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短編集『桜歩道』

知恵の実の教誨

作者: 宮本颯太

 警視庁T警察署の地域課に勤務する(まつ)(かわ)()()巡査長はその日の職務を終えた夕方、都内にあるA女子少年院へと電車とバスを乗り継いでやって来た。院内の受付窓口で顔見知りの法務教官に声を掛ける。

(とう)(ごう)さん、こんにちは」

 紅実の姿を見た40歳前後と思われる女性法務教官の東郷みゆきは、

「ああ、松川さん。お疲れ様」

 と引き締まった表情にも笑顔を見せた。

「毎月じゃ大変じゃない?お仕事帰りなんでしょう」

「いえ、本人との約束なので。それに上司の許可も下りてるのでこれも仕事の内ですよ」

 そんなやりとりをしながら受付表を記入して、面会室まで案内してもらう。

「じゃあ、しばらくお待ちください」

 そう言って一旦面会室を出る東郷を見送ってから、紅実はソファに腰を下ろし、肩に吊るしていたバッグを横に置いた。


 10分近く待ったところで、東郷が目つきの鋭い一人の少女を伴って面会室に入室して来た。

()()()ちゃん、こんにちは」

 紅実が微笑みかけると少女は、

「どもっす……」と俯き加減にぎこちなく返した。

 東郷に促されてソファに腰掛けた()()(やま)紗央莉は色々と紅実に話したい事がある様子だが、傍に東郷がいると萎縮して口を閉ざしてしまうのだった。東郷もそれを慮って、

「それでは松川巡査、私は部屋の外で待機します。お時間の方ですが、今日は長くても20分以内で」

「了解です。私も責任持って見ておりますので」

 紅実が頭を下げると、東郷は再び部屋を出て行った。

 カチャ、とドアが閉まる。紗央莉はそれを確認してから初めて顔を上げて紅実を見ると思わず吹き出し、声を抑えて笑い出した。

「へっ?何よ……」

 紅実も釣られて笑ってしまう。紗央莉は小刻みに肩を震わせながら、

「いやいや、緊張から解放されたもんでつい……」

「あー。東郷先生、厳しい?」

「超こえーっすよ。容赦ねぇっすもん」

 途端に目を見開いて青ざめる紗央莉だったが、

「でも東郷先生、意地悪じゃないんすよね。やっぱキリッとしてて、隙がないってゆーか」

 との評価を付け加えたことに、東郷法務教官の毅然とした仕事ぶりが垣間見えた。


「いい先生じゃん。私の上司なんてもっと容赦ないよ。今日も怒られたし」

「うぇ!?マジすか!怒られたんすか?」

 紗央莉が身を乗り出した。

「うん。何かさ、すっごい冷たい雰囲気で圧かけて来るんだよね。それがもう、めちゃくちゃ怖いの」

「うわー、そりゃムカつくわ!ぶっ飛ばしてやりゃいいじゃないすか!」

 眼光をギラつかせた紗央莉だったが、すぐ我に返り、

「……っていうことを言っちゃいけねーんすよねぇ」

 と苦笑いしながら頭を抱えた。

 ああ、成長したな。紅実はそう思って、紗央莉と初めて会った日を思い出した。


 ◆


 遡ること1年半。まだ紅実が巡査で、交番勤務をしていた頃だ。そして、厳しい警察学校がまだマシに思える程の激務に疲れ果て、警察官を辞めようかと悩んでいたのもこの頃であった。


 雨の降る平日の午後。珍しく一人で防犯パトロールをしていたその日に、街中を徘徊していた紗央莉を見かけた。当時の紗央莉は所轄内でも有名な不良グループに属していて、その悪名は紅実の耳にも届いていたし、過去の補導やら取り締まりやらで撮影された写真も見せられていたので、顔も知っていたのだった。

