第二十四話 在り方
リリエリは古ぼけた壁に一つ傷をつけた。傷の数は七本。シジエノ廃村での生活が、今日で七日目となった証だ。
妙な魔物の件はあったが、以降何かが起こるということはなかった。あの日から天気も崩れず、直近の望みであった南方への探索も昨日一昨日と無事に二度ほど行った。
南方は湿地帯が広がっていて、乾いた土地であるエルナトとはがらりと違った植生が見られる。リリエリにとって初めて見るものばかりの場所で、得られるものも多かった。状況が許すならもう数回は冒険に行きたいところだ。
魔物にも少なくない数遭遇しているが、そのいずれにおいてもヨシュアが手間取ることはなかった。むしろ楽しそうな様子すら見せていて――気のせいと言われればそれまでの微妙な趣きであったが、彼にとっては気晴らしの運動程度の感覚なのかもしれない。
ステラと設置した転移結晶も問題なく魔力の充填が完了している。何かあったらすぐにエルナトに戻れるというのは、想像以上の安心感をリリエリにもたらした。
味はともかく、食用にできる植物もいくつか確保している。紋章魔術による水の生成基盤も安定し、当面の生活に対する不安はほとんどないと言ってもいい。
ヨシュアの様子にもなんらおかしいところはなく、むしろエルナトにいたときよりも調子が良いと彼は言う。実際シジエノについてからのヨシュアは随分と早く起きる日が多く、今日だって日が昇るころからふらりと散歩に出るほどだ。
順調だ。恐ろしいくらいに。
いつまでだって暮らしていけそうだ、とリリエリは思う。同時に、ステラの帰りが酷く待ち遠しい。
こんなうら寂しいシジエノ廃村でなく、小都市エルナト、いいや別の都市だっていい。もっと賑やかで、人の気配があって、明るい刺激のあるような場所。きっとそういう場所で生活した方がヨシュアのためになるはずだ。
奇跡みたいに憂いのない終結を、リリエリはただひたすらに望んでいる。祈ることしかできない自分が嫌になることも時折あるが、リリエリはその度にステラの顔を思い出すのだ。
ヨシュアをどうか、よろしくお願いいたします。彼女にそう託された自分にできること、やるべきこと、叶えられること。
必死に考えながら目の前のことを成す日々がいつかより良い結末に繋がると、そうリリエリは信じている。
■ □ ■
「魔物の気配がする。出てくる」
ヨシュアは端的に言い残し、音もなく古い診療所を出ていった。
魔物は陽の光を嫌うため、夜の方が活発に活動する傾向にある。特に分厚い雲によって星の隠れたこんな暗い夜は殊更だ。
シジエノ廃村の領域に侵入した魔物は都度ヨシュアが対処している。
簡易な魔物避けを施してはいるが、それはあくまでこの拠点を中心とした極一部の範囲に留まる。シジエノ廃村の境界付近は実質ノーガードで、魔物の進行を妨げるものは何一つとして存在しない。
そのため、夜になるとヨシュアは頻繁に魔物を払いに外に出る。リリエリが起きている時は一言言い残していくが、寝ているところを起こされたことはないため、リリエリの知らない間に魔物を払いに出ていることもあるのかもしれない。
人々が主に生活していたエリアはそう広くはないが、畑や牧場を含めた範囲は広大だ。そしてヨシュアは後者の範囲をシジエノ廃村として認識し、行動している。
念には念をという判断なのだろう。リリエリにとってはありがたい限りだが、はたしてヨシュアは休めているのだろうか?
外は強い風が吹いていて、どこかに空いている隙間からひゅうひゅうと甲高い音が聞こえている。昼時にチャレンジした未知の草の影響か、目が冴えていてとても眠れそうにない。
リリエリが記録を書き留めたり本を読んだり採ってきた素材を陰干ししたりしていると、ややあって玄関の開く音が聞こえてきた。ヨシュアが戻ってきたようだった。
想定よりずっと早い帰りだ。衣服に汚れはついているが、血の流れた跡はなかった。今回は相当楽な相手だったらしい。それでも、労力であることには変わりはないだろう。
「お疲れ様でした。困ったことは起きませんでしたか」
「ない」
「良かったです。……その、相談なんですが。警戒範囲をもう少し狭めた方がいいんじゃないかと思っていて。ヨシュアさんはどう思いますか」
その問いかけに、剣の汚れを拭っていたヨシュアは動きを止めた。じっと剣先を見つめて固まっているのは、自分の中に答えを探しに行っているためか。結局彼が発した言葉は、リリエリの問いへの回答ではなかった。
「……アンタはどうしてそう思うんだ」
「夜ごとに最低一回、私が把握している限りでは最高三回は魔物を倒しに出ていますよね。休みがとれていないんじゃないかと心配です。ヨシュアさんは今かなり遠くまで見て下さっていますが、もう少しくらい狭めてもいいのでは、と」
壁外で生活している以上、防衛のためにできることはできる限りやった方がいい。だがこの生活がいつまで続くかが不明瞭な今、持続性を鑑みることも肝要だ。
シジエノ廃村の領域に留めている時点で、ヨシュア的には十分範囲を絞っているつもりなのかもしれない。でもステラと二人で修復した魔物避けもある以上、防衛ラインを居住区に限定しても滅多なことにはならないはず。
要するに、過剰防衛ではないか。そういったことを、リリエリは柔らかく包み込んでヨシュアに伝えた。
「そういう、ことか」
ヨシュアは小さく呟いて、再び剣を拭う手を動かした。リリエリはその言葉の中に、どこか安心したような気持ちを感じ取った。
「気を使わせてしまったようで、すまない。でも……そうだな。これは俺がやりたくてやっていることで、……こういう言い方はおかしいかもしれないが」
嬉しいんだ。
ゆっくりと言葉を探す時間をかけて、ヨシュアは控えめに口にした。部屋の隅、暖をとるために焚いている火がぱちりと一つ音を立てた。
「誰かを守れるということが、俺はとても嬉しいんだ」




