第二十九話 リリエリの小さな覚悟
「焼きます。この小屋ごと」
「分かった。油は俺が撒く。点火を頼みたい」
ヨシュアの理解は早かった。リリエリはバックパックから山羊革の袋を探り出し、ヨシュアに放り投げた。中には少量の、しかし着火剤としては足る程度の油が入っている。
長い時を経て乾き崩れたこの小屋は、小屋としては最悪だが薪としては最良だ。屋根がないおかげで、数日前に降った雨もすっかり乾ききっている。
あの化物の全身を小屋の中にぶち込んで油を撒き、火を点けることができれば、二度と再生できない程に焼却することができるはず。
「リリエリ、自力で外に出られるか」
「いけます」
時間稼ぎか少しでもあの巨体を削ぐためか、ヨシュアは話している間も手を休めずに翼竜に攻撃を続けていた。
集合体である翼竜の身体は脆い。一太刀で容易に崩れ落ち、ヨシュアの足元に池のように溜まっていく。
ぐちゃりと湿った音を立てながら、ヨシュアはじりじりと後退していた。リリエリが小屋から完全に離脱したのと入れ替わるようにして、小屋まであと数メートルという位置だ。
おびき寄せるだけなら難しい仕事じゃない。あの化物は単調に、ただ目の前の獲物だけを狙い続けている。厄介なのはその次のステップだ。
絶えず身体の形を変化させている翼竜の動きは酷く鈍い。それでも、燃える火の中に留まらせ続けるのは難しいだろう。
火を避けようとするか、あるいは火にも怯まずにヨシュアを追い続けるか。理由はどうあれ、燃える小屋から離脱されてしまうと、あの巨体の全てを焼き切れるかは怪しいところだ。
小屋という燃料を踏まえてもなお、熱源は潤沢とは言えない。何か逃さない手段が必要だ。
だが最適な方法を探すには物資が足りない。情報が少ない。時間も無い。
リリエリはあの魔物が火を忌避する性質を持つことに賭けた。あんな形でも元は獣。獣であれば、火を嫌う。
「退路を断つように油を撒いてください! あの魔物を燃やし切るには、小屋の中に留める必要があります!」
返事は聞こえなかった。リリエリの耳に入ったのは、翼竜が振るった腕のようなものが周囲の墓石を薙ぎ倒し、砕き、押し潰す音ばかりだ。
それでも、ヨシュアの聴力なら届いているだろう。
ヨシュアは一歩ずつ、しかし確実に化物を小屋へと導いていた。もう幾ばくもすればあの巨体の大半が小屋へと入るだろう。そうしてヨシュアが迅速に退避し、うまく油を撒いて、リリエリが着火する。
……彼であれば、できるはずだ。リリエリは杖を強く、指が白くなるほどに握り締めた。
とうとうヨシュアの足が、朽ちた小屋の敷居を跨ぐ、その時であった。
ずるずると地面を這いずっていた肉片が、唐突に翼竜の形に留まるのをやめた。ただ不定形の塊のまま、切り落とされた肉片のまま、ヨシュアの足に纏わりつき始めたのだ。
空も飛べない不格好な翼が、腐り落ちるようにしてヨシュアの右足に絡みつく。まるで底無し沼が這い上がっているかのような、異常な光景をリリエリは見ていた。
すぐにでも火を点けられるようにと小屋のごく近傍で着火の瞬間に備えていたリリエリは、目の前で生きた底無し沼に引きずり込まれそうになっているヨシュアを見て、思わず声をあげた。
「り、離脱を、離脱を優先してください!」
蠢く泥状の何かは、所々に浮かんだ乳白色の鱗を輝かせながら足元に、小屋の床上に広がり始めている。
けして素早くはない。ヨシュアの足は、気安く絡みついてくる翼竜だったものを容易に引き千切った。
だから、彼であれば、小屋の外に逃げることくらい簡単にできたはずなのだ。
小屋のちょうど中央部に到着した時、ヨシュアはぴたりと動きを止めた。不定形の魔物は蠢動を続けていて、そんなことをしていてはすぐに全身が覆われてしまうというのに。
「持っていてくれ」
ヨシュアは左手に握っていたアダマンチアの剣を放り投げた。投げた先はリリエリのいる場所から少し外れていて、リリエリに渡すというよりは小屋の外に出したいという意図なのだろう。
そうしている間にも、ヨシュアは既に胸元の辺りまで生きた沼の中に囚われつつあった。べきべきと床を軋ませながら、粘度の高い水音が目の前で蠢いている、のに。
なぜ、どうして逃げない?
リリエリの頭はそんな疑問で埋め尽くされていた。少なくとも、自分自身ではそう思っていた。
それでも逃げろと叫べないのは、心の何処かでは既にヨシュアがやろうとしていることを把握しているからだ。
ヨシュアは右手を高く掲げた。その先には逆さまになった山羊革の袋が握られていて、中に入っていた液体が辺りに――主にヨシュアの頭上に、撒き散らされていく。
「頼んだ」
いつもみたいにヨシュアが言った。それきり、掲げた右手以外の全てが肉塊の沼に沈み込んだ。
何を頼まれているのかを、リリエリは一瞬のうちに理解した。理解してしまったのだ。
リリエリの視界の端には、ヨシュアが投げ捨てたアダマンチアの剣が転がっている。そのすぐ横に、自分の姿を幻視した。あの日ヨシュアに剣を振り下ろせなかった、弱いリリエリの姿を。
やがて来るその時に、その手が鈍らないようにとレダは言った。
ヨシュアをどうか、よろしくお願いいたしますとステラは言った。
これが彼らの言葉に報いる行動かどうか、リリエリは未だに確信を持てない。
それでも、自分にできることをしたい。この気持ちは紛れもなくリリエリの本心である。
これは前に進むための行為だ。
レダの約束を、ステラの覚悟を導として、前に進み続けるための。
リリエリはもう、迷わなかった。
パチリと小高い音がする。それを合図に、構えた杖の先端から青く輝く炎が吹き出した。ささやかな炎は乾いた木に移り、そして油に引火して瞬く間に燃え上がる。
リリエリの生み出した小さな覚悟は、奇怪な魔物とヨシュアの体を包みながら、青い空をも焦がすばかりに高い火柱をあげたのだった。




