第三十二話 隠れ潜む焦燥
魔物の襲来を告げたヨシュアは、それきり脇目も振らずに拠点としている古い診療所の方角へと駆け抜けた。吹きつける風が痛みに変わるほどの速さであった。
空に浮かんだ黒い雲を補足した瞬間にヨシュアの行動が豹変した。リリエリの視力では、あれの正体を判断できるほどの情報が得られていない。今分かるのは、空を飛ぶことができて夥しい群れを形成する魔物、ということだけだ。
最低限の情報からなんとか現状を把握しようとしたリリエリは、はたと気がついた。似たような魔物を、つい先ほど焼却したばかりじゃないか?
あの翼竜が何匹も、何十匹も、何百匹も集った末にあの黒雲を形作っているのだとしたら。
リリエリは心臓に冷えたナイフを差し込まれたような心地になった。恐らくヨシュアも同じ想像を抱いて、だからこそ背負ったリリエリに多少の痛みを与えることも厭わずに走っている。
無策であの群れに接触したら、リリエリを守り切ることができない。ヨシュアはきっと、それを確信している。
幸いなことに、リリエリたちにはまだ時間があった。
魔物の影は、遥か彼方の空の向こうに浮いていた。シジエノ廃村の居住区に到達するには早くとも数分を要するだろう。
馬鹿正直に相対する必要はない。リリエリたちの存在が気づかれなければ、あの魔物に襲われることはないはずだ。
であれば、拠点に潜むのが得策。あの場所であれば外に出ずとも数日の籠城が可能だ。そのために準備をし、そのために魔物避けを施しているのだから。
ガンと音を立てながら、ヨシュアは荒々しく診療所の入口を開いた。飛び込むように中に入り、リリエリを平素より雑に床に下ろし、そのまま一振りの剣を持って外に出ていこうとするところを、リリエリはなんとか引き止めることが出来た。
戦うつもりか? あの数の魔物と?
「ま、ってください。先に情報を共有しましょう。何を見たんですか」
「さっきの翼竜と同じ見た目の魔物だ。数が多い」
やっぱり。思い描いていた最悪のケースに、リリエリは頭痛のような緊張感を抱いた。
「どうするつもりですか」
「戦う。俺の方が再生が早いから、長期戦ならこちらに分がある」
全て粉微塵にすれば再生しなくなるはずだ、とヨシュアは言った。水と氷とは同じ物だと力説するような、さも当然だとでも言いたげな調子であった。
血肉の沼と化した魔物の上にただ一人立つヨシュアの姿を、リリエリは容易に想像することができた。十分な時間と覚悟さえあれば、ヨシュアならやってのけるのだろう。
……ただし、あの魔物がさらなる進化を遂げていないことが前提の話だ。
ここ数日だけでもあの翼竜の特性は大きな変化を見せている。迫りくる翼竜の群れが、先ほど戦った翼竜と同じ性質を持っているとは限らない。
液状になるまで擦り潰しても再生を止められなかったら。魔物の再生が少しでもヨシュアを上回ったら。
ほんの少し考えただけでも、リリエリは最悪の想定をいくつも浮かべられる。あくまで想定。けれど無視することはできない。
「安全策をとりましょう。一先ずここでやり過ごしませんか」
気づかれなければ襲われることはない。やり過ごしたところで翼竜の脅威は消えないが、時間さえ稼げればレダとの合流が叶うかもしれない。
宮廷魔術師であるレダの魔法であれば、瞬きの内に広範囲を焼き尽くすことができるはずだ。再生する魔物の弱点である火を操れる、この上ない人材である。
仮に気づかれた場合はヨシュアの案に移行すればいい。もし魔物の不死性がヨシュアを上回っていたとしても、リリエリたちには転移結晶という最終手段がある。転移結晶の存在を思えば、居住区での戦闘はむしろメリットだ。
潜伏による戦闘回避と、レダの魔法の可能性。気づかれた場合の対応と、二人の持つ最後の砦。
リリエリは自分の考えを手短にヨシュアに伝えた。ヨシュアはたった一言、わかったとだけ返した。
彼の微細な表情の動きを、リリエリは見逃さなかった。ヨシュアの視線が一瞬だけ逃げるように揺れたのだ。そこに宿る感情はわからない。詮索する暇はない。
外の様子を一瞥してから、ヨシュアはそっと扉を閉めた。そうして二人は診療所の奥、広い窓を有する部屋へと移動した。
その窓は元々はガラスが張ってあったようだ。今では見る影もなくなっており、窓の端に鋭い破片が残るばかりである。
現在はどこかの家屋から引っ剥がしてきた木戸を立てかけてある。採光と防寒を鑑みた末の、申し訳程度の対策であった。
リリエリはその木戸をそっと傾け、窓の外に目をやった。移動中に見た雲は、今ではずっと広い範囲を覆っている。
この段になるとリリエリの眼にも詳細が見て取れた。乳白色の鱗を持つ翼竜が、十匹、百匹、気の滅入るほど。
やたらと小さい個体ばかりに見えるのは、距離のせいではないだろう。元々は百匹程度だった群れが、何かをきっかけに分裂し増殖しているのか。
もう一、二分もすればシジエノ居住区の上空にさしかかる。翼竜はかなり高いところを飛んでいて、地表からはそれなりに距離がある。魔物避けの内にいれば、気づかれることはないはずだ。
リリエリはヨシュアに目をやった。彼は無言で頷き返した。後はただここで、全てが過ぎるまで身を潜めるだけ。
そっと木戸を元の位置に戻し、陽の光がほとんど入らなくなった部屋の隅でリリエリは小さく身を屈めた。
しんと静まり返った世界の中、自分の心臓の音がやたらと煩い。緊張感を逃したくてぎゅっと杖を握り締めたが、ちっとも安心できなかった。
ヨシュアもすぐ側でリリエリと同じように身を屈めている。隅にいるリリエリを守るような位置取りであった。
ぼろぼろの木戸には幾つか穴が空いていて、零れた陽光の一筋がヨシュアの横顔を照らしている。煩わしそうに目を細めているヨシュアは、静かに魔物の飛ぶ方角を見ていた。
まだ昼を迎えてそう時間が経っていない。それなのに青空の下を我が物顔で飛び回る翼竜の、なんと奇妙なことだろう。
魔物は陽光を嫌う。そのはずなのに。
……分裂や再生を行う時点で、普通の魔物の枠組みでは測れないか。リリエリは知らず止めていた息をゆっくりと吐いた。
魔物の気配を追っているヨシュアの視線は、今では真上を向いている。遠くからぎゃあぎゃあと翼竜の喚く声が聞こえていた。
よく注意を向けないと分からない、しかし喧しい翼竜の鳴き声にリリエリはじっと耳を澄ませた。この声が聞こえなくなったら、隠れきれたということだ。
バクバクと鳴る心臓の音をかきわけながら、リリエリはひたすら時の過ぎるのを待った。翼竜の鳴き声はまだ聞こえている。聞こえている。聞こえている。
……鳴き声が、離れていかない。




