理性者の恋
生きていれば誰だって理不尽な目に遭うことがある。とはいえ、流石にこれはあんまりだわ、とシルヴァ・ローズは思った。
貴族院――名の通り貴族の子息令嬢が通うよう義務づけられた学院である。プレ社交場、社会の縮図ともいえるここでは、組織もそのように機能する。つまり生徒会は中央の貴族の子どもたちで固められ、地方貴族には縁遠い場所だ。しかし、シルヴァは現在、生徒会室にいる。カフェテリアに行こうとしていたところ、声をかけられ問答無用で連れて来られたのだ。
目の前には前王の妹君の血筋である侯爵家の次男ベンジャミン・エイベルが無表情に近い真顔でソファに腰かけている。その背後で興味深そうに立つのは伯爵家、アルベルト・クロックス。彼はいずれエイベル家の護衛騎士になるという話だ。その一環として在学中はベンジャミンに仕えている。
室内の空気は張り詰めていて、実に居心地が悪い。
所在なく、視線の置きどころもないので、シルヴァはテーブルを見つめる。そこにはベンジャミンの側仕えにより出されたお茶があり、ゆらゆらと白い湯気が立ち上っている。
何故、このような呼び出しを受けたのか――ベンジャミンの従妹にあたるメアリー・オーガスタとシルヴァの故郷であるリストリア領の領主の嫡男、レドモンド・カーターが婚約することになり、それに関して流れている噂の件だろう。
それはどのような噂か、詳細を語る前に少しシルヴァとレドモンドについて述べておこう。
シルヴァの母親がレドモンドの乳母をしていた関係で二人は仲が良かった。同じ年であるのに、レドモンドはシルヴァを姉のように慕っている。そういうこともあり学院への入学に際しシルヴァは領主から直々にレドモンドを頼むと告げられた。足の引っ張り合いなど日常茶飯事の貴族院で、穏やかで優しい性分のレドモンドが無事にやっていけるのか余程心配だったのだろう。しっかり者のシルヴァが傍にいてくれたなら安心できるという親心である。
頼まれた通り、シルヴァは時間が許す限りレドモンドの近くに控えるようにしていた。
三年間そうして過ごすはずが……レドモンドは恋をした。それがメアリーである。彼女は中央の伯爵家の末娘だった。
中央貴族との婚姻が実ればカーター家に、ひいてはリストリア領にとって大変な繋がりを得ることになる。これまで権力争いとは無縁の、だからこそ平和を保てていたリストリア領だが、積極的に争いの渦中に飛び込む気はなくとも、目の前に現れた幸運を逃すほど気概なくもない。何より二人は愛し合っている。かくして婚約の運びと相成った。
……のはいいのだが問題も起きる。これまでノーマークで下にさえ見ていたカーター家がメアリーと縁を結ぶ。他家にとって面白いはずはなく嫌味や皮肉、悪い噂を流された。レドモンドは恋仲であったシルヴァを捨てメアリーを選んだと。
確かに、シルヴァとレドモンドは一緒に過ごすことが多かったのでそのように曲解することは可能だ。何事もなければ田舎者が都会で心細く肩寄せあっていると歯牙にもかけられなかったが、注目された今は足元をすくわれる。まさかこのような裏目に出るとは……しかし、嘆いても仕方ない。重要なのは今後、いかに対処するか。コネのない二人にとれる対策はほぼない。共にいることをやめ、ひたすら沈黙し、沈静化を待った。たが、噂は消えるどころか、近頃では嫉妬したシルヴァがメアリーに嫌がらせをしているなんてものまで流れ始めた。
そんな中で、生徒会室に連れられてきた。生徒会は生徒間のトラブルを解決する役割がある。ついに生徒会にも看過できないと判断されたのだろう。
「レドモンド・カーターとメアリー・オーガスタの婚姻に関することで……どう、お思いか。何か、不満があるなら聞こう」
ベンジャミンは抑揚のない無機質な声で言った。
単刀直入だ。そして切り出された内容にシルヴァは奥歯を噛む。
ひょっとして全く別の件での呼び出しかもしれないとわずかにあった期待も、不名誉な噂を流されているシルヴァのために噂を流した者を処罰してくれるというものかもしれないという望みも、どちらも見事に潰えたのだ。それどころか、最も忌憚していた理由だった。――ベンジャミンは不満があるなら聞こうと言った。つまり、シルヴァが二人の婚約に不満を抱いている……嫉妬して嫌がらせをしているのかを確認しようとしているのである。
(あんまりだわ)
愕然となり、シルヴァは心の中で呟いた。
メアリーに嫉妬などしていないし、仮に嫉妬していたとしても、それで嫌がらせなどするはずがない。心で妬むことと、妬みで実際に加害することは全然違う。両者の間には容易には越えられない壁がある。中にはそれを乗り越えてしまう者もいるが、自分の感情を当たり散らすような人と一緒にされたくなかった。
まして今回の場合、相手は中央貴族のお嬢様である。格上も格上、シルヴァからすればメアリーは雲の上の方といっても過言ではない。そんな人に危害を加えるなど後でどんな影響がでるか。真面な神経をしていたらするはずがない。
そのようなありえないことを疑われているのだから、ひどいと嘆きたくもなる。
おまけに、取調べの相手がよりにもよってベンジャミンなのだ。
(どうしてこんな形で関わることになってしまったのかしら?)