 この時の紗央莉は15歳。本来なら学校で授業を受けているはずである。にも関わらず、およそ中学生とは思えぬ服装と雰囲気と、凶悪な表情をしていた。

 内心たじろいでしまったものの、それを表に出さぬよう自分を御して、紅実は紗央莉に対して職務質問をしたのだが――、



「紅実さん、紅実さん」

 紗央莉に呼び掛けられて、紅実の意識は面会室に引き戻された。

「あ、ごめん。ちょっと……」

 口籠ったが、紗央莉は全てお見通しだったようで、

「ぜってぇ私にワッパ掛けた日のこと思い出してたっしょ?ふふ、馴れ初めの日……」

「ちょっ、馴れ初めって何よ?!」

 不可思議な言い回しで笑いを誘ってきた紗央莉にツッコミを入れつつ、紅実はケタケタ笑ってしまった。

「でもまあ図星だよ、紗央莉ちゃん。馴れ初めを思い出しちゃってた。あなたに声を掛けて、怒られて、突き飛ばされて尻餅つかされて、起き上がった時にはもう50メートルくらい先を走っててさ。信じらんなかったよあの俊足」

「ひゃはは、その節はどーも。でもまさかあんなに引っ付いて追っかけて来るとはあたしも予想外っした。『このお巡りマジかよ!?しつけぇ!!』って」

「そりゃそうさ。執念の追跡だよまさしく」

 紅実の控えめな笑い声と、紗央莉の豪快な笑い声が面会室に響いたが、二人ほぼ同時にお互いに対して「シーッ!」と口元に人差し指を置いた。

「……セーフ」

 小声で紗央莉が言った。部屋の外にいる東郷教官は聞こえなかったフリをしてくれたようだ。

 それから再び『馴れ初め』の日の話に戻った。

「はぁ、それにしても……あのビルで撒けると思ったんだけどなー」

 紗央莉の呟き。

 紅実もよく覚えている。


 ◆


 1年半前のあの日、追跡していた不良少女紗央莉は通り沿いにあった4階建ての廃ビルの中に逃げ込んだ。紅実は自前のフラッシュライトで物陰に隠れた紗央莉を照らし出し、上階から上階へと追い立て、遂に雨の打ちつける屋上で袋の鼠にしたのだった。

「クソが!!」

 ここでヤケを起こしたかの様に掴みかかってきた紗央莉に紅実も応戦し、格闘になった。揉み合う内に紗央莉の懐からギラリと雨の光を冷たく反射した何かを見た。ナイフだ。

 紅実は咄嗟に紗央莉を蹴り飛ばして一旦、間合いを取り、腰から警棒を抜いて構えた。

 紗央莉は怯む事なくナイフで突いてくる。しかし、訓練を重ねた紅実巡査にしてみれば避ける必要もないほど遅い突きだ。電光石火の警棒捌きでナイフを叩き落とし、そのまま警棒で紗央莉の腕を極めて地面に倒した。

「痛ってぇなお巡りぶっ殺してやる!!」

 と唸り声を上げる紗央莉を、

「黙れ!大人しくしなさい!!」

 と一喝した。

 これが効いたのか、紗央莉は暴れるのはやめた。やめたが、犬歯を剥き出して威嚇していた為、紅実はやむを得ず手錠を掛けることにした。

「14時39分。公務執行妨害」

 ガチャ、と少女の手首に手錠が掛けられた音が雨音を引き裂いて響き渡る。

 松川紅実にとって、これが初めて手錠を使った瞬間であった。

 無線で本部に連絡し応援を待つ間、二人は屋上の縁を囲うパラペットに背中をもたれて顔を雨に打たれ続けていた。本当はとっとと下まで降りて、雨宿りしながら待機したかったが、死闘の後ではその場を移動する体力がお互い残っていなかったのである。


