若旅人
投稿済の小説「金の玉」の当初執筆オリジナルのパイロット版です。
若旅人
美しく生きたいと思った。一度きりの人生である。おのれの選んだ道に、自らの精神と肉体の全てを捧げて、その道のはるか高みに到達する。
そんな生き方をしたいと歩は思った
村里歩の父、稜は、力士だった。
中学を卒業してすぐに角界に飛び込んだ陵は、入門して二年目の夏、三段目の力士だったときに高校一年生の奈緒子と知り合った。奈緒子は相撲が好きな一ファンだったが、国技館に観戦に行く日は朝早くから入場して地位が下の力士の取組から見るのが常だった。
その奈緒子に、稜が声をかけたことが、ふたりが付き合うきっかけだった。女の子に対してはシャイで、自分から話しかけることなどそれまでしたことがなかった稜だったが、奈緒子に対しては、どうしても声をかけずにいられなかったのだ。
国技館にしばしば現れていた奈緒子の可憐な姿に注目していた若い力士は、少ない数ではなかったので、ふたりの交際が周知のこととなると、稜は多くの同輩の力士からやっかまれたし、そのことにより先輩力士からのいじめに近いような荒稽古も何度か受けた。
奈緒子との交際は、早く強くなりたいという稜の気持ちに拍車をかけた。
稜は身長は高かったが、体重はまだ体の出来上がっていない若い力士の中でも軽量の部類であった。が、柔らかい足腰をはじめ、肉体的な素質に恵まれ、性格も素直であったから、出世は早く、十九歳で関取になった。
給与を得られる身分となった稜は、すぐに奈緒子と結婚した。
取的(幕下以下の力士のことをこう称する)時代の稜の四股名は、本名の「村里」だった。
関取になり、あらためて四股名をつけることになったが、その四股名は奈緒子が考えた。
稜が所属していた瀬戸内部屋の瀬戸内親方は、四股名に対しては鷹揚で、部屋の力士の四股名に特に決まったルールはなかった。力士本人、親や恩師、後援者が名付けることが多かったのである。
「若旅人:わかたびと」。
それが奈緒子の考えた四股名だった。
「少女趣味だな」と、稜は思った。
その四股名を名乗ることに気恥ずかしさを覚えた。
が、その時期は奈緒子との結婚前で、まだ正式に婚約もしていない時期だった。
奈緒子が、若い男性にとっては相当に気になる存在である、ということはそれまでの交際期間中に何度も思い知らされていたので、
「今の段階ではあまり強いことが言える立場ではないな」との思いもあり、稜はこの四股名を受け入れた。
最初に紙に書かれた四股名を見たとき、稜は、心の中の忸怩たる思いを表面に出すことはなかった。しばらくの沈黙のあと、稜が奈緒子に発した言葉は
「かっこいい四股名だなあ。どうもありがとう」だった。
奈緒子は満足そうに、にっこりと微笑んだ。
結婚したあとも、結局、稜は四股名を変えることはなかった。
彼が引退したその場所まで
「若旅人 稜」の四股名は不変だった。
ふたりが結婚した翌年、歩が生まれた。名前を付けたのは、奈緒子である。
二十歳の父親と十九歳の母親だった。
そのとき、稜は幕内力士となっていた。
体重はまだ軽量であったが、柔らかく粘りのある足腰を持ち、基本に忠実な、相撲っぷりの性質のよさ。素直な性格。そして、その出世の早さにより、稜は、識者の間でも将来有望な若手力士と見られていた。
将来、三役力士となることは確実であり、大関、横綱も望める。というのが若旅人の評価だった。その時期の角界は、横綱、神剣の、第一人者としての君臨が始まり、彼の時代を確立しようとしている時期にあたっていたが、いずれは若旅人が神剣に対抗するようになる、と予測する評論家もいたのである。
美しい妻と、元気な息子に恵まれた若手有望力士。
若旅人の前途には輝かしい未来が待っているはずだった。
翌年、若旅人の人生が暗転した。
土俵の上で重傷を負ったのである。