シルヴァは油断すると表情が崩れそうになるのをこらえベンジャミンを見据えた。
端正な顔立ち。侯爵家の次男であり、学業優秀、見目も麗しい彼はとても目立ち、懸想している生徒も多い。かくいうシルヴァもひっそりと憧れていた一人だった。もっともシルヴァのような下級貴族がお近づきになれるわけもなく、本当に淡いものだったけれど。
その憧れの人物からこのような仕打ちを受けるなどあんまりだ、とシルヴァは思った。
だが、悲しむばかりではいられない。誤解であることを主張しなければ。
「不満なんてとんでもありません。メアリー様との御縁を持てたこと、領主一族筆頭にリストリア領に暮らす者すべてが喜び光栄に感じております」
声が震えそうになりながらも返す。
ベンジャミンは相変わらず無表情で、すっと視線を逸らすと握り込んだ右の拳を唇にあてがい小さく咳払いをし
「私が知りたいのは、リストリア領のことではない。貴方の個人的な気持ちだ。シルヴァ嬢」
と問い直してきた。
どうやらリストリア領の話に置き換えて言い逃れしたと解釈したらしい。
「わたくしも、もちろん、嬉しいですわ」
「……それだけですか? 他には?」
他も何もないが……ベンジャミンの中では他にあることになっているからこその台詞なのだろう。
シルヴァは眉をひそめた。
(……噂が本当だと本気で思っていらっしゃるの?)
実のところそれは最初に問われたときから薄らと感じていた。ベンジャミンは「不満があるなら聞こう」と言ったが、言い方には「あるなら聞こう、ないならよい」という確認より「あるだろう。白状しろ」と確証を得ているようなニュアンスが強かった。しかし、あの噂は出鱈目であり、どれだけ調べても確証など得られるはずがないので、シルヴァは違和感を受け流したのである。だが――
「言いにくいだろうが正直に話してもらえないか。そうしてくれたら、私にもできることがあるかもしれない」
黙っているとベンジャミンは続けた。
(これって素直にしたことを認めれば罪が軽くなるよう取り計らうということよね?)
もう、間違いない。
ベンジャミンは真相を確認するためにシルヴァを呼び出したのではない。噂を真実と信じ、シルヴァに罪を償わせようとしている。
(なんてことなの!?)
目眩を起こしそうだった。
(何故、こんなことに……)
シルヴァにはわからなかった。……いや、こうなったからにはそんな誤魔化しは意味がない。認めたくはないが噂を真実だと訴える者がいたと考えるべきだ。――そして、それをするのはただ一人、メアリーである。
そも、このような被害者と加害者がいるようなケースは、まず被害者から話を聞くものだ。そうでないと違っていたとき加害者とされていた相手に大変失礼になる。まして、ベンジャミンとメアリーは従兄妹なのである。話したこともないシルヴァよりも先にメアリーに尋ねるのが自然だ。つまり、メアリーからすでに話を聞いて、それで尚、シルヴァを呼び出さなければならないと考えた。メアリーはシルヴァにいじめられていると証言したのだろう。
(いいえ、待って。そうだとしても、おかしいわ)
シルヴァに更なる疑問が生じた。
生徒会がこの件を調べるなら、公正をきすために当事者の親族であるベンジャミンを参加させないはずだ。実際、ベンジャミンはメアリーの証言を信じ、シルヴァの言い分など聞く気がないように感じられる。こんな不平等を許すだろうか。それとも、生徒会は中央の生徒で固められているので、上級貴族に優位になるのは当然なのだろうか。
呼び出しに動転して見落としていたが、一つずつ検証していけば現状は何もかもがおかしい。
生徒会室に連れてこられたから、生徒会の召喚と思い込んだが、この呼び出しは正式な生徒会の活動ではなく、メアリーがベンジャミンに助けを求め、それを信じた彼の独断の結果なのではないか。そう考えれば辻褄が合う。辻褄は合うが……早計というか、身内に甘いというか、職権濫用というか、ベンジャミンに対しての憧れが崩れていく思いがした。そして何より、
(メアリー様はわたくしを嫌っていらっしゃるのね)
その事実は、シルヴァに強い衝撃をもたらした。
はじめにメアリーと親しくなったのはシルヴァだった。同じクラスで、メアリーの方から話しかけてきたのだ。シルヴァはたいそう驚き、何かしてしまったのかと不安になった。下級貴族のマナーがなっていないと吊し上げて嘲笑うようなタチの悪い遊びをする上級貴族もいる。警戒心いっぱいで接した。だが、偉そうにされることも、身分を笠に着て無理を命じられることもなく、メアリーは穏やかで親切だった。次第にシルヴァも警戒心を解いていった。
そして、運命の日がくる。
シルヴァがレドモンドと共に学院内にあるカフェテリアにいるとき、通りかかったメアリーに声をかけられた。メアリーがチラリとレドモンドを見たので、紹介しないわけにいかず、そのまま一緒にお茶をした。
それから二人が恋仲になるまで、あっという間だった。
予期せぬ事態だったが、シルヴァは二人を祝福した。ただ、恋人が親しくしている異性というのは嫌なもの。二人を引き合わせたのはシルヴァだし、シルヴァとレドモンドに男女の感情はないとわかってくれてはいるだろうが、恋心とは理屈が通じず難儀で厄介だ。メアリーが不安に思わないよう十分気をつけていた。しかし、そのような考えは杞憂で、メアリーは相変わらずシルヴァにも親しみを込めて接してくれていたので、うまくいっている、大丈夫と信じていた。けれど、すべては表面上のものにすぎなかったのだ。
(わたくしの考えが足らなかったのだわ)
思い返してみれば、何度か、メアリーが物言いたげな眼差しをシルヴァに向けていることがあった。気づいて尋ねてみてもメアリーは何もないとにこりとした。追求しようにも触れてほしくなさそうで、しつこくするのは失礼になるかもとそれ以上は詮索しなかった。
あのときもっと慎重になっていれば、こんな方法をとらせることなく穏やかに解決できたのかもしれない。
シルヴァは自身の甘さを後悔した。
だからといってこのように貶められたことに腹も立った。
もっとちゃんと言ってくださればこちらは要望に応える気持ちはありましたのに、察することができないと見切りをつけ噂を逆手にとって罰しようとするなんてあんまりよ、と叫びたい。しかし、
(これが上級貴族のやり方なのね)
困ったら周りを動かして解決する。メアリーにとって当たり前の行為なのだろう。いくら穏やかに見えても中央貴族のお嬢様。自身で解決しようなど思わない。メアリーの思いを汲み取れないシルヴァが問題なのだ。
シルヴァは言葉を呑み込んだ。呑み込むしかなかった。ここで楯突いて、自分の潔白を晴らすより大事なことがある。
メアリーの意向は理解した。憤りはあるし、不満も不快さもあるが、何を優先すべきかは分かっている。
することが決れば、言うべきことも定まる。
「シルヴァ嬢?」
どんどんとあふれ出てくる思考に耽り、黙り込むシルヴァに痺れを切らしてベンジャミンが言った。
シルヴァははっとした。これ以上、考え込むわけにはいかない。