「……やるじゃねえっすか、婦警さん」

 ペッ、と口に入った雨水を吐き出しながら紗央莉が鋭い目つきで紅実を称えた。

「何がよ?」

 疲れ果て、この期に及んで何を言ってるんだと呆れた様子の紅実に対し、紗央莉は「へへっ」と鼻で笑い、

「こんな手も足もでねぇで喧嘩に負けたの初めてっすよ」

 と言った。

「……へえ、そう」

「ところで婦警さん、ワッパ初めてっすか?」

「は?」

「ワッパっすよ、これっす。使ったの初めてじゃね?明らか慣れてなかったもん」

 紗央莉は自分の両手首に掛けられた手錠をガチャガチャと振ってみせた。

「ああ、まあ、そうだね。初めて掛けた。何、痛かったの?」

「今も痛えっす」

「なら下手に動かさない方がいい。余計に締まるよ」

「へへっ、知ってるっす。仲間から聞いてるんで」

 得意になってんじゃねぇよ!と喉元まで出かかったのを呑み下し、代わりに大きく息を吐いて、体育座りになって膝に額をつけて項垂れた。

 視界の端に格闘の最中に転げ落ちた制帽が見えるが、取りに行く気力も無い。

「初めてワッパ掛けたのが私ってことは……おっ?結構な手柄なんじゃねぇっすか。良かったっすね」


 そう。紗央莉はこの界隈ではかなり悪名高い。そんな相手に手錠を掛けて逮捕したのは手柄と言えば手柄なのかもしれない。しかし、

「良くねぇよ」

 ボソリと紅実は言い返した。

「へ?」

「紗央莉ちゃん……柚子山紗央莉ちゃん、だよね?」

「ほい、そっす」紗央莉は一瞬キョトンとしてから、

「やっぱ私は名が知れちゃってますかー!はっはっはっ!婦警さん大出世間違いなしっすよ」

 と高らかに自嘲気味な笑い声を上げた。

「笑い事じゃねぇよ!!」

 それを紅実が更に大きな声で掻き消した。

「あなた今いくつ?まだ15かそこらでしょ!まだ子供なんだよ?それなのに手錠なんか掛けられて……何してんの?」

 キッ、と鋭い表情で顔を上げた紅実巡査に紗央莉は思わず黙り込んだ。

「私が出世するって!?ふざけんな!あなたに手錠かけるくらいなら一生ヒラのまま終わった方が良い!子供が手錠なんか掛けられるくらいなら、その方がずっと良い!!」

 血が滲むくらいに唇を噛み締める紅実を、紗央莉は相変わらずポカンとしながら見ていた。


 やがてパトカーのサイレンが聞こえ、廃ビルの足元で止まった。パラペットの向こうを振り返れば、赤色灯が煌々と回って周囲の建物の壁を赤い光が走っているのが屋上からでも見えた。