その場所、若旅人は前頭の上位だった。序盤戦で、連日、横綱、大関と対戦した。まだ三役に昇進はしていない。二場所前、初めて横綱、大関と対戦する地位に番付をあげた若旅人のその場所は、大関ひとりを破ったが、五勝十敗に終わった。が、翌場所前頭中位で十勝五敗の星を残し、若旅人は、その場所、自己最高位の前頭筆頭だった。その場所は、二度目の挑戦となった横綱神剣に勝つことはできなかったが、もうひとりの横綱から初めての金星を得て、六人いる横綱大関に対し、三つの勝ち星をあげた。そして、十一日目までで七勝四敗。あとひとつ勝てば勝ち越し、来場所の三役昇進が有力となるというところまでこぎ着けていた十二日目。若旅人の対戦相手は、平幕とはいえ、三役経験が豊かなベテランの巨漢力士、北熊。北熊の寄りに耐え、土俵際で打棄り気味の投げを放ち、その技が決まるか、と思われた瞬間、北熊の左足が若旅人の右足に絡まり、二百キロ近い北熊の全体重が、若旅人の右足だけにかかった。巨漢北熊の下敷きになった若旅人の右膝が破壊された。翌日から若旅人は土俵人生で初の休場。三役昇進の絶好のチャンスが潰えた。
若旅人は翌場所から四場所全休した。再び土俵にあがったとき、若旅人の番付は、幕下三十五枚目まで落ちていた。前途有望な幕内力士が、十ヶ月後には無給の幕下力士に転落したのである。
その後、若旅人は三場所で再び関取となり、さらに二場所をかけて幕内に再昇進した。が、彼の天性であった下半身の粘りは失われた。怪我をする前は、軽量ではあっても、正統的な相撲をとっていた若旅人は、変則的な相撲に活路を見出すしかなくなった。以降も若旅人は幕内の座を維持した。だが、彼を大関候補として評価する識者はもういなかった。
そして、二度目の悲劇が若旅人を襲った。それは若旅人にとって、前回とは比較にならない大きな悲劇だった。
奈緒子が不治の病に侵されたのである。
闘病生活の末、奈緒子は帰らぬ人となった。二十四歳の若さだった。
死の間際、奈緒子は、五歳の歩に、それからの人生をともに歩んでいくことができなくなったことを詫びた。そして、父のように優しい人間になってほしい、人として美しく生きてほしいと告げた。この世で見続けることはできなくても、空のかなたから歩のことをずっと見守っているとの言葉とともに。
母の死後、 歩は、若旅人の傍らから離れようとしなくなった。母がいなくなってしまった歩にとって、残された親は、父しかいなかった。奈緒子の死後、若旅人は、普段は、再び瀬戸内部屋で居住するようになった。三人家族であった時に住んでいた奈緒子の思い出が濃厚に残る部屋の近くのマンションを引き払うことはできなかったが、日常生活をそこで送ることは若旅人には辛すぎたのだ。歩も若旅人の個室で、一緒に暮らした。
父が部屋の土俵で稽古をする際は、歩も稽古場にともにおりた。やがて歩は自分用の稽古廻しも買ってもらい、父の姿を見習って、土俵で稽古に励むようになった。幼くして母を亡くした五歳の少年を、親方も、親方の家族も、部屋の力士たちも可愛がった。
しかし、力士には、地方での本場所があり、巡業がある。小学校に入学する前は、通っていた幼稚園を休み、歩はついて行った。
しかし、小学校に入学したあとは、父と一緒に過ごすことができない日は、歩は親方の家族とともに暮らしたが、年間の内、かなりの日数を父と離れなければならなかった。
若旅人は、二十七歳の若さで引退した。結局、三役力士になることはできなかったが、幕内の位置は保ち続けた。力士としては最も力が出る年代であるが、奈緒子を失ったことは、特に気力の面で、若旅人の力士としての生命を縮めることになった。そして、若旅人はできるだけ多くの時間を歩と過ごしてやりたかったのである。
引退後、若旅人は年寄「鳴尾」を襲名したが、瀬戸内部屋の部屋付き親方として後進の指導にあたった。
自らの部屋をもつことはしなかった。多忙となり、歩と過ごす時間が減ることが明瞭だったからである。
歩は、瀬戸内部屋で育った。
歩は、自分と同じく、中学卒業と同時に角界に入門するのであろうと、父である鳴尾親方は、当然のように思っていた。
小学生時代のわんぱく相撲でも、中学時代でも、歩は全国大会で優勝を重ねていた。歩は、天才少年力士として有名な存在になっていた。
しかし、歩は高校に進学した。理由を尋ねた父に対し、歩は、
「十五歳で角界に入門してしまったら、さすがの僕でも全勝で駆け上がっていくのは無理だから」と答えた。
このとき、鳴尾は、息子がとんでもないことを考えていることを知った。
高校三年で、史上ふたりめの、高校生アマチュア横綱となり、その時点で幕下付出資格も得たが、歩はやはり入門はしなかった。就職も、進学もせず、ひたすら部屋での稽古に励んだ。
鳴尾は、もうその理由を問うことはしなかった。
「親父、俺は相撲取りになるぞ」
来春高校を卒業する次男の光優が、父に自分の進路を告げた。
歩がアマチュア横綱になった数日後の十二月のことである。
そう告げられた父は、神剣親方である。現役時代の四股名も神剣。優勝二十六回の記録をもつ大横綱であり、一代年寄神剣が、相撲協会から贈られた。
長男の光聖は、このとき、十九歳。三男の光翔は、十五歳。光翔も含めて三人はいずれも早生まれであり、光聖は一月、光翔と光優は三月が誕生日だった。長男と三男は、中学卒業とともに、角界に入門した。
光聖は、既に関脇になっていた。四股名は父を継いで神剣。光翔は、その年の春場所が初土俵であったが、夏場所に番付に名が載って以降、七勝(序ノ口優勝)。五勝二敗。七勝(序二段優勝)。五勝二敗。の星を残し、翌初場所は、幕下に昇進することが確実となっていた。四股名は神翔。
二代目神剣も神翔も、父、初代神剣が残した記録を上回る昇進ペースであり、大横綱の息子としての期待に充分に応えていた。
しかし、三兄弟の中で、力士として最も素質に恵まれているのは次男であると、彼らの幼少時代から、父、神剣はそう見ていた。
兄弟三人による横綱土俵入り。それが、神剣が未来に思い描いていた夢だったが、彼の想像世界の横綱土俵入りで中心にいるのは常に次男だった。
が、その次男、光優は、少年時代、別の道を選択した。野球である。
卓越した体力と運動能力をもっていた光優は、その道で、すでに歴史に残る実績を残していた。入学したときからエースであり、主砲でもあった彼は、一年の夏から三年の夏まで、出場機会のあった五回の内、四回甲子園に出場。一年の夏と三年の春に全国優勝を果たした。三年間で残した甲子園での戦歴は十七勝二敗。二度のノーヒットノーラン試合があり、通算奪三振、大会奪三振の新記録を残し、史上二位となる通算九本のホームランを記録した。
その年のドラフトの超目玉であり、八球団が、彼を一位に指名したが、交渉権を得た球団に彼は入団しようとはしなかった。進路につき、色々と取沙汰されたが、彼は、誰も想像していなかった進路を選択した。
十二月の上旬に国技館で開催された相撲の日本選手権。観客席に座った光優は、歩の相撲を見た。
そのとき、彼は決心したのだ。
「プロ野球の世界に入るのは、この男を倒してからだ」と。
神王という四股名をもらい、翌初場所、初土俵をふむことになった光優は、彼が、相撲界に入門する原因となった少年が、入門していないことを知った。
彼は激怒した。
場所が始まる前、光優は、歩をその自宅に訪ねた。
ふたりの天才少年は、初めて直接会い、言葉を交わした。
入門しない理由を問われた少年は、その理由を問うた少年に対し答えた。
「幕下付出制度というのを知っているかい」
「知っている」
「僕は一年後に入門する。入門したときの番付は幕下だ。僕が入門したとき、君はそこまで昇っていてくれ。一年後に対戦しよう」
光優は、頭の中ですばやく考えた。
「たしか優勝したら、一場所で、上の地位にいけるんだよな」
「ああ」
「春が序ノ口。夏が序二段。名古屋が三段目。秋が幕下・・・。おい、来年の初場所だと俺は幕内だぞ」
「そうか」
歩は微笑んだ。
歩は、所属する相撲部の土俵ではなく、瀬戸内部屋の土俵で、部屋の力士たちと稽古を続けていた。
瀬戸内部屋は、伝統のある名門部屋であり、部屋には三十人を超える力士と五人の幕内力士がいた。部屋頭は関脇の安曇野である。
高校三年でアマチュア横綱になった時点で、歩の実力は、安曇野とほぼ互角になっていた。この時点で入門していても、幕下付出から、横綱、大関と対戦する地位まで無敗で昇進する可能性はかなりあったと思われる。しかし歩は、おのれの相撲には未完の部分が多すぎると感じていた。絶対不敗の信念をまだ持つことができなかったからである。
翌年の夏、いつものように瀬戸内部屋の土俵で、幕内の萌黄野と三番稽古を続けていた歩は、突然、自分の相撲が、それまでよりも一段高い境地に達したのを感じた。相手の動きを、力の入れ具合を、すべて感じ取ることができた。歩が意識せずとも、おのれの肉体が常に最善の動きで相手に対処していた。対戦相手はいつの間にか土俵際に下がっていた。歩は手助けするように、そっと相手を、いたわるように土俵の外に運んだ。
稽古相手が、翌場所の大関昇進を決めていた安曇野に変わった。十番取って、歩が全勝した。
「やっとここまでたどりついた」
歩は、ひとり喜びをかみしめた。
翌日から、歩は旅に出た。先人に習い、山に籠り、滝に打たれた。どんなことがあっても動揺しない不動心を得るためである。
三ヶ月後、歩は山を下りた。山籠もりを続けている間に、不動心を得たと感じる瞬間があった。しかし、山を下りるとき、歩は不動心を得たと感じた、そのおのれの心を忘れた。完全な円が描かれ、その円が消されたのである。
歩は、日本選手権に出場し、優勝した。
翌年の初場所、歩は角界に入門した。
幕下十五枚目格付出。四股名は若旅人歩。所属は鳴尾部屋である。
歩が角界に入門するにあたって、鳴尾は独立し、師匠ひとり、弟子ひとりの部屋を創設した。歩に付人などのこまごまとした部屋の雑務をさせないためであった。
横綱芙蓉峰にとって、五歳年上の横綱獅子王は、長く超えることのできない壁となっていた。獅子王は巨大な体躯の持ち主であり、力で圧倒された。しかし、横綱になって二年。二十四歳になったとき、芙蓉峰は、ようやくおのれの力が獅子王に追いつき、そして超えたことを感じることができた。芙蓉峰の後の先の立ち合いからの泰然自若とした相撲が完成された。歩が入門するひと場所前の九州場所の初日から芙蓉峰の連勝が始まった。
若旅人が入門した初場所の番付。三役以上は、
横綱は東に芙蓉峰(二十四歳。優勝十三回)。西に獅子王(二十九歳。優勝二十三回)。
大関は、神剣(二十歳。初場所中に二十一歳。優勝一回)。北斗王(二十二歳。優勝一回)。
安曇野(二十五歳)。
関脇は、金髪碧眼の白人力士、青翔(十九歳)、高千穂(二十三歳)。早桜舞(はやおうぶ。十九歳)
小結は、もうひとりの金髪碧眼の白人力士、神優(しんゆう、十九歳)、飛鳥王(二十一歳)。萌黄野(二十一歳)
となっていた。
神翔(十六歳)は、この場所が新入幕で東前頭十二枚目だった。十両に引き続き、幕内でも史上最年少昇進記録を打ち立てた。
神王(十八歳)は、入門以来、序ノ口で六勝一敗。七勝(序二段優勝)。七勝(三段目優勝)。五勝二敗。六勝一敗。と続き、初場所の番付では東幕下三枚目だった。彼の思惑とは異なり、星によっては、若旅人と対戦可能な地位であった。
若旅人は、初場所は幕下で七線全勝。春場所は十両で、十五戦全勝で優勝し、翌夏場所の入幕を決めた。
両場所とも神王と対戦したが、常に変わらぬ相撲で、若旅人が勝利した。
神王は初場所、六勝一敗。春場所は、若旅人と十両同時昇進となり、十三勝二敗。夏場所は、やはり若旅人と同時に幕内に昇進した。
夏場所前、国技館で一般ファンにも公開された稽古総見の中で、その時点で四十五連勝に達していた横綱芙蓉峰が、若旅人を相手に指名した。
若旅人が土俵にあがった。
このとき、公開稽古を見守る満員の観衆の間から怒涛のような歓声が轟いた。稽古とはいえ、ふたりの無敵力士の初対戦となるからだった。
両力士が東西の土俵際に立ち対峙した。仕切線に向かって歩を進めようとした芙蓉峰の動きが止まった。若旅人の立ち姿を見つめた。しばし、ふたりの力士が視線を交錯させた。と、芙蓉峰が、若旅人に一礼して土俵を下りた。それをみて、若旅人も一礼して土俵を下りた。
夏場所初日の若旅人の対戦相手は神王だった。神王は三度、若旅人に敗れた。
連勝を続ける若旅人。
七日目、神翔。
八日目、神優。
九日目、早桜舞。
十日目、青翔。
十一日目、神剣。
十二日目、獅子王。
いずれも若旅人が勝利した。
十三日目、初土俵以来三十四連勝を続ける若旅人と、五十七連勝の横綱芙蓉峰が対戦。二十秒を超える相撲となったが、若旅人が寄切で勝利した。
勝ち名乗りを受けた後、若旅人は、国技館の天井で遮られているはずの蒼天をしばし見上げた。
この日、引き上げた支度部屋で、若旅人はその生涯を終えた。
若旅人 稜 191cm 131kg
若旅人 歩 193cm 126kg
神剣 光 191cm 137kg
神剣 光聖 191cm 135kg
神王 光優 193cm 117kg
神翔 光翔 193cm 128kg
桜舞 190cm 157kg
早桜舞 191cm 150kg
青翔 197cm 137kg
神優 195cm 153kg
芙蓉峰 191cm 153kg
獅子王 195cm 173kg
北斗王 192cm 164kg
安曇野 183cm 128kg
高千穂 185cm 121kg
飛鳥王 185cm 117kg
萌黄野 190cn 158kg