まだざわざわする胸のうちを鎮めるようシルヴァはすっと背筋を伸ばした。
「……ベンジャミン様のご心痛は理解しているつもりですわ。ですが、ご心配には及びません。わたくしは近い内に学院を去りますから」
そう言うと、ベンジャミンは一瞬驚いたような顔をした。
シルヴァは更に続けた。
「わたくしが呼び出された理由は存じております。近頃、出回っている噂の件でございましょう。わたくしもいかように対処するべきか考えておりました。わたくしは誓ってメアリー様に害をなすなどしておりませんが、しがない地方貴族がいくら声を上げたところで信じてくださる方は少なく、むきになって否定するのは疚しいことがあるからと却って新たな火種になります。沈黙するのが最善であると今日まで無言を貫いてまいりました。しかし、噂は酷くなるばかりです。ならば、もうわたくしがいなくなるのがよいのではないかと考え始めていたのです。今回、このように生徒会にまで呼び出される事態になったことで、わたくしもようやく覚悟が定まりました。この噂のすべてを故郷に持ち帰ります。ですから、どうぞ、ご安心ください」
シルヴァを邪魔だと思うなら去る。メアリーはそこまで望んでいないかもしれないが、やるならば徹底的に目の前から消える。可愛い嫉妬では済まされない、こういう方法は人の未来を奪う可能性がある、とメアリーが重責を理解するきっかけになってくれたら幸いだという意図もあった。それはメアリーのためというより、メアリーとレドモンドが婚姻を結べば関わることになるリストリア領の者たちのため、今後こんなことがなるべく起きないようにしたかった。
また、退学に際しては、少しでもレドモンドのためになるよう、レドモンドが身の程をわきまえないシルヴァをきちんと罰し、メアリーを守ったのだという印象になるような噂を流す。
これにより、レドモンドはメアリーを大切にしていると示せるから、二人の婚約が白紙になることはない。リストリア領にとって二人の婚姻こそ一番大事にしなければならないこと。それが叶うなら、最悪を回避できるなら、シルヴァの名誉など安いものである。リストリア領から出ずにいるならよからぬ噂もそこまで痛手にならないし、自分がいなくなったあと、どのように言われても気にならない。
しかし、問題点もあった。これだとレドモンドを、シルヴァに罪をなすりつけ蜥蜴の尻尾切りをして難を逃れた卑怯者という見方もできること。たぶんそのような悪い噂も出る。それをどう対処するかである。
シルヴァとレドモンドのどちらが悪いか勝負とはなんとも情けないが、無責任な第三者はわかりやすい悪者を望む。
そこでベンジャミンだ。
生徒会に呼び出して話してみたが、シルヴァは困った令嬢だったとでも言ってもらえたら、強力な後押しになる。中央貴族の侯爵家の子息であるベンジャミンが呆れるような令嬢というのが広まれば、レドモンドも同情される。やりすぎればリストリア領は教育がなっていないとまた新たな悪評に繋がるからその塩梅は必要だが、それは残ったリストリア領の者たちに上手くやってもらうしかない。
そのために、ベンジャミンには是非とも味方になってもらう。
ベンジャミンに対しても思うところはあるがシルヴァは真摯に協力を要請した。
しかし、ベンジャミンはまるで納得がいかないとばかりにひどく表情を歪ませ言った。
「何もしていないのなら、そんな必要はないと思うが? 罪もないのに罰を受けるなどおかしな話だ。貴方ばかりが損をしている」
言葉だけ聞けば、シルヴァを心配しているようにも聞こえるが、不愉快そうな声音から違うとわかる。
ベンジャミンはシルヴァを疑っている。そのシルヴァが故郷に帰ると言い出した。帰ったあと、二人のために不名誉な噂を甘んじて受けるので利用してほしい。その協力を頼みますと言われて、わかりました、とはなかなかならない。利用も何もそれが事実なのに何故被害者ぶるのか。――困惑と失望をしているのだろう。
(まぁ、そうですわよね)
わかっている。いっそう、シルヴァが罪を認め、その罪で二人の婚約が壊れないよう助けてくださいと懇請した方が納得してもらえる。周囲にもそう思わせるのだから、ベンジャミンにもそうすればいい。元からベンジャミンはシルヴァをそのように見ているのだから、むしろそうすべき――しかし、シルヴァは潔白を主張した。一方の言い分を信じて、断罪しようとした結果、無実のシルヴァが退学を決めるに至ったのだとベンジャミンも知るべきだと思った。理解されるかどうかはさておき、ささやかな反抗である。
そんなことおくびにも出さず、
「ええ、わたくしは噂になっているようなことはしておりません。けれど、罪はあります。わたくしは領主であるカーター家、その嫡男であるレドモンド様のお役に立つよう小さな頃から言い聞かせられてまいりました。そうであるのに、わたくしの存在がよからぬ噂になりご迷惑をおかけしたのです。それは罪といえましょう。ですから、責任をとるのは当然のことですわ」
何に負い目を感じ、義理立てをし、この結論に至ったかもっともらしく告げる。
ベンジャミンの顔がますます深刻なものになる。
「貴方は……それほど、彼が大事なのか」
「は?」
そのとき、バタバタと廊下から忙しない足音が響いた。
優雅さを大事にする学院で、そのような音を出すなど余程の緊急時である。外で何かあったのか? しかし、足音は真っすぐこの部屋に向かっているように感ぜられた。
その予想は当たりだった。コンコンコンコン、と力いっぱいの激しいノックが聞こえてきて、
「失礼する」
次の瞬間、勢いよく一人の男子生徒が入ってくる。入室の許可もしていないのに、これは無礼な行為だ。
男子生徒の後ろには蒼白な顔のメアリーとレドモンドがいる。
「シルヴァ様!」
メアリーはシルヴァの傍までくるとあろうことか膝をおり、シルヴァの手をぎゅっと握った。
「大丈夫でございますか?」
「え……あの……」
シルヴァを嫌い陥れようとしているはずの相手に心配をされて混乱した。芝居? と勘繰りたくなる。だが、メアリーの眼差しは真剣そのものだった。
戸惑いを隠しきれずにいれば、先陣を切って入室してきた男子生徒――辺境伯子息であり、現生徒会長のロニー・ハフィントンが、
「何事もないな」
と切羽詰まったような顔でシルヴァを見る。
何事もない……ことはない。いや、それほど厳しい糾弾はされてはいないので、そういう意味では何事もない。
シルヴァが頷くと、ロニーは明らかに安堵の表情を浮かべた。それから、シルヴァが連れて行かれたと知ったメアリーから助けを求められ此処へ来たのだ、と簡潔に説明した。
人目のあるカフェテリア近くで声をかけられ連れられてきたので目撃者も多かった。噂にはなるだろうと思っていたが、かなりの早さで広まっているらしい。そのおかげでメアリーは気づくことが出来たと。
「わたくしを心配してくださり、ありがとう存じます」
シルヴァはひとまず礼を述べた。
(生徒会長に頼んでまで助けにきてくださったってことは、この呼び出しにメアリー様は関係がないということ?)
