第三十三話 急襲
頭上で騒ぐ翼竜の声が止まない。理由なんて、たった一つだろう。
気付かれている。リリエリとヨシュアが、この建物に潜んでいることを。
リリエリの額に、どっと冷や汗が噴き出した。
十分な距離、それと魔物避けの存在。この場所で隠れきれる勝算がリリエリにはあった。だからこそ、この状況が強い重圧となってリリエリの心臓を締め付けた。
なんで、どうして気づかれた?
パニックに陥りそうになったリリエリの頭を冷静に留めているのは、これまでの経験と冒険者としての矜持、それと少しの見栄だった。ヨシュアがこちらを見ている。そのことがリリエリの思考を正気の側へと繋いでいた。
そうだ。ヨシュアは自分に指示を求めている。
リリエリは自分の掌に爪を突き立て、震えそうになる体を抑え込んだ。
「気づかれているかもしれません」
出来うる限りの小声であったが、ヨシュアの耳には届いたようだ。ヨシュアは再度天井――上空の翼竜に視線をやってから、一歩だけリリエリへと近づいた。
「出ようか」
カタ、と剣先が床に擦れる音がした。リリエリの指示があれば、すぐにでも戦いに行ける。言葉などなくとも、ヨシュアの言わんとしていることは伝わっていた。
「……まだ、距離があります」
家の隙間から漏れ聞こえている鳴き声は遠い。こちらの場所を完全に把握できているかはわからない。
ここで飛び出すのは早計に思えた。同時に、この考えが極めて楽観的である自覚もあった。
十中八九、ヨシュアと翼竜との戦闘は回避できない。
考えるべきは、そのタイミング。戦闘場所。リリエリのサポートの方法、あるいは隠れ場所。それから転移結晶を使用するかどうか。
転移結晶は拠点から少し離れた建物に設置してある。普通の人間の足で五分、ヨシュアでは一分といったところか。
転移結晶の反対方向で戦闘を行い、必要に応じていつでも逃走の選択肢を取れるようにした方が良い。
拠点の保護という意味ではここからなるべく離れたところで戦うべきだが、無闇に離れすぎるのも危険だ。
火の手段を有するリリエリが戦闘に参加するメリットはある。だが身体能力のデメリットのせいで、ヨシュアの足手まといになる可能性も大きい。
どうする。どうしたらいい。最適解はどれだ。
煮立ったような頭の中、リリエリは必死に思考した。一呼吸だって無駄に使える時間はないのだ。
「……降りてくる気配がない」
そんなリリエリの思考を冷やすかのように、ヨシュアが呟いた。そこに焦燥感は最早なく、代わりに怒りに似た剣呑さが滲んでいた。
「どういうことですか」
「集まってはいるが、ずっと一定の高さを飛んでいる」
「……私たちに気づいていない、から?」
分からない、とヨシュアは頭を振った。
「俺たちに気づいていない可能性はある。翼竜は居住区の上の方でふらふらと動いているだけだ」
「であれば、このまま隠れていた方がいいように思います」
理由は不明だが、降りて来ないのであれば好都合だ。そのままどこぞへと飛び去ってしまえば万々歳である。
一拍の時間をかけてリリエリの提案を吟味したヨシュアは、静かに小さく頷いた。このまま潜み続けることに、ヨシュアも意義はないようだ。
鳥の羽が空を切る音が、鳥に似た声が様々な方向から聞こえていた。注意深く拾わないと聞こえないほどの音が、リリエリの不安を掻き立てやまない。……いっそ懐かしさを覚えるほどの、慣れ親しんだ感情であった。
魔獣の生息地に迷い込んでしまって、丸一晩もの間泥にくるまり身を隠していたことがある。魔物の這いずる音を背中に感じながら、岩の隙間で朝まで祈り続けたことがある。冷たい川岸で腹ばいになって、息を殺しながら魔物の群れが過ぎるのを待ったことがある。
戦う力のないリリエリは、逃げることのみが生きる術。恐怖も焦心も重圧も、当たり前のようにリリエリの隣にあったものだ。
ヨシュアと出会う前であれば片時だって手放すことのなかった感情だ。リリエリはそうやって生き延びて、その上で壁外の未知に焦がれているのだ。
これからだって同じように生きたい。いいやもっともっと色んな場所に行き、色んな景色を見て、色んなものを知りたい。
そのためにはまず、この状況を打破しなければいけない。リリエリは細く長く息を吐いた。根競べなら得意分野だ。何時間でも、何日でも付き合って――
「……ヨシュアさん?」
唐突にヨシュアが頭上を見上げた。視線の先にはアーチ状の薄汚れた天井があるだけだ。ヨシュアの様子はどこか普段と違っていた。……落ちる星でも見るように、ヨシュアの目が見開かれている。
「羽音が、」
止んだ。
唐突に、遠ざかるでもなく、失われた。まるで羽の存在そのものが急に消え去ったみたいに、リリエリの耳には何も届かなくなった。
待ちに待った瞬間だ。それなのに胸騒ぎが酷くて、リリエリは咄嗟に窓へと駆け寄った。なんの変化もない朽ちた家々を見たい、そうでないと安心できない。
覆いにしていた木戸をそっと傾け、リリエリは窓の外に目を向けた。今朝この診療所を発った時と変わらない、生きた人間の気配のないうら寂しい景色だ。
リリエリは次に空を仰いだ。翼竜の有無を確認する、型どおりの行動であった。
だから見た。褪せた色合いの世界の中に、巨大な肉塊が落下する瞬間を。




