第三十四話 交戦開始
べちゃりと。
焼き上げる前のパン生地を落としてしまった時のような音がした。より正確を期したければ、この音を百倍の大きさにして、二百倍薄気味悪くし、三百倍禍々しくすれば近いものになるだろうか。
空から降ってきた巨大な塊が、数十メートル向こうの地面に激突した瞬間をリリエリは見た。肉塊は落下の衝撃のままに周囲の家々を彩り、褪せていた街並みがパッと赤に染まる。交ざりこむ乳白色の鱗が、ソレの正体を否応なしにリリエリへと突き付けていた。
翼竜だ。空中で集い塊になった翼竜が、自重を支えきれなくなり落下してきたのだ。
リリエリは目に映る景色を受け止めることで精一杯であった。
時間にして数秒あるかないか、釘付けになってしまったリリエリを、ヨシュアがぐっと後ろに引いた。普段よりもずっと乱暴な振る舞いだ。リリエリについていけなかった木戸が、派手な音を立てて落下した。
ぱっと開けた窓の向こうの光景は、体勢を崩しヨシュアにもたれるような格好になったリリエリの目にもよく見えた。
一枚の絵画のように広がっていた赤い欠片が、落下の中心地に向かってずるずると引き寄せられていく。一等大きく形を残していた塊は、周辺に散った翼竜の破片を回収しながら蠢き、膨らみ、集合体から一つの生命体に近い姿をとりつつあった。
あれは、たぶん龍だ。歪で、醜悪で、暴力を模した竜の姿だ。
首のような部位がぐらりと動き、リリエリたちの潜む診療所――ではない方向に向けられた。手遊びみたいに振るわれた触腕が古びた家を焼き菓子のようになぎ倒す。尻尾に似た何かが無造作に石畳を叩き割っていく。
既に魔物除けがどうだのと言っていられる状況ではなかった。あんなものに突っ込まれては、魔物除けどころか建物全てが破壊される!
「リリエリ」
すぐ頭上から、リリエリの名を呼ぶ声がした。ヨシュアの目が、静かにリリエリを見ていた。何かしらの感情の動きはあれど、それでもリリエリの内心よりずっと冷静なヨシュアの声が、リリエリを現状へと引き戻した。
「気づかれたわけではなさそうだ。アレは見当はずれの場所ばかり攻撃している」
木戸を落とした際に大きな音を立てたにも関わらず、奇怪な龍はこちらに見向きもせずに近くの建物を手あたり次第に潰している。今のところは潜伏に成功しているが、この場所が攻撃されるのも時間の問題だった。
診療所への攻撃はまだいい。拠点を失うことは痛いが、手間と時間さえあれば代わりなんていくらでも作れる。
だが転移結晶は駄目だ。転移結晶を潰されてしまったら、ステラとレダがシジエノ廃村に来るための手段がなくなってしまう。
幸いにして、あの化物の落下地点は転移結晶を設置した建物の方面からは外れていた。今すぐに対処しないといけないほどに切羽詰まっているわけではない、が。
「……戦い、ましょう」
これ以上ここに隠れ続けることに、もはや意味はない。
であれば、被害が軽微なうちに戦うべきだ。知識からも経験からも生態からも外れた、あの化物と。
「何か指示はあるか」
「ひとまず攻撃。不穏な素振りがあれば、転移結晶でシジエノから撤退です。ヨシュアさんから私へ要望はありますか」
「……ここにいて、アレを観察してほしい。なんとかこの窓から見える範囲に留める」
承知しました、というリリエリの言葉を待たずして、ヨシュアは窓から飛び出した。がらがらと重い石の崩れ落ちる音の最中に、たった一振りの剣のみを携えて。
短い会話の間にも、目の前の異形は絶えず姿形を変化させていた。今は再び翼竜のようなシルエットになっている。……奇妙に突き出た数本の触手に目を瞑れば、だが。
どれほどの個体が集まったのか、化物の身の丈は二階建ての建物の屋根にも迫る高さとなっていた。横幅など、リリエリが三人集まって腕を広げても足りないほどだ。
身じろぎの度、何かが壊れる音が響く。触手の蠢く範囲において、無事な建造物はただの一つも残っていなかった。
その巨体の元では瓦礫や木片すらも残らず、すべてが粉々に砕けていく。破壊の概念を形にしたような巨躯を前にして、ヨシュアの姿は酷くちっぽけに見えた。
蠢く化物はヨシュアなんて見ていない。それでも無暗に振り回される腕の一つに当たっただけで、人は死ねる。
リリエリは祈るように両手を組んだ。しかし祈りはしなかった。
祈りに割ける思考はない。自分にできる限りをもって、リリエリはより良い打開策を考え続けなければならない。
あっという間に化物の手前に到達したヨシュアが、くっと身を低くした。次の瞬間には化物の身は中心で真っ二つに断たれていた。
宙に踊る顔に似た器官が、じろりとヨシュアを睨め付ける。交戦開始の合図であった。