メアリーを悪く思っていたが、従妹可愛さにベンジャミンが独走した可能性が出てきた。ならば、シルヴァもまた理不尽な怒りをメアリーに抱いていたことになる。
「いいえ、いいえ、すべてはわたくしが原因ですから……まさかベンジャミンお兄様がこのような行動に出られるとは思いませんでしたから――無理やりシルヴァ様を手に入れようとするなんて!」
すると、メアリーは興奮気味に言った。
(え?)
「其方は何を言っている!?」
今度はベンジャミンの怒声が響き渡る。
「まぁ、お兄様、この期に及んで見苦しい言い訳をなさるつもりですか!? わたくし、知っておりますのよ?」
「なんの話だ」
「先日、アルベルト様とお話しなさっていたことです。わたくし偶然にも聞いてしまいましたのよ。あのときお兄様は『強引に奪ってしまえば悩まなくて済む』とおっしゃっていたではありませんか!」
「……何を言い出すのかと思えば、あれはシルヴァ嬢のこととは関係ない話だ」
「お兄様にそのような考えがあることが問題じゃありませんか! いつそれがシルヴァ様に向けられるのか、わたくし心配で……そうしたらシルヴァ様を連れ出したと聞かされました。きっと無体を働くつもりと思うでしょう」
「そんなわけないだろう!」
「では何故今になって急にシルヴァ様を呼び出しましたの? それ以外にどのような目的がおありなのか説明してくださいませ!」
「……それは……私はただ、嫌な噂を流されて辛い目に遭っている彼女の助けになれたらと……」
突飛なことを次々に口にするメアリーに反論するベンジャミンの発言も、シルヴァには理解できないものだ。
「……ベンジャミン様は、わたくしがメアリー様をいじめていると思い、その処罰のために呼んだのではないのですか?」
シルヴァの口からぽろりとこぼれ落ちた。
途端、部屋が静まり返った。
◇
赤い薔薇が赤とは限らない――自分が思っていることと、人が思っていることは違うというリストリア領の格言である。
シルヴァは学院の南側に並んだ学生寮の自室のベッドに寝そべり、その言葉を思い出して、ふふふっと笑みをこぼした。
額が膿んだみたいに熱く左手で触れると本当に熱がある。瞼が重くてゆっくり閉ざす。視界が真っ暗になると昼間のことが浮かんできた。
あのあと、話はまったく予想外な展開をみせた。
思い出しても、混乱の方が強く、夢でも見ているのかというのが一番しっくりくる感想だ。
沈黙が落ち、なんとも気まずくなった空気をとりなしたのはロニーだった。
いつのまにか隣室で控えていたロニーの側仕えが新しくお茶を淹れなおし、応接室のテーブルを挟み、シルヴァとメアリーとレドモンドが同じソファに、対面にベンジャミンとロニーが座る。
シルヴァは喉が渇ききっていたが、この面子で最初に手をつけるわけにもいかない。生唾を飲み込む音がこくりと響く。気づいたロニーがくすりと笑い
「貴方が一番混乱しているのでしょう。どうぞ。落ち着きますから」
とすすめてくれた。
シルヴァは恥ずかしそうに頬を染めながら、感謝を述べてカップに口をつけた。優しい香りとさっぱりとした味は、言葉の通り落ち着く。
他の者も一息ついたところで、
「わたくしのせいなのです」
意を決し、罪の告白のような重たい口調で話し出したのはメアリーだった。
そして、シルヴァは自身が与り知らぬところで起きていた出来事を知った。
すべてのはじまりは、春。
貴族院の入学式――ベンジャミンは生徒会役員として列席していた。
式は恙なく進み、新入生たちが教室へと移動していく姿を見送っていると、ある一人の女生徒に目を奪われた。同じ制服を着て、似たような髪型の令嬢は大勢いるのに、彼女のところだけ日の光が注がれたように明るく感じられ、視線が勝手に向かってしまう。
それが何を意味するのか、わからないほどベンジャミンは鈍くはなかった。
ただ、ベンジャミンは中央の侯爵家の次男という肩書を持つ身である。幼い頃より、周囲からも自身の立場について言い聞かせられて育った。家の爵位は長兄が継ぐので、大伯父の家に養子に入るか、相応の家柄の令嬢の元へ婿養子に入るか、それがベンジャミンに与えられる選択肢だ。貴族院の卒業が近づけば、その時の情勢により一番利になる選択をする。養子に入るならまだしも、婿入りとなれば、当然相手を自由に選べるわけではない。ベンジャミンの人生と恋は縁遠い。必要ないことを態々しようとも思えない。それが――心は理屈を承知しなかった。
しかし、やはり長年染みついた思考というのは簡単には消えない。肺が膨らみ、トクトクと心臓が鳴るのとは裏腹に、頭は彼女の素性について冷静に考えてしまう。
(知らない顔ということは中央貴族でも領主候補生でもない……彼女は地方貴族の娘なのだろう)
