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「汝、フルーエティ、我と契約せん!」
高らかに、パトリシオが誇らしさを滲ませた声音で呼ばわる。
――まさかと思った。
悪魔など、本当にいるものなのか。
悪魔信仰はこの大陸のどの国であっても大罪であるが、この闘技場はそもそも無法地帯である。法によってそれを取り締まるのかどうかも知らない。ただし、人の作った法を潜り抜けたところで神が目こぼしをするはずもなかろう。いつかはパトリシオに神の裁きが下る。
しかし、いつか、では遅いのだ。今すぐ、それは行われなくてはならない。
その我欲のために、パトリシオはレジェスを殺した。その事実がここにある。
ルーノは剣を抜こうとした。けれど、あり得ない圧を受けて動きを止めた。水面のように大気が震える。
足元を見ると、パトリシオとレジェスを囲むふたつの円陣のうち、レジェスの亡骸が置かれた方の円陣に煙とも蒸気ともつかない白い靄が発生した。
ドクリ、ドクリ、と心臓が痛いほど力強く脈打つ。これほど極度の緊張をしたのは、いつ振りだかも覚えていない。
この部屋の気の重さはなんだ。パトリシオごときにできる芸当ではない。
ルーノの剣の柄を握る手が定まらない。刃と鍔がカチカチと小刻みに鳴る。
パトリシオは満足げに笑った。
靄が晴れた薄暗い部屋の中、いたはずのない男がそこに立つ。
人に似ているが、とても人とは思えない。ルーノは正直にそう思った。
青味がかった長い銀髪をゆるく束ね、革のような黒く艶やかな服を身にまとっている。体に沿った作りをしたその服は、どこに繋ぎ目があるのかもよくわからなかった。先がやや尖った耳、紫の目――それは美しいと認めてしまっても仕方のない造形をしていた。
悪魔とは禍々しいものであるはずが、人を惑わすためか美々しい見目をしているのだと、この時初めて知った。
悪魔のカッと見開かれた目に、パトリシオは見惚れていた。
「大悪魔フルーエティ……!」
パトリシオはうわ言のようにその名を呼ぶ。しかし、この悪魔をパトリシオが使役するというが、パトリシオにその品格があるだろうか。どれだけ名剣であろうと、美しい鎧であろうと、それに見合った主でなければ意味がない。小物のパトリシオがこの悪魔に相応しい主だとは到底思えなかった。
悪魔――フルーエティは氷像のような面持ちで冷たい声を放った。
「俺を喚んだのは、お前か」
旋律のように美しい、けれど触れれば身を切る弦が爪弾く音のような声だ。肌がぞくぞくと粟立つ。
パトリシオは感極まった様子で喉を鳴らし、そうして答えた。
「そ、そうだ。僕が贄を捧げ、お前を喚んだ。さあ、僕と契約を!」
この契約が成立すれば、ルーノは死ぬのだろう。レジェスの死とそう変わらぬ差で、ルーノも死ぬ。それでも、魂の行き先は違うのなら、死んでも会えない。
会わずともよいのか。会ってもかける言葉もなければ、詫びる言葉もない。
何も気にせず、天門を潜って次なる世に向かえばそれでいい。次こそは人並みの幸せを望めるところへ生を受けられるのなら――。
ルーノはぐっと腹に力を込めた。死がそこに、美しい悪魔がそれを与える。
しかし、フルーエティはクッと小さく笑った。
「俺と契約だと? 身の程を知れ」
「え――」
パトリシオは唖然と口を開く。ルーノは身動きひとつ取らず、動向を見守るしかなかった。
フルーエティは凍てついた面持ちのまま、軽く腕を振るった。すると、レジェスの血で描かれた円陣はチリチリと炎が燃やし尽くし、何もなかったかのようにして消えた。レジェスの亡骸がただ床にあり、フルーエティはそのそばに立っている。