「婦警さん」と紗央莉が静かに呼び掛けた。

「なに?」

「あの、名前聞いていいっすか?」

 紅実は一瞬、迷ったが、

「警視庁T警察署地域課巡査、松川紅実」と名乗った。

「松川さん……紅実さん。あの、私も今まで何度も警察の厄介になった事あるけど、ワッパは初めてだったんすよ」

「おう、それで?」

「私、初めてのワッパが紅実さんで良かった気がしますわ」

「……からかってんの?」

「ちげぇっす。本当にっすよ。あんなこと私に言ってのけるの、紅実さんくらいっすもん」

「何が言いたいの?ハッキリしなさい」

「んーと、あの、私たぶん、これで少年院送りになると思うんすよ。今までその、余罪っつーか……知っての通りかもだけど、まー色々やらかしてるんで」

 紗央莉は切れ長の瞳で紅実の童顔を見ながら、少しだけ恥ずかしそうに言った。

「もし出来たらでいーんで、ちょいちょい面会来てくれません?親はぜってぇ来てくんねーだろうし。来てほしくもねーし」

 頼みますっす、と手錠の食い込んだ両手を合わせてお願いする紗央莉を見て、紅実はほぼ無意識のうちに、

「ああ、いいよ」とOKした。

「マジっすか!?ありがとっす紅実さん」

 パッと紗央莉の表情が明るくなったと同時に応援の警察官数名が屋上に上がってきて、二人に肩を貸しながら立たせた。

「松川、平気か?」

 駆けつけて来ていた中には直属の上司もいて、心配そうに紅実に声を掛けた。

「はい。大丈夫です」

 と疲れた笑みを見せていると、

「じゃー紅実さん、約束っすよ!!」

 複数の警官に囲まれて屋上から連行されていく紗央莉が背中越しに振り返りながらまた高らかに声を上げた。

 仕方ないな、と紅実も頷く。

 そのやり取りを見た他の警察官達は皆一様に、不思議そうな顔をして二人を見比べていた。


 後から聞いた話では、あの日の紗央莉は反社組織が仲介する違法行為で金銭を受領する手筈だったらしく、もし紅実と会っていなければ取り返しのつかない結末となっていたのかも知れなかった。

 それを聞いて紅実は安堵すると共にやはり悲しくなったが、上司づてに紗央莉からの伝言を聞かされた。

『紅実さん、一生ヒラのままじゃダメっすよ!もっと偉くなって私みたいな奴いっぱい捕まえてやって下さいね!!』

 これを聞かされた時、思わずどの立場から言ってるんだと苦笑いしたが、同時に警察官の職務に辟易していた気持ちが晴れて、もう少しこの仕事を続けてみようと思わせてくれたのだった。


 ◆


 そこまで思い出して、紅実は再び面会室で紗央莉の顔を見た。

 あの時と変わらず、鋭い強さを秘めた切れ長の瞳。でも今はどこか落ち着いていて、安心感がある。

「紅実さん」

「ん?」

「今日も来てくれてありがとうございました。怒られちゃうかもだけど、私やっぱり紅実さんに捕まえてもらえて良かったって、本当に思ってるっす」

 嘘偽りのない言葉だが、紅実は微笑みつつも、あえて眉を(ひそ)めながら首を傾げてみせる。

「私はまだ良かったとは言えないなあ」

「うわ、厳し!」

「だってそりゃそうさ。紗央莉ちゃんがしっかり社会復帰して、幸せになってくれて初めて私は良かったって言えるんだよ。それまでは、紗央莉ちゃんが私の気持ちを預かってるんだからね」

 紗央莉は「分かりました。それだけは責任持って預かっとくっす!」と決意を現わにしてから最後に、

「紅実さんも、敵も味方も色んな奴がいるみたいっすけど、そんな変な奴らなんかに負けないで下さいっすよ!」

 と声を張って、紅実を励ました。


 その後、タイミングに気を遣って入室した東郷教官が面会時間の終了を知らせた。また会いに来ると約束して、紅実は教官に連れ添われて面会室を出る紗央莉を見送った。


 ◆


 院を出ると、まだ夕焼けが街の空を染めていた。

「綺麗……」

 院の目の前にあるバス停でショルダーバッグに手を掛けながら夕日を見上げて独り()ち、ふと紗央莉の姿を思い浮かべる。

 もし退院した後も会うようなら、夕日の綺麗な場所に連れて行ってやろう。それでお互いの近況を語り合って、悩む事があるなら聞いてやろう。

 こんな風に思い入れしてしまうのは警察官としてはあまり良くないのかもしれない。しかし紅実にとって、柚子山紗央莉は自分が最初に手錠をかけた相手であると同時に警察官を続ける意味をくれた存在でもある。

 だから陽の当たる道を歩いて、幸せになって欲しい。その為の協力なら何でもするから……。


 やがて到着したバスに乗り込み座席に着いた紅実は不意に明日の激務を想像してため息が出そうになったが、

『紅実さんも変な奴らなんかに負けないで下さいっすよ!』

 ついさっき紗央莉が掛けてくれた言葉を思い出して、そんな明日でも頑張ろうと思えた。


 夕日の逆光に浮かぶバスのシルエットは通りを行き、街の中に消えていった。

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