到底つり合いが取れない相手である。成就することがないと悟った瞬間、芽吹いたばかりの感情を切り捨てることに決めた。恋を知らなかったベンジャミンにとってそれは難しいことではないと思った。
ところが、それから度々彼女を見かけた。広い校内で学年も違うのに頻繁に。そんな偶然が早々起きるはずがない。無自覚に彼女の姿を探していると気づいたときの混乱は筆舌に尽くしがたかった。
捨てると決めたものを持ち続けている。ベンジャミンは自身に呆れ、意地になって忘れようとした。だが、そうやって必死になる分だけ、反動で彼女を探してしまう。否定するほど悪化していくなら抵抗するのは得策ではない。さて、どうしたものか。未知の状態に困っていると助言する者が現れた。アルベルト・クロックスである。
アルベルトの家は代々エイベル家の護衛騎士を務めており、彼もまた次期当主のベンジャミンの兄に仕える予定だ。対外的にはベンジャミンにも礼儀を尽くさねばならないが、二人きりのときは幼い頃から知っているのもあって気を許せる数少ない友人として関係を築いている。
騎士見習いだけあってアルベルトは異変を察知する能力が高く、ベンジャミンの変化にも目敏かった。その変化の理由を知ったときは大変驚嘆したが、いつも何処か冷めたような態度をとるベンジャミンが人並みに恋心を持ったことは喜ばしい。恋愛は情緒を育てるという。応援する気でいた。だから彼が恋心に終止符を打とうと奮闘する姿に物申したのだ。
「何を悩む必要がある? 貴族院にいる間だけでも恋を楽しめばいいじゃないか。実になる前に枯らせてしまおうとするから苦しいのだ。きちんと実らせてやれば、自然と枯れるさ」
ベンジャミンに限らず政略結婚をする貴族は多く、自由を謳歌できる貴族院時代にひっそりと恋愛を楽しむ。身分も立場も関係なく、ただ好ましいと思う相手と恋人関係になり、美しい思い出をつくる。そういう者がいるのも事実で、ベンジャミンも未来のことなど考えず今目の前の恋を楽しめと諭した。
ベンジャミンは渋い顔をする。
「君は存外遊び慣れているのだな」
アルベルトは肩をすくめた。
「時間は有限なのだよ、ベンジャミン。それが本物の恋なら一時でも叶えるべきだし、恋に恋しているなんてこともある。ただ見ているだけではわからないのだから、ひとまずお近づきになって彼女を知ることは必要じゃないか。それから先のことはそのとき考えればいい。違うかい?」
彼女と話してみたいという欲求を刺激するように撫でられて、「違う」と言うことがベンジャミンにはできなかった。
だが、話すといってもどうすればいいのか。
接点が何もない。知っているのは名前くらいである。
まず彼女の情報を集めることにした。その過程でベンジャミンの従妹にあたるメアリー・オーガスタと彼女が同じクラスだと知った。
ベンジャミンはメアリーに彼女のことを尋ねた。普段ならばもっと周到な言い回しをしていただろうに、焦燥と幼い頃からよく知るメアリー相手というのもあり実に直接的に――シルヴァ・ローズ嬢はどういう令嬢だ、と。
驚いたのはメアリーである。令嬢たちからベンジャミンのことを聞かれることはあっても、ベンジャミンの口から特定の令嬢の名を聞いたことはなかった。お兄様にもついに春が! と敬愛するベンジャミンのために力になろうとシルヴァに近づくことを決めた。
しかし、ここで予想外のことが起きる。――メアリーもまたシルヴァがよく共にいるレドモンド・カーターに恋をしたのだ。
中央の伯爵家とはいえ四女のメアリーと中領地ではあるが次期領主のレドモンドの恋は思いのほか周囲に歓迎され、あっという間に婚約の話にまでたどり着いた。
幸せそうなメアリーをベンジャミンは祝福した。
「お兄様にも幸せになっていただきたいわ」
恋を実らせたメアリーは嬉しそうに次はシルヴァとの橋渡しをすると言ったが、ベンジャミンはにこやかに断った。
「リストリア領に嫁ぐことになったのなら、自分の立場を考えなくてはいけないよ」
二人の婚姻は、当人たちには恋愛結婚でも互いの家にとって利になるから認められた政略結婚でもある、とベンジャミンは告げた。
リストリア領主はメアリーを通して発言力を強めようとする。メアリーはどこまで通すか考え実家との折り合いをつけていかなければならない立場になる。それを考えたら、ベンジャミンとシルヴァの仲が進展すると厄介になる可能性が高い。
ベンジャミンとシルヴァは、メアリーたちと違い周囲――特にベンジャミンの――が歓迎するとはとても思えない。上手くいったとしても二人だけの秘密として貴族院にいる間だけのひっそりとした関係だ。けれど、人間とは欲深い。卒業後、便宜を図ってもらおうと近寄ってくるかもしれない。何のしがらみもないなら互いに納得した関係だったと一蹴すればよいし、身の程を弁えろと何らかのペナルティを与えることもできる。だが、メアリーが仲立ちに入ったら手酷いやり口は躊躇われる。無理な望みを託されプレッシャーをかけられるのはメアリーにとっても迷惑だろう。ベンジャミンは未だにシルヴァと話もできていないのだから、このまま疎遠で終わらせるのがいい。