詳しいことはわからない。けれど、あの円陣が悪魔を縛るものであったのではないかと思えた。それがまるで効力がない。つまり、フルーエティはパトリシオの願い通りに縛られてはいないのだ。ただ、そこにいる。
パトリシオは自分の技が及ばなかったことをようやく知った。もうひとつの円陣の中で歯が噛み合わないほどに震え出した。腰が砕け、その場にへたり込む。そんなパトリシオをフルーエティは冷徹に見下ろしていた。
恐怖からか、パトリシオは涙を流し、幼い子供のように首を振っていた。
「そ、そんなっ! 僕の術に綻びなどなかったはずだ! 成功しなかったのは、贄のせいだ! この薄汚いガキがいけないんだ!」
己の未熟さではなく、殺した子供を詰る。どこまでもどこまでも、愚かな、醜い肉の塊――。
ルーノの血が、右腕にすべて集まったかのような感覚だった。どんな瞬間よりも強く、殺したいと願って剣を握った。すると、フルーエティが不意にルーノに目を向けた。それはパトリシオに向けるものよりも幾分かは和らいで見えた。
「そこの剣士。この獣は譲ってやろう」
フルーエティはそう言った。フルーエティにとって、パトリシオは屠るほどの価値もない屑なのだろう。主に頂けなどとは笑止千万、侮辱されたことに怒りはあれど、ルーノに譲ってくれると言うのだ。
相手は悪魔だというのに、ルーノは感謝した。
パトリシオは丸腰だが、卑怯だろうといい。卑怯なのは同じだ。
試合の舞台ほど広いわけではない室内で、ルーノは最小の動きでパトリシオの腹に剣を突き立てた。床に縫い留めるつもりで、柄頭に体重を乗せる。憎しみが、剣を折ってしまうのではないかというほどの力を加えさせる。歯を食いしばり、そうして、臓物が破れたパトリシオが喀血する様を食い入るように見つめた。溢れる血の中、歯の白さだけが際立つ。
斬りたくはなかった。貫いてやりたかった。この鈍い刃で、拒む肉を破って命を削ってやりたかった。惨たらしく死ねと。
パトリシオが絶命する瞬間を感じた。喜びよりも、言いようのない何かが喉に詰まる。ヒュッと短く息を吸うと、ルーノは剣の柄から手を放した。
悪魔を前にして武器を捨てた。もとより、この程度の武器で悪魔を倒せるとは思っていない。大陸を滅ぼしたような悪魔なのだ。この闘技場も何もかも消し飛ぶのだろう。次に死ぬのはルーノだ。
けれど、それでいいと思えた。
死を前に、ルーノは膝で歩き、レジェスの骸のそばへ行った。どす黒く、死臭すら放つというのに、パトリシオの骸ように塵だとは思わない。ただ、憐れだと思う、そんな自分にも驚いた。
幼い、弱い、レジェス。
手を伸ばし、小さな体を抱き起した。血をたくさん流した骸にぬくもりはない。
庇って戦っているつもりが、ルーノはいつしかそれが嫌ではなかったのかもしれない。護る者がいるから生きていた。生きる理由をくれた。
――いいんですよ。
そんなふうに言ったレジェスの顔が思い起こされる。護ってやれなかった。ルーノが死ぬのなら共に死ぬのも覚悟の上だと言ったのに、ルーノは生きて、レジェスだけが死んだ。
どうしようもない罪悪感に襲われた。
今さらそれを感じること自体がおかしい。色んなものを諦め、そうして今のルーノがいる。感情の起伏も人らしくは戻れないと思った。
それなのに、レジェスの死に涙が零れた。まだ、自分は人であったのかと自嘲する。
すると、そんなルーノの背に悪魔が言った。
「多くの命を奪ったお前でも、近しい者の死には心を痛めるか」
まるでルーノの行いを見ていたようだ。そんなはずはない。悪魔は天から見下ろす存在ではない。地の底からも人の罪が見えるとでも言うのだろうか。