでは殲滅に気の遠くなるほどの時間をかけることになるだろう。
もしも相手が理性ある獣であれば、圧倒的な戦力差を前にして直ちに戦闘を辞めているはずだ。そうならないのは、あの龍にまともな思考回路がないことの紛れもない証左である。
観察の役割を請け負ったリリエリは、しばらくの間――主観的な感覚だ。実際は数分も経っていないが――ヨシュアの戦闘を見守っていた。些かしぶとくなっているようだが、今朝がた遭遇した個体の性質からは大きく離れてはいないように思えた。
だったら、参戦の方法を考えてもいいかもしれない。
リリエリは現時点で使用できる火の気を頭の中で羅列した。油でも薪でも乾いた布でも。使えるものを何でも使って、この戦いを終結させる方法を探した。……ほんの一瞬、目の前の戦闘から意識を逸らしたのだ。
その時を狙っていた、とは思えない。ただ偶然、その瞬間に起きたというだけの話だ。
足元に広がっている深紅の水溜まり。そこから伸びた杭のような肉塊が、ヨシュアの脇腹を深々と貫いた。
棘で出来た花のように幾本も突き出た杭。意識の外から不意を突いて出たそれらから致命を回避しただけでも、尋常ならざる反射神経が成せた離れ業と言えるだろう。
たった一本。避け損ねたたった一本が、ヨシュアの肉体に届いた。嫌にゆっくりと飛び散った血液が、リリエリの目には殊更赤く色づいて見えた。
異常行動だ。これ以上は戦えない。
「引いてください! エルナトに撤退します!」
咄嗟にリリエリは叫んだ。家屋だった瓦礫が崩れ落ちる轟音の中、それでもヨシュアは正確に行動に移した。
深手を負ったとは思えない動きで自身に突き刺さった棘を手折り、周辺の棘を足場にしながら大きく跳躍。一歩で攻撃範囲を抜け出して、そのまま龍だったはずの肉塊を顧みることなくリリエリのいる診療所目掛けて駆け出した。
ヨシュアがここに戻るまで一分もかからない。その時間を使って、リリエリは現状の把握に思考を巡らせた。
あの化物が見せた、液状からの再生。液体よりも細かく分割する手段が無い以上、再生を止めるのはたった今不可能となった。それにあの攻撃範囲、液体の広がる限りを攻撃範囲とされては、ヨシュアはもとよりリリエリが生きて対処可能な相手とは思えない。リリエリの持つ着火方法など、もはや現実的ではない。
転移結晶を用いてエルナトに帰還する。これ以上の最適解を、リリエリは見つけることができなかった。
転移結晶の起動には若干の時間が必要だが、あの化物の動きは緩慢だ。今すぐヨシュアと共に転移結晶の元まで走れば、十分な時間が稼げるはず。
ヨシュアはもうすぐそこまで来ている。少しでも早く拾い上げてもらえるように、リリエリは窓の向こうに身を乗り出した。瞬間、嘲笑うかのような赤色が、リリエリの真横で炸裂した。
……化物の一端が、リリエリの乗り出した窓横の壁に強かに叩きつけられている。
跳ねた血液を頬に感じながら、リリエリは伸びている触手に、次にヨシュアが戦っていた方角に視線を向けた。
あの龍の本体はこちらに向かってきていたが、それでもずっと遠くにあった。だが周辺に広がっていた赤い沼、放射状に伸びていた棘が一所に集まって、今は一本の触手としてリリエリの横に存在している。ヨシュアが咄嗟に軌道を逸らしていなければ、まともに直撃していただろう。
壁に激突した勢いで触手の先端は新たな水溜まりと化していた。その水溜まりはじわじわと広がっていく。この場所を起点として、化物が新たな肉体を再構成しようとしている。
ぐっと襟首を掴まれて、次の瞬間にはリリエリの身体は宙に浮いていた。強く体に走った痛みは、ヨシュアの肩に俵担ぎされたことによるものであった。
ヨシュアによって運ばれる最中、リリエリは声も出せずにその光景を見ていた。遠くにいたはずの龍の姿が目の前に生じつつあるところを。その体躯が、先ほどよりも一回りほど大きくなっていくところを。
明らかに速度が上がっている。大きくなっている。
……人間の血を、吸ったからか?