「そのようなこと……」
メアリーは真っ青な顔で否定しようとしたが、最後までは言い切れなかった。
絶対にないなんて誰が言えよう。レドモンドもシルヴァも控えめでガツガツと権力を欲するような性格ではないが、その背後にいる者たちのことはわからない。二人にその気はなくても状況如何ではそうせざるをえない立場になるかもしれない。そして、そのような申し出をされたらメアリーは幻滅し嫌悪するのではないか。ならば、最初から不愉快となる芽は摘んでおけばいい。
最悪を想定して対策するのは必要なことだと言われ、メアリーは頷いた。同時に、罪悪感を持った。
シルヴァに近づいたのは元々ベンジャミンのためだったが、メアリー自身が恋をし、その恋を成就させることに夢中になり、結果としてベンジャミンの恋を潰してしまったのだ。メアリーが二人を取り持ったところで上手くいなかったかもしれないが、自分ばかりが幸せなことに後ろめたさを感じた。
「あれは其方の恋を実らすための神の悪戯だったのではないか」
メアリーの心情を察しベンジャミンは自身の恋心はその後に続くメアリーのための踏み石だった、だから気にするな、とそう言った。
だが、以降もメアリーは悶々と考え続けていた。
そんなある日、幸か不幸かベンジャミンとアルベルトの会話を聞いてしまった。
内容は二人の学友であるザック・セミルトンの話だった。
彼はシュバルの領地候補生で将来を考えている相手がいた。ハンメル領の領地候補生アナベル・ランプシャーである。といっても彼女には兄がいて、彼が後を継ぐためいずれは何処かに嫁ぐ。その相手としてザックなら身分的につり合いが取れている。だが、二人の祖父が大反対している。シュバルとハンメルは先代のときに起きた政変で敵対しており、当時を生きた者たちには拒否感が強い。更にハンメルとシュバルが結びついて力をつけることに否定的な者たちを巻き込んで、なかなか難航している。
「このままでは冬の長期休暇のときに彼女が他の男と婚約させられるかもしれないと戦々恐々らしい」
「ならば強引に奪ってしまえば悩まなくて済むじゃないか。もたもたしていたら失うぞ」
「おや、奥手のベンジャミン様にしては大胆な発言ですね」
「揶揄うな」
ベンジャミンも本気で無体を働けと思ったわけではない。それくらいの勢いがなければ状況は打破できないという意味だ。これがザックからの相談ならもっと真摯に言葉を尽くしたが、世間話の一環として、相手がアルベルトだったので多少乱暴な言い方の軽口になったにすぎない。
しかし、メアリーは日々膨れ上がる罪悪感にとらわれていたため、そのようには聞こえなかった。すべては自身の後悔からの言葉――メアリーより先に動いていれば違った結末に至ったかもしれないと考えているからこそ出た言葉に思えた。
(やはり、お兄様は……)
ベンジャミンが今尚、情熱を胸に秘めて耐えているのかと思えば、じっとしていられない。
メアリーは血の気が引き、フラフラになりながら立ち去った。
(わたくし、どうしたら……)
それから、できることはないかを考え、ベンジャミンから思いを告げることはしなくても、シルヴァからの申し出なら受け入れるかもしれない。レドモンドに協力を仰ぐために打ち明けた。
だが、レドモンドは静かに首を横に振った。
「君が辛く思う気持ちは理解できるし、何かしてあげたいと思うのは素晴らしいことだと思う。だけど貴族院だけの関係になるとわかっていてシルヴァに勧めるのは賛成できない」
メアリーにとってベンジャミンが大事なように、レドモンドにとってもシルヴァは大事な存在だ。シルヴァが自ら望むというなら反対はしないが、ベンジャミンのために未来のない恋にシルヴァを引き込むような提案をレドモンドからできるはずないし、したくはない。
指摘されて、自分の悔悟を晴らすことに執心しシルヴァが傷つく可能性を考慮しなかったことにメアリーは気づいた。
結局のところ、できることなどない。
時の女神に委ね、すべてが思い出になっていくのを祈るよりない。
そんな結論をだしたところで、シルヴァがベンジャミンに連れ出されたということを知った。シルヴァには近寄らないと宣言していたにも関わらずである。
自身の言葉には責任を持つベンジャミンがそれを覆したのだから余程のこと——メアリーはパニックになった。
『強引に奪ってしまえ』
ベンジャミンらしくない乱暴な言葉が思い出される。
まさかそれは……けれど、恋は人を変えるという。
(シルヴァ様の身が危ないわ!)
メアリーは慌てて止めに向かうことにした。
だが、ベンジャミンが無体を働いていたとして、メアリーでは止められない。力もそうだが、身分を盾に出されたら、侯爵家のベンジャミンに伯爵家のメアリーは逆らえない。これまで一度だってベンジャミンが侯爵家の威光を振りかざしたことはないが、状況が状況だ。ベンジャミンに反論できる人物が必要――思いつくのはロニー・ハフィントン辺境伯子息だった。隣国との国境付近を領地に持ち、防衛の要をしている辺境伯家は王の懐刀と言われるほど重宝されている一族で、発言力も強い。ロニー自身も大変出来が良く、生徒会長で、最高学年である。
メアリーはロニーに頼み、レドモンドと共に生徒会室へ乗り込んだ。
「其方の考えは理解した。……私の発言も迂闊だったのだろう。だが、そのような真似をする気もないし、していない」
メアリーが何をどのように解釈して暴挙に出たのかを知ると、ベンジャミンは疲れ切ったといわんばかりに、はぁぁぁっと盛大なため息をつきながら言った。心底呆れかえっている姿に、メアリーは流石に思い込みが過ぎたのだと素直に認め、膝の上に置いていた手をきゅっと握り込んだ。レドモンドが慰めるように手を重ねる。
「だが、まぁ、誤解であってよかったよ」
苦笑するのはロニーである。
いきなり「ベンジャミンお兄様が無体を働いているので止めてください」と生徒会室への同行を求められたのだ。何がどうなっているのかまったく理解できなかったが鬼気迫った様子から、万が一を考えて取り急ぎやってきた。
生徒会長として、最悪の事態ではなかったことは喜ばしい。
「ロニー会長にまでご迷惑をおかけして……申し訳ありません」
ため息から立ち直ったベンジャミンが、はっとした顔でロニーに告げた。呆れているばかりではいられない。それに追随するように
「申し訳ございません。わ、わたくし……」
「僕のせいでもあります。メアリーがここまで追い詰められていたとは思わず、ベンジャミン様にもロニー様にも、そしてシルヴァにも迷惑をかけてしまいました。申し訳ありません」
メアリーの謝罪にレドモンドも続けた。
ロニーがにこやかに謝罪を受け入れる。
「まったくだ。其方、もう少し物事を悪く考える癖をどうにかしなさい」
だが、ベンジャミンは更なる小言を述べた。
そのやりとりを、シルヴァはぎこちなく眺めていた。
ぐるぐると考え込んで悪い方に物事を結論付けてしまう……それはシルヴァにもあることなのでメアリーの気持ちは理解できる。というよりも現状がまさにそうだった。ベンジャミンの言葉を信じるならシルヴァは随分彼のことを悪辣に見ていたことになるのだから。
実際、ベンジャミンが心配からシルヴァを呼び出したのは本当だ。
貴族というのは体裁を大事にする。噂という曖昧なものに振り回され傷ついているなど恥ともいえ、真面に尋ねても隠す可能性が高い。まして頼まれてもいないのにこちらから助けるといえば、矜持を傷つけてしまう。そこで、シルヴァから話やすく、助けを求めやすいよう状況を整えるため、直接的な「噂」という言葉は出さず、また傷ついているのではなく「不満」と表現した。憤りを感じているとすれば多少は言いやすいだろうとの配慮である。ベンジャミン自身があんな噂を真に受けていなかったので、「レドモンドたちの件で不満」と言えば「不名誉な噂を流されたこと」を指した。それはシルヴァも同じと考えていたので十分通じると考えた。まさか「レドモンドたちの婚姻に不満を持ち、嫉妬して嫌がらせをしているのだろう。白状しろ」という意味合いに取られるなど夢にも思わなかった。
ベンジャミンが自然と考える貴族の矜持がシルヴァにはそれほど強くなかったこと、またシルヴァはベンジャミンが自分を認識し心配のために呼びだすなんて行動をするなど想像さえしなかったことが大きな敗因である。更に加えるなら場所も悪かった。生徒会室ではなかったならベンジャミンの個人的な呼び出しと思われる余地があったかもしれない。しかし、話の内容的に人払いが必要であり、初対面の異性を人気のないところへ呼び出すなどベンジャミンにはできなかった。選択肢は生徒会室しかなかった。そこでも二人きりにならないようアルベルトに立ち会ってもらったぐらいである。それがまた、威圧感を出しているとは思わず……。
はじめから齟齬が生じていたのだから、続く解釈もズレが生じる。
ベンジャミンからすればこちらが配慮しているのも関わらず、シルヴァが噂のことを口にしないのはやはり矜持があるからに思えた。ならば引き下がればよかったが、呼び出した以上はこのまま終われない。シルヴァの力になりたいという気持ちが勝り「正直にいってほしい」とまで食い下がったのだ。「力になれることがあるかもしれない」も言葉の通りの意味合いである。その結果、シルヴァから返されたのは「学校をやめるつもり」なのだから衝撃はすさまじいものだった。
一方シルヴァはベンジャミンが微塵も糾弾する気はないと知ってもまだどこか信じ切れずにいた。疑っているというよりは、自分の考えとあまりに違う現実が上手く呑み込めないのだ。
それに考えに集中できない理由がもう一つ……メアリーの発言の中には聞かなくていいこと、聞くべきでないことが含まれていた。おかげで頭を働かせようにも感情が波打って落ち着かない。飲み物でも口にすれば少しはおさまるかとカップに手を伸ばすが、うっかりすると震えてしまいそうになる。
沈黙を続けているうちに、話はシルヴァの自主退学の話に移行した。
ベンジャミンにはとてもではないが許容できない申し出である。個人的な思いからというのもあったがそれ以上に生徒会役員としても。単なる噂に生徒会が口出すことはないが、退学まで話が及ぶならば看過できない事案だ。だから、当事者の揃っているこの場で別の対応策を考えるべきだと判断した。
はじめてその話を聞いたレドモンドとメアリーはぎょっとした。そして、すぐにそんな真似はさせられないと言い募った。当然だ。貴族院を退学するなど相当の不名誉である。シルヴァの人生に汚点となることを、二人が、レドモンドが許すはずがない。
「自分の幸せのために、君を犠牲にして平気でいられる人間と思っているのかい?」
レドモンドは静かに言ったが、悲しい、腹立たしい、申し訳ない……複雑怪奇な感情が込められた声だった。それはシルヴァにもしっかりと伝わり、自分が口にした選択肢がいかに独りよがりのものだったかを理解した。
不名誉な噂を流され精神的に参っていたところに、自分を邪魔に思っているメアリー、メアリーの言葉を信じて疑ってくるベンジャミン……嫌なことが重なり続けて急にすべてがくだらなく、つまらないものに感じられた。ここにいても碌な目に遭わないなら去ればいいと思った。へ理屈をこねくりまわしてそれっぽい正当な理由を述べたが、結局は投げやりになって吐き出した欺瞞でしかなかった。それがレドモンドを傷つけ、怒らせ、罪の意識を生じさせている。己の浅はかさに悲鳴を上げたかった。
「確かにこの噂は少し悪質だ。我々が対処しよう」
再び緊張した空気をとりなすのはやはりロニーだった。
そして、一番頭を悩ませていた噂の件は生徒会が動いてくれることになり、もうしばらく様子をみることになった。
額に置いていた手をのけて、ごろり、と右に寝返りを打つ。カーテンが合わさっているところからほんの少しだけ光が漏れている。月明りがあるせいで室内より室外の方がわずかに明るいのだ。
身体は眠りを欲しているのに、いざ目を閉じると、考えなければならないことが次々に浮かんできて眠れなかった。
結局、シルヴァは生徒会室でほとんど話すことなく終わり、ベンジャミンにもレドモンドにもメアリーにも謝罪できていない。時間が経過するほど言いづらくなるのに失敗した。だがあの場では……というより今も、心を占拠している別の事柄のせいで何も手につかない。そうであるのに、その事柄を直視する勇気がなくて故意に考えないようにしている。意識的に無視するのは、強烈にそれを意識しているのと同義で、視界の端にチラチラと存在だけを感じ、そのような状態で眠れるはずがない。
たぶん、泣きたいのだ――シルヴァは漠然と思った。そのきっかけが、つかめない。考えたくない。それでも、このままではいられない。それは風船が限界まで膨らんでしまったような危うさだった。空気を抜くことができないなら、やがてはじけてしまうとわかっているなら、いっそう一思いに針を突き立てれば楽になれる。怖いのは一瞬である。
もう一度、今度は左へ寝返りを打つ。窓に背を向けると途端に暗闇が広がった。
春に入寮してから今日まで、毎日過ごしてきた部屋は、家具の位置や壁の色合いの細部まで覚えていて、目を凝らすと暗がりの中でも染みになっている部分がぼんやり浮かんで見えてくるように感じられた。
すぅ、すぅっと規則正しい呼吸の音。
(何故)
何故。その言葉に願った通り、ぶわり、と最後のギリギリで踏ん張っていたものが膨らみきって、次の瞬間はじけた。
何故、何故、何故。
疑問は山のようにある。
メアリーは何故あのようなことまで――ベンジャミンがシルヴァに好意をもっていたことを話したのだろうか? 誤魔化して話すこともできたのではないか? ――いや、彼女もまた動揺していたし、興奮し、混乱していたので、何を言うべきで、何を言うべきではないか、考える余裕がなかったのだろう。ただ、自身の振る舞いの説明をするのに精一杯だった。それは正しいだろうけれど、もう少し配慮する必要があったのではないかとやはり考えてしまう。それとも、もう終わったことなので言ってもいいと思ったのだろうか。ベンジャミンの恋は、叶えてはならないものとして捨てられた。過去の遺物のように、かつてあったものでしかない。だから、口にしていいと。或いは、シルヴァに知ってほしかったのだろうか。敬愛する兄のような存在のベンジャミンの初恋を、実らなかった思いを、その相手に知ってほしかった。……メアリーにそれだけの余裕はなかっただろうが、少なくともベンジャミンは暴露に対して怒ることも、困っていることもなかったので、そのような感情があったのかもしれない。実らぬ恋など珍しいことではないが、実らなくてもせめて相手に気持ちを知ってもらいたいという欲求があったとしても不思議ではない。何せ、彼らは知らないのだから。シルヴァの気持ちを、あそこにいた全員が知らない。知っていたら違っていただろう。ベンジャミンの気持ちを知らされることが、シルヴァにとってどれほど残酷か。
そう、シルヴァもまたベンジャミンに憧れを抱いていた。過去のものとしてではなく、現在進行形で。
好きな人が、自分を好きでいてくれた。たとえ、ベンジャミンがもうすでに過去のものとして諦めていたとしても、一時でも自分を好きでいてくれた。そのことだけに浮かれていられたらよかった。でも、シルヴァはそうではなかった。考えてしまう。欲が出てしまう。両思いだったという事実に、夢を。
わかっている。そんなものはまやかしだ。仮に思いが通じ合ったとしても、最終的に別れるしかないなら、どれほどそのときに互いを思い合っていても、遊びの恋にしかならない。それでもいいから、とはシルヴァは思えなかった。
そうであるのに、ベンジャミンの気持ちを知った途端、夢を見てしまう自分がいた。理性ではありえないとわかっているのに、心が浮足立ち期待してしまう。それがたまらなく愚かしく、浅ましいように感じられ、苦しい。
だからこそ、思うのだ。何も知りたくなかった。
知らずにいれば、夢を見ることはなかった。
ただの憧れとして、将来振り返る青春の思い出として、綺麗なままで終わらせることができたのに。
今もまた、油断すると期待する。諦めた、終わったとしながら、何故ベンジャミンはシルヴァを心配し呼び出したのか。まだ、何かしら思うところがあるからではないかしら? そんなことを思ってしまう。常識的に考えれば、たとえ過去とはいえ一度は好意を持った相手が困っているなら助けたいと思う。シルヴァがベンジャミンの立場ならそうする。だから、勘違いしてはいけないと思う。それなのに期待する自分が恥ずかしい。恥ずかしいのに嬉しい。嬉しいけれど苦しい。どうすればこの感情が静まってくれるのかわからない。こんな話、誰にも言えない。言ったところで混乱しか生まない。けれども、誰かに言いたい。報われることはなかったけれど、一方的な片思いではなかったと誰かに……ベンジャミンに知ってほしい。そして、覚えておいてほしい。でも、そんなことできない。恐ろしい。もしそれでベンジャミンが色気を出してきたら? 貴族院だけの恋人になろうと言われたら? きっと嬉しい。同時に幻滅する。いや、そんな人ではない。そんなこと思うなんて失礼だ。肯定と否定、夢と現実、希望と絶望、相反するものが等しく胸に同居し、考えるほどもやもやしたものが広がる。――だから、すべて忘れた方がいい。幸い誰もシルヴァの気持ちを知らないのだから、聞かなかったことにして、平静を保っていればそれで。
(でも、)
また混乱の中に引き戻りそうになるのを呑み込むように、シルヴァはぎゅっと身体を丸めて膝を抱え込み寝具を頭まで被せた。密閉され空気が薄くなって吐き出す息の生温かさが広がっていく。ううっ、とわざと声に出してみればたちまち喉元に混乱が押し寄せてきて、鼻の奥がつんと痛んだ。ほどなくしてあふれてきた涙はひどく熱かった。